2015年8月31日月曜日

「リスト化・数値化の危険性」

以下の文章は、三友社『新英語教育』2015年7月号の19ページに、「どうする日本の英語教育」のシリーズ第16回目として「リスト化・数値化の危険性」という題名で掲載していただいた私の文章です。出版から少し時間がたちましたので、編集部との予めの合意に基づき、このブログにも掲載します。


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  昨今、教育の目標をリスト化・数値化することが流行っている。英語教育だと、Can-DoリストやTOEFLなどの資格試験が教育の目標だとされる。だが、この流行は怖い。この怖さは、道徳の教科化・点数化と同じだ。誰も道徳の重要性は疑わない。ただ、道徳の内容を、ここからここまでと限定し、その内容をテストで問うて点数化することは危険だ。

  この危険性がわからない人は、理念と概念を混同している。カントは『純粋理性批判』で感性・知性・理性の区分を説いた(翻訳を読むなら中山元氏翻訳の光文社古典新訳文庫 版がお薦だ)。感性とは直感のレベルで気づく働きである。知性はその直感を分析し概念とする。筆者は写真好きなのでそれで例を出すと、ぶらりと散歩をしていて「おやっ」と直感的に気づくのが感性であり、直感の正体を「逆光で輝く木の葉」だと概念にするのが知性である。その知性の概念をさらに抽象化して考えるのが理性である。「逆光で輝く木の葉」といった概念をさらに抽象化し「美」を考えることが理性といえる。概念が高度に抽象化され具体性を失った時、それは理念と呼ばれる。人は概念で具体的な手続きを行い、理念で抽象的な指針を得る。

  道徳は理念である。理念は具体的な概念の単なる集合ではない。「道徳とは、次の1~10を行うことです」などと具体的な項目(概念)にリスト化できない。リストを超える深みをもつのが理念だからだ。問うても問うても、さらに問いが出てくるのが理念であり、その問いの連続が私たちを導く。

  理念は、問えば具体的な答えが必ず出てくる概念とは異なる。テストの得点で表せるのはせいぜい概念の理解にすぎない。テストで理念について測定できると考えるのは愚かである。ところがその愚かな試みが権力をもちはじめると怖い。理念の極めて歪んだ単純化にすぎないテスト得点が、理念を体現するものとして過大評価される。道徳のテスト得点が低ければ、その人の人間性が疑われる。要領よく高得点を取る者は、高潔の人物とされる。概念と理念を混同して、リスト化・数値化を進めれば、私たちの営みが歪められてしまう。

  さて、英語教育では「コミュニケーション能力」が話題だが、これについてそれなりに研究を続けている私の見解は、これは理念であって概念ではないということだ。もちろん私たちは、ある具体的な課題でもってコミュニケーション能力の高低を語る(例えば「印象的な自己紹介ができる」など)。だがその課題(自己紹介)ですら抽象性が高く、具体的に考えてゆくと、何をもって「印象的」とするか、「いつ・どこで・誰に」自己紹介することを考えればよいのか、話し方は朴訥であってはいけないのか、などと、概念化ですら容易ではない。それを点数化しようとすればいわゆる「総合的判断」をするしかないのが実情だ。だがそんな判断は「主観的」だと批判され、誰でも同じ結論が出るような判定基準が概念として定められ、それが「客観的」だと称される。

  そんな課題を集めたテストは「コミュニケーション能力」を客観的に測定する指標とされるが、そんな課題概念の集合は「コミュニケーション能力」理念を過不足なく表してはいない。理念としてのコミュニケーション能力は、奥の深いものであり、誰もそれをリスト化・数値化し尽くせない。それをあたかも語り切り数値化できるように主張することが進歩ならば、そんな進歩は世の中をおかしくする。テストで道徳やコミュニケーション能力を測定できると主張するのは、理性を欠いた知性の暴走である。

理念を概念と混同することを、進歩とか学問などと呼んではならない。そもそも「誰でも同じ結論が出る」とは「バカでもわかる」ということだ。バカでもわかる物差しばかり使っていれば、私たちは皆バカになってしまうだけなのに。



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英語教育は、学校教育の中でも特に時流に流されやすい教科だと思われます。そうであれば、その「時流」とは何であり、それが何故大きな力となっているのかを理解しておくことが重要かと思い、下記の本でも多くのページを割いて、現代の流れに関する考察を加えました。未読の方、お読みいただければ幸いです。








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