2016年8月13日土曜日

「テストがさらに権力化し教育を歪めるかもしれない」(ELPA Vision No.02よりの転載)

この度(といっても発刊は少し前のことなのですが)、特定非営利活動法人「英語運用能力評価協会(ELPA)」(http://npo-elpa.org/)の広報誌 ELPA Vision No.02に「テストがさらに権力化し教育を歪めるかもしれない」という短い文章を掲載させていただきました。


ELPA Vision No.02


事務局の許可を得て、上の広報誌のうち、私の文章だけを以下に転載させていただきます。

私の文章は以下の通りですが、この広報誌には私のも含めると5つのテストに関する小論が掲載されています。

それに加えて、英語運用能力評価協会(ELPA)事務局が作成した「高大接続改革における英語4技能テスト(外部テスト)の行方と課題」は昨今の動向をうまくまとめてありますし、文部科学省が発表した一連の文書のURLリストは非常に便利です(文科省のサイトから文書を的確に探すのは必ずしも容易な作業ではありませんからね)。また、ELPA編集部による「英語の4技能を測定する外部試験の比較表」も便利なものです。

ぜひ上からダウンロードして、御覧ください。

それでは拙論です。



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「テストがさらに権力化し教育を歪めるかもしれない」

柳瀬陽介(広島大学)


紙幅が限られているので、抽象的な表現となってしまうことを最初にお詫びしておく。今後の英語教育界は以下のような論理で動いていくように私には思える。

(1) テストで四技能を評価することにより英語コミュニケーション能力がほぼ十全に評価できるようになる。

(2) そういった四技能テストは複数ありうるが、それらの得点は定式化された相互換算表により標準化・一元化された数値やレベルで表現できる。

(3) 標準化・一元化された数値やレベルこそが、英語教育の価値を客観的(あるいは科学的に)表す尺度となる。

(4) 学習者個人が受験校合格や奨学金など、学習者を育てる組織(学校や学級)が予算・人員や賞賛などの権力を獲得できるかどうかは、その尺度での達成度によって決定されるべきであり、その他の客観的・科学的でない方法で決定されるべきではない。


しかしこれらの論理には疑義が加えられる。
(1)’ 四技能テストが評価できるのは、私たちが想定する英語コミュニケーション能力の一部にすぎない。なぜなら、リーディングとリスニングが一つの正解しか認めない多肢選択方式で問われるなら、現実世界でしばしば争点になる含意をめぐる多面的な解釈を問題にすることができなくなるからであり、スピーキングやライティングのテストで評価できるのも「よくある話」を適当に産出できるかのみだからだ。自分に忠実でありながら、特定の時空で特定の相手に対して何をどのように言うかという現実世界のコミュニケーションの条件が、四技能テストでは捨象されている。四技能テストでのある程度の得点は、実際の英語コミュニケーション能力の必要条件ではありえても、十分条件ではありえない。

(2)’ 複合的な社会の変化に対応するためには、人々が均一化するのではなく、個々人が個性を発揮しながら社会全体として多様性を活かすことが必要である。評価もできるだけ多元的であり多様であるべきだ。しかし、標準化・一元化の推進はそれとは反対方向にある。標準化・一元化の動向は学習者の学びのためというより学習者と教師の管理のためではないか。

(3)’ ここで「客観的」とされるのは、過去のデータから推測される点数の相互換算関係だけだ。そもそも「客観的」な得点は、学習者が自らの心身で感じる喜びという価値 (worth=真価) を示したものではない。それどころか、自分の学びの価値を、もっぱら外から定められる「客観的」な得点だけに見出そうとするなら、それは学びにおいて主体性を喪失する疎外へとつながりかねない。世評への隷属ともいえるだろう。

(4)’ いかなるテストにも高得点獲得のための対策を行うことが可能であろうが、テストの権力性が高まれば高まるほど(high-stakesになればなるほど)テスト対策がはびこり、教育の営みが歪められる。


以上、観念的に聞こえたかもしれないが、これらの疑義はきわめて常識的な感覚であると筆者は考えている(紙幅があればもっと平易に説明したいのだが)。もしこれらの疑義にもかかわらず、(1) ~ (4) の論理がやたら推進されるとすれば、次の疑問はこれだ。「英語四技能テスト推進言説の背後にあるのは何か?そこには何らかの権力奪取・増強の狙いがないか?その陰で本来もつべき権力を奪われる者は誰か?」




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テスト推進のための文章を書く人ならいくらでもいるのに、私のようにテスト推進に対して批判的な --ある出版社いわく「癖の強い」w-- 人間の論考を敢えて掲載してくださったELPA様には感謝します。

これまた「癖の強い」人間の妄言と思ってくださって結構ですが、昨今の日本の英語教育界は、学界も出版界も「長いものには巻かれろ」、「流れには逆らうな」といった傾向にどんどんと流れているような気がします(もっとも下のような骨太の本の刊行もありますから、一概には言えませんが)。


 


研究や教育という公務に携わる人間としては、それぞれの頭で考えたことをお互いに率直に語り合い、批判すべき点は批判し、推進すべき点は推進するという是々非々の文化を大切にしたいと思います(やっぱり癖が強いなぁwww)。



関連記事
「リスト化・数値化の危険性」
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2015/08/blog-post_31.html





1 件のコメント:

Bridge さんのコメント...

県の英語教員研修会(県教委主催の)に行ったところ、入試の英語がTOEFL TEAPなどの資格試験や客観テストに変わっていくことを「よいことだ」と考える先生が多くてびっくりしました。というより、集まった人たちは英語教育が今後「どうなるか」ばかりで「どうするか」という視点がほとんどないことに驚きとともに危惧を覚えました。客観テスト対策に終始する英語授業なんて、異文化を理解したり文学を味わったりということが捨象されて、人格の完成とはほど遠い英語教育になってしまうのではないかと思います。