2018年6月11日月曜日

南風原朝和(編) (2018) 『検証 迷走する英語入試―スピーキング導入と民間委託』岩波書店



「日本人は英語がしゃべれない」という思いは広く国民に浸透しています。もちろん実際にはそれぞれの持場で英語を使いこなしている日本人は多くいます。しかしそれらはまだ例外というべきで、「とにかく英語教育をなんとかしなければ!」といった声は国民の共感を得やすいものです。おそらくはその結果として、これまで英語科は学校教科の中でももっとも多くの「改革」を施されたといえるでしょう。

その「改革」の最新版とも言えるのが、2020年度に実施される大学英語入試改革です。英語入試では、八種類の英語民間試験のどれかを、「大学入学共通テスト」(現在のセンター試験の後継試験)に加えて、あるいはその代わりに受験しなければならないというものです。(注)また、2024年からは「大学入学共通テスト」が廃止され英語入試は民間英語試験だけにされます。
(注)八種類の英語民間試験とは、ケンブリッジ英語検定、TOEFL iBTテスト、IELTS、TOEIC、GTEC、TEAP CBT、実用英語技能検定ですが、これらの中には級別受験のものもありますので、それらを合わせると23種類の試験があることになります。

しかし、本書が教えてくれることは、この改革が以下の点で大きな問題を含んでいることです。

以下は私のまとめです。番号付けはまったく私の恣意的な構造化で、必ずしも包括的なまとめにはなっておりません。また、私のことばを補って論点を拡充してしまった箇所も少なからずありますので、この件についてご興味をお持ちの方はぜひ本書を実際に手にとってお読みください。



1 政策的妥当性のへの疑義
1.1 不透明性:政策決定が急激かつ不透明。 (pp. 5-15, pp. 21-24,  p. 70, 巻末の年表)
1.2 応答責任の欠如:改革スケジュールありきで、多くの疑問がすでに表明され、文部科学省もそれに満足に答えられていないのに、実施延期も含めた対応すらも検討されていように思われる。 (p. 25, p. 39,


2 教育の私事化 (privatization)による社会的公正性の毀損
2.1 経済・地域格差を教育に導入:受験生の経済格差・地域格差が民間試験を受験できる機会の数に反映され、都心部に住む裕福な家庭の学習者は練習のために何度も試験を受け入れられるが、地方の経済的に豊かでない学習者には実質的にはそのような機会がない。 (p. 20, pp. 30-32, p. 37,
2.2 英語学習のビジネス化:不安をあおるような紋切り型の英語教育批判によって、ますます学習者が英語ビジネスの消費者にされている (p. 73)

3 科学的・実務的合理性の欠如
3.1 科学的合理性の欠如:異なる民間試験のスコアとCEFRのレベルを対応させる対照表が何度も変更されるなど、スコアを共通化する根拠が極めて脆弱、あるいは端的に欠如している。(pp. 18-19, pp. 41-55)
3.2 「四技能均等評価」の根拠がない: 今回、文部科学省は四技能のスコアを均等にすることを原則としているらしいが (p. 50) 、その均等化=平均化は機械的・形式的になされているだけである。(※この点のまとめには特に私の見解が強く入っていますのでご注意を)
3.3 実務的合理性の欠如:入学試験は、能力試験や学力調査とは比較にならないほどの厳重な実施体制が必要なのに、大量の受験生に対して公正な受験環境を提供できる目安が立っていない。 (pp. 56-66, pp.100-102)
3.4 改革導入の必然性の欠如:共通試験と個別試験の組み合わせで入学者選抜の多様性を保持するこれまでの日本の大学入試の基本姿勢を崩す積極的な理由が見当たらない。 (p. 104)


4 教育学的問題
4.1 英語教育内容の歪曲高校英語教育がテスト対策(定型的な問答パターンの習得、あるいは「分断型のスキル修得」)に傾くことが予想される。 (p. 29, p. 70)
4.2 テストによる権力的恫喝:テストの導入によって学習者や教師の行動変容を強制的に変容させようとしている。(p. 105)

4.3 高大接続問題をテストだけで解決しようとすることの間違い:そもそも高大接続とは、初等・中等教育と高等教育という異質の教育課程の間をつなぐ問題であり、高大接続問題を一発勝負のテストの改革だけで解消しようとする現代日本のやり方がおかしい。進学予備課程(英、独)や旧制高等学校・大学予科(戦前の日本)、あるいは(専門に分化されていない)大学学士課程(米)を見てもわかるように、本来、高大接続は一定期間の教育課程を通じて行うものである。慎重さを欠く短絡的なテスト改革で高大接続問題のすべてを解決してしまおうとすることは大きな弊害を伴う (pp. 89-96, p. 103)

5 高校現場での懸念
5.1 不要な混乱の導入:現在少しずつ改善している英語教育の充実を待たずに、性急に「テスト導入によって学力を高める」ことを強行するのは混乱を招くだけ。 (p. 26, p. 36)
5.2 高校の教育活動への支障:複数の民間英語試験を受験することにより高校の学校行事や部活などの特別活動に支障がでる。 (p. 33

6 言語観からの批判
6.1 思考停止的スローガンの連呼:「スピーキングのテストをすればスピーキング力が上がる」や「しゃべれないことが諸悪の根源」といったきわめて浅薄な言語観に基づいている (pp. 71-72, pp. 79-88)
6.2 定型化によるコミュニケーションの歪曲:民間テストで測る技能は、実施や採点の都合のため、問題のパターン化が避けられず、実際のコミュニケーション状況の忠実な反映にはなっていないことが理解されないまま改革が進行している(※この点のまとめにも特に私の見解が混入していますのでご注意を)。 (p. 75, pp. 81-83)



と、私の個人的なまとめを書きましたが、本書に戻りますと、この本は南風原朝和先生(東京大学高大接続研究開発センター長)による第一章「英語入試改革の現状と共通テストのゆくえ」 (pp. 5-25) と宮本久也先生(前全国高等学校長協会会長)の第二章「高校から見た英語入試改革の問題点」 (pp. 26-40) がこの問題の全体をうまくまとめています。

羽藤由美先生(京都工芸繊維大学教授)による第三章「民間試験の何が問題なのか」 (pp. 41-68) はCEFR対照表作成と試験選定過程のずさんさを、阿部公彦先生(東京大学教授)による第四章「なぜスピーキング入試で、スピーキング力が落ちるのか」は民間試験導入の掛け声の浅薄さを、それぞれ見事に解明しています。これらは上記のように短くはまとめられませんのでぜひ本書をお読みください。

荒井克弘先生(大学入試センター名誉教授)に第五章「高大接続改革の迷走」 (pp. 89-105)は個人的には一番勉強になった章でした。100ページあまりの本書からの直接引用はできるだけ控えたいのですが、本書の最後の荒井先生のことばだけは引用させてください。この引用を読み、本書を最初から読み、そしてこの引用のことばの重さを実感してください。

記述式も英語四技能テストも、教育を変えるためのカンフル剤だという説明は、もはや聞き飽きた。国民が納得できる説明をできないのであれば、それは公正ではない事情に依っていることになる。試験は教育の成果の、それも一部を測る道具にすぎない。試験で教育を変えることはできない。試験を恫喝の道具に使ってはいけないのである。 (p. 105)



追記
このまとめは、下記のイベントに登壇するための準備の一環ですが、私はそのイベントでは特に、(1) 教育の私事化という新自由主義的傾向の加速、(2) 科学的・現実的合理性を凌駕しようとしている政治権力、(3)「四技能の均等評価の原則」といった平均主義的思考、(4) 定型化によるコミュニケーションの歪曲などについて語ろうと思っています。(1) と (2) は社会全体にわたる大きな論点です。 (3) と (4) は、私たちの思考上の盲点になっているかと思います。前者を中心に語るか、後者を中心に語るか、まだ決めかねているところです。

私はもとより英語教育を推進する立場にあり、また個人的にもその信念を有していますが、この改革に関しては問題点が多く、とても賛成はできません。


外国語メディア学会(LET)第58回全国研究大会
パネルディスカッション
「大学入試改革は、高校英語教育での四技能統合を推進するのか?」
(登壇者:柳瀬陽介・寺沢拓敬・松井孝志・亘理陽一)


追記2
上のまとめにはこの記事の初掲載後、一部修正を加えました。


関連記事

Shohamy (2001) The Power of Tests のPart Iのまとめ
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「テストがさらに権力化し教育を歪めるかもしれない」(ELPA Vision No.02よりの転載)
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小泉利恵 (2018) 『英語4技能テストの選び方と使い方』 アルク
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Introduction of The End of Average by Todd Rose (2017)
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いかにして私たちの世界は標準化されてしまったのか Ch.2 of The End of Average by Todd Rose
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/04/ch2-of-end-of-average-by-todd-rose.html






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関連引用

日本国憲法

第二十六条 すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。

第十二条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

第十五条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

教育基本法

(教育の機会均等)
第四条 すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
2 国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。
3 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が困難な者に対して、奨学の措置を講じなければならない。

(教育行政)
第十六条 教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。
2 国は、全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない。
3 地方公共団体は、その地域における教育の振興を図るため、その実情に応じた教育に関する施策を策定し、実施しなければならない。
4 国及び地方公共団体は、教育が円滑かつ継続的に実施されるよう、必要な財政上の措置を講じなければならない。



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