2008年11月24日月曜日

「文化」に関する脱臼的駄文

[このブログで、私はしばしば(というよりしょっちゅう)生煮えの考えを書きつけています。今回は特にそうで、とにかく私が感じたことを文章にしようとしましたので、主張は二転三転し、あちこちで論旨は「脱臼」しています。というより私は明快な論旨を自ら「脱臼」させることを目指していました。この前書きでも「脱臼」という言葉を繰返し「脱構築」と言わない謙虚な身振りの嫌らしさもこのエッセイは含んでいます。そのような試みに興味のない方はどうぞこの記事は読まないで下さい。]





私が見たその小学校の英語授業は、現在全国各地で展開されている研究授業の好例と言えるのかもしれない。その小学校は、校長以下の教員集団の力で小ぎれいに保たれ、児童も明るい表情を見せている。研究開発指定校ということもあり、周りの人々の関心も高く、研究授業は普通教室よりは一回り大きな図書室で行われたものの、参観者はその部屋にも入りきれないほどであった。

その注目の中、チャイムが鳴り、授業が始まる。19世紀ヨーロッパの例にならって作られ、その後の独自の発展を経て、今や日本の「伝統」となった制服を着た児童が一斉に立ち上がる。子ども達の視線が注がれるのは、日本人担任教師の横に立つイギリス人教師(ALT)である。児童の制服姿や、観衆のスーツ姿に比べると明らかにゆるいドレスコード(しかしおそらくその場の誰もが不快には思わない選択)の服装でリラックスをした表情を保つ彼は"Hello, guys!"とコミュニケーションを開始する。それに応じるのは"Hello, Mr. ..."という一斉唱和の英語表現である。この周りと呼吸を合わせる感覚は教室文化そのものである。

最初のこの挨拶の頃は、児童もまだ多くの観衆の存在に緊張していたのかもしれない。だが活動が進むにつれ、子ども達はリラックスしはじめる。日本人教師もイギリス人教師も特に指示していないのに、子ども達のジェスチャーは、日本語の言語生活ではあまり見られないぐらいに豊かになる。

その身体行動の「豊かさ」は、別の角度からすれば「大げささ」となるのかもしれない。イギリス人教師の好みで数ヶ月前からこのクラスでの定番となった"Hoo!"というかけ声は、子ども達に屈託なく使われている。それどころか、数ヶ月前は決してそのような気勢を上げることのなかった日本人教師(中堅の女性)までもが今は"Hoo!"と裏声をあげている。

彼女にしてもここ一年半あまりの経験である英語授業は、自己変容の経験であったであろう。教師が英語コミュニケーションを教える中で、戸惑いながらも行動様式が変わってゆくのは、小学校だけでなく、中学校や高校でもしばしば観察されることである。文法訳読式という日本語使用を基盤とした安定した行動様式から英語教師が引き離され、彼/彼女らが英語使用をほぼ常時要求される時(そしておそらくは彼/彼女らが自ら英語使用をほぼ常時自らに課す時)、彼/彼女らの身振りや表情そして声の表情や使い方は、それまでの日本語文化の影響下のものから大きく変わる。

子ども達は、大人ほどに戸惑いなく身体様式を変える(無論、子どもの中にも変化を拒む子もいるのだが、ここでは話を簡単にするため、そういった個性記述には立ち入らないでおこう)。この授業の子ども達にしても、「ボランティア」発言を求められると--この「ボランティア」という概念もなかなか大和言葉では表現できない--「ハイ、ハイ」とひな鳥が餌をねだるように手を挙げ、次々に自らの英語を紅潮した顔で披露する。授業最後の「ふり返り」では、ジェスチャーが豊かだった子を褒める発言が次々に続き、それには自然といえるぐらいの同意の拍手が注がれる。子ども達は、それが教えられたものであれ、自発的に学び取ったものであれ、自分たちの身体作法の変容を肯定的に捉えている。

肯定的に捉えているのは子ども達だけではなかった。私が観察した限りでは、「英語教育導入」という国策を一身に背負うような形で教室に登場した(しかしリラックスした服装と雰囲気をもつ)イギリス人男性がもたらした、日本語文化よりは大きく、制限の少ない身体行動様式は、観衆である保護者や他校の教師にも肯定的に受け入れられていた。彼の大きな動きと声は観衆の笑顔に迎えられていた。彼につられて、子ども達も日本語文化ではなかなか見られないぐらいに身体と声の動きの振幅を大きくすると、観衆の笑顔はいっそう明るくなった。多くの大人がこの子ども達の変容に肯き、未来への希望さえ感じているようにも思えた。

この子ども達の変容は「解放」なのだろうか。

明治以来の「脱亜入欧」、「西洋化」、「国際化」、「グローバル化」--これらの言葉はいつ頃言い換えられてきたのだろう--によって日本人が「自由」になってきているのだろうか。

しかし敢えて逆の見方をすれば、これは日本文化の--それが何を意味するものであれ--「破壊」とすら言えるのかもしれない。江戸時代の身体文化の多くを日本人は失ってしまった。その喪失はこれらの「破壊」によってもたらされたという議論は可能だろう。

いやこの文化変容を「解放」とか「破壊」とかの、一面的な価値を担った言葉で語るべきではないのかもしれない。ちょうど生物の進化が、道徳とか善とかの価値とはまったく無関係に展開するのと同じように、こういった文化変容もただ起っていると言うべきなのかもしれない。

だが人間の自己同一性の大きな基盤となる文化の変容を、生物進化と同じように扱っていいものなのだろうか。私たちは文化に関して確固たる方針を必要とするのではないか--こういった反論は十分に可能である。

だがその確固たる方針とは何なのだろうか。それは日本文化の「解放」を進めることなのだろうか。それともその「破壊」を阻止することなのだろうか。

しかしある種の人々は「解放」を求め、ある種の人々は「保守」を求める。いや(私という人間を観察してもそうなのだが)一人の人間もある時には「解放」の喜びを感じ、ある時には「保守」の喜びを感じる。

そうなると「文化に関する確固たる方針」とは何なのだろう。もしそれが国を挙げての一律の、曖昧さや矛盾を許さない、一方向への邁進なら、それは怖い。大石五雄『英語を禁止せよ』(ごま書房)が教えてくれることは、日本人が日本人としての自覚を高め、この上なく一致団結しようとした時代をあげるとすれば、それは昭和13年からの数年間だということだ。しかしその時代は日本史の中でどのように評価されるべき時代なのか。

さらに「西洋」対「日本」という構図についても考え直そう。「解放」にせよ「破壊」にせよ、これらの言葉は、あたかも彼方に「西洋」という動作主(agent)があり、此方に「日本」という被動者(patient)があるような図式を私たちの思考にもたらす。しかし「西洋」は現在においても不動のままであり、「日本」(あるいは「東洋」)だけが変化を被っているのだろうか。

大きな議論はできないので授業のことで語ろう。件のイギリス人にしても、この日本での英語教育経験で何も変わらないままなのであろうか。教師の指示で、床にひざまずき、さっきまで座っていた椅子を机にして一斉に授業のふり返りを書く子どもを前にして、あるいは授業が終わればこれまた教師の指示で観衆に"Thank you.  Bye, bye!"と一斉に集団で英語を発話する子どもの姿を見て、彼はどう感じたのだろうか。彼はこの日本の体験でもまったく変わらないのだろうか。こういった日本の行動を見ても、特に何も感じなくなるぐらいの変容は彼も経験するのではないだろうか。

仮に「イギリス文化」と「日本文化」という言葉を使うにせよ、これらの二つの文化はおそらく「共変」している。同じ経験を契機にして、それぞれがそれぞれに変容している。経験の前後でまったく変化しない「自己同一性」は二つの文化で保たれているのだろうか。

そもそも「イギリス文化」や「日本文化」という概念こそは、「自己同一性」を私たちが想像し、創り上げなければ保てないものではないのか(近代国家の成立時に、それは必要なことであったにせよ)。その「イギリス文化」や「日本文化」を、それらが交わった後にでも「自己同一性」が保たれているものと考えることはどのような思考様式なのだろう。その思考様式は何のために保たれるべきなのだろう。どのような機能を果たすのに有効なのだろう。

「異文化交流」という言葉は、二つの文化が、それぞれにとって「異なる」文化と接し、そしてまた元に戻るといったイメージがあるように私には思われる(そもそも"intercultural"という言葉がどうして「異文化」という日本語になるのか私にはわからない)。上記の英語授業にせよ、「異文化」が接し、そして授業の後には、またそれぞれの文化は元に戻るのだろうか--他愛のない無害な思い出だけを残しながら--。

ひょっとすればこの英語授業にしても「異文化交流」ではないと言うべきなのかもしれない。ただ文化が変容しているだけなのではないか。そして文化とは常に変容を重ねてゆくものなのではないか。

文化(culture)は英語では可算名詞でもありうる。しかしそれはどのような意味で数えられるのだろう。私たちは文化を数えられるもの、つまりは離散的で、自己同一性を保つものとして捉えようとする時、どのような決定をしているのだろう。その決定の中で、どのような権力(power)が働いているのだろう。

文化を可算名詞として考え、自らと「異なる文化」と接するなどと語る時の政治学(politics)とは何なのだろう。私たちはそのような言葉遣いによって、どのような権力(power)配置を保とうとしているのだろう。

逆に言うなら文化を不可算名詞として扱い、文化を一でも多でもないものとみなす言葉遣いをしようと私たちが決意するのなら、それはどのような政治行為なのだろう。私たちはその時、どのような権力を創り上げようとしているのだろう。

この駄文を書き終えようとしている今の私は、文化を不可算名詞として考える用法に惹かれている。文化を誰かが、一律一様に決定し、その決定によって「他」にして「異」なる文化を創り上げてしまうシステムの暴走を怖れるからだ。

だがそうだといって私が言葉の警察になるわけでもない(そちらの方がはるかに怖ろしいことだろう)。私とて文化の内に区分を引き、「こちらの文化」と「あちらの文化」というように、文化を可算名詞として使うこともあるだろう。

しかしその離散性や差異は、決して固定的なものでも決定的なものでもない。次の機会に、きっと私は異なるやり方で文化を数えていることだろう。いやまた文化という言葉を不可算名詞として使っているかもしれない。

私という人間の中で、文化は多種多様に理解され使用される。私をほんの一人としかしない社会の中で、文化はさらに多種多様に理解され使用される。文化は様々に受容され、様々に抵抗される。私たちはそういう「文化」という得体の知れないものを、一律にコントロールしようとするのではなしに、ただそのあり方と変容に対して、そのあり方と変容を規定している私たちの言語使用に注意しながら、自覚的であることだけを目指すべきではないのか。








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2 件のコメント:

さんのコメント...

 突然にすみません。学部生四年の永井です。私は柳瀬先生の論考をHPにてよく拝見させていただくのですが,柳瀬先生の考えからインスピレーションを受けた私の考えを柳瀬先生に批判的に見ていただきたく,書き込みをさせていただきます。学部生でまだ知識も経験も浅薄で,柳瀬先生の真の論点とはだいぶずれることもあると思いますが,学部生の育成と思って,ここは一つ寛大な心で,建設的なアドバイスを是非頂けたらと思います。
 私も最近「異文化交流」,「異文化理解」などという怪しげな言葉にとても疑問を感じています。
 そもそも文化を理解するなんて大それたことは可能なのでしょうか?英語教育においては「異文化理解」という言葉が,あくまで実現可能なもののように語られますが,その「異文化理解」という言葉そのものについての議論は英語教育界においては全くと言って良いほど見られません。
 ALTと交流したからと言って,教科書を通じて諸外国の現状を知ったからと言って,本当に異文化を理解したと言えるのでしょうか?というよりそこに英語教育の本当の意義があるとは思えません。
 特に英語教科書を通じて,諸外国の文化を知識として知ったところで,そこに英語教育の意義はないのではないでしょうか?異文化を知識として知るだけならば,社会科でも国語科でも出来ますし,英語科でやる必然が全く感じられません。
 ALTに関しても,自分たちとは肌の色も目の色も違う人間が他の言語を話していて,面白いと感じても,それはそれだけのことで,本当に私達に何か変容は起きているのでしょうか?
 私は英語科でやらなければならないことは,英語そのものを異言語として客体化して認識し,英語そのものを考え,その裏にあるその言語固有の思考を知ることであると思っています。
 また,言語と思考は切り離せないものであるということはソシュールを始め著名な学者が多数述べているところでもあります。
 そうであるならば,英語そのもを学ぶと言うことは英語を話す人の思考を知るということであり,そこにこそ英語教育の意義があるのではないでしょうか?
 「Hoo!」と言えるようになったからと言ってその人が本当に変容したと言えるのでしょうか?
 それはただ経験的に慣れただけであって,何の変容も起きてないように感じられます。
 そういう意味では,今の小学校の英語教育などは文部科学省が理念として掲げていること(ことばへの感性を高めるなどの文言)と,実際に行われていることは乖離しているように感じます。
 私は異言語そのものを学ぶことを通じて異文化を理解するということで真に変容は可能であると考えています。
 そういう意味では文化を個別のもの,つまり可算名詞として捉えているのでしょう。
 というより,言語が異なる個別のものであるという事実こそ,言語と思考・文化が切り離せないということを認めれば,必然的に文化も個別のものであるということだと思います。
 だからこそ,異言語そのものを学ぶと言うことに「異文化理解」の可能性が秘められているのではないのでしょうか?
 そういう視点で考えるなら,今の運用能力偏重,そして表面的な知識としての異文化理解という捉え方をしているように感じられる日本の英語教育にはやはり何かしら問題があるように感じます。

柳瀬陽介 さんのコメント...

永井君、
コメントありがとうございます。学部生でも私のブログを見てくれている人はいるのね(笑)。

文化に関しては本質的主義的な論考(○○文化には固有の特徴がある)と構築主義的な論考(○○文化なんて、言説が創り上げているだけだ)のスタイルがあるかと思いますが、日本の英語教育では前者の考えが強すぎるので、後者の考え方による批判的な反省が必要かと思います。

>
私は英語科でやらなければならないことは,英語そのものを異言語として客体化して認識し,英語そのものを考え,その裏にあるその言語固有の思考を知ることであると思っています。
>

なるほど私も賛成します。しかし同時に「国語(日本語)そのものを異言語として客体化し・・・」というのも必要かと思います。

"Hoo!"の例は、第二言語獲得が身体様式を変えてしまう好例として私は取り上げました。身体が変わるということは、思考が変わるのと同じぐらいに大きなことかと私は思っています。

可算名詞・不可算名詞のことですが、私は上記の駄文をデリダの「言語とは可算名詞なのか?」という問いに触発されて書きました(←とても安直)。

私はデリダを、翻訳書だけで読んでいるだけですが--そしてなかなか咀嚼できずに苦しんでいますが、デリダはおそろしく真面目な人で、やはりきちんと理解しておかなければならないと思います(私はルーマンを読んで、デリダの重要さを直観しました)。

言語教育を運用能力中心で考えるというのは、私の癖でもあります。この癖も是正したいのですが、勉強が足りず、なかなかうまくゆきません。


私の方こそとりとめのない文章になりました。どうぞお許しを。