私が自分自身で経験則としてできるだけ順守している一つに、「カタカナ語、特に流行しているカタカナ語は信頼するな」というものがあります。日本語の言語文化で十分咀嚼されて翻訳されないままに広く通用しているカタカナ語は、往々にしてその概念が未消化で曖昧なままに使われているというのが、私の個人的な信念です。
だから、私はカタカナ語の使用に対してはできるだけ警戒的であり、時に愚かなぐらいにカタカナ語を和語もしくは漢語的な日本語に翻訳する試みを続けています。とはいえ、そもそも私の主要関心である「コミュニケーション」をうまく翻訳できないわけですから、この経験則は墨守している鉄則ではありません。しかしながら、私は可能な限りカタカナ語を、生活実感を伴う日本語に翻訳する努力は続けています。
現在、8/10(月)に大阪で開かれる講演会・ワークショップ(下記参照)の準備をしていますが、その中でダマシオの "image" という用語が重要であることがわかってきました。この語は通常そのまま「イメージ」とされ、このカタカナ語はずいぶん日常的にも使われていますが、あまりにも漠然としていているように思えます。また、時にこの語は「心像」とも訳されますが、私にとってこの漢語もしっくりきません。
では何がよいのかと数日考えていたら、案外、「想い」がいいのではないかと思えてきました。考えてみれば"imagination"は「想像力」(あるいは「構想力」)と訳されますから、「想」の字を使うのは合理的なのかもしれません。(その他には、「映り」「心映」「意念」「何か」などを候補として考えましたが、これらはどうもしっくりきませんでした)。
しかし、この「想い」という翻訳語が、ダマシオが使っている意味での"image"に適っているかを点検しなければいけません。
そこで私の英語ブログでのダマシオのまとめの記事を、いったんワードファイルにまとめ(合計70ページになってしまいました!)、それを通読し、特に"image"が使われている文章で、その意味を「想い」という日本語に翻訳してもいいものかを吟味しました。
A summary of Damasio’s “Self Comes to Mind”
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2011/09/summary-of-damasios-self-comes-to-mind.html
'Feeling' of language as a sign of autopoiesis
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2011/09/feeling-of-language-as-sign-of.html
Damasio (2000) The Feeling of What Happens
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/02/damasio-2000-feeling-of-what-happens.html
Emotions and Feelings according to Damasio (2003) "Looking for Spinoza"
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/12/emotions-and-feelings-according-to.html
Another short summary of Damasio's argument on consciousness and self
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/06/another-short-summary-of-damasios.html
その結果、私としては(少なくとも今のところ)ダマシオの言う"image"は「想い」と訳してもいいのではないかと判断しました。
ひょっとしたら「イメージ」と訳しても同じなのかもしれませんが、私としてはしばらくこの「想い」という翻訳で考え・語り、"image"概念についての理解を深めてゆきたいと思っています。無駄な試みかもしれませんが、私としてはこうやって愚かに試行錯誤してゆくぐらいしか学ぶ方法を知りません。
下は、上記のダマシオ関連記事の中で、"image"に関する重要な箇所の引用を抜き出し、それに拙訳を加えたものです。本来なら翻訳書もちゃんとチェックして拙訳の是非を吟味するべきでしょうが、今は時間がないので、拙訳だけを提示します(誤りや修正意見などもしございましたらご教示いただけたら幸いです。
By the term images I mean mental patterns with a structure built with the tokens of each sensory modalities -- visual, auditory, olfactory, gustatory, and somatosensory. (Damasion 2000, p. 318)
「想い」という用語で私が意味するのは、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・身体感覚などの感覚様態で作られた構造をもつ心模様のことである。
images are the main currency of our minds, and that the term refers to patterns of all sensory modalities, not just visual, and to abstract as well as concrete patterns. (Damasio 2012, p. 160)
想いは、心の主要通貨であり、すべての感覚様態が織りなす模様を指している。想いは視覚的なものだけに限らない。またこの模様は、具体的でも抽象的でもありうる。
A spectacular consequence of the brain’s incessant and dynamic mapping is the mind. The mapped patterns constitute what we, conscious creatures, have come to know as sights, sounds, touches, smells, tastes, pains, pleasures, and the like--in brief, images. (Damasio 2012, p. 70)
脳が絶え間なく能動的に [身体の状態の] 地図作りをしているおかげで、心というすばらしいものが生まれた。その地図に描かれた模様が、意識をもつ動物である私たちが、視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚・痛覚・快楽などとして知っているもの、つまりは想いである。
Language -- that is, words and sentences -- is a translation of something else, a conversion from nonlinguistic images which stand for entities, events, relationships, and inferences. (Damasio 2000, p. 107)
言語、つまり単語や文は、何か他のものを翻訳したものである。つまり言語は、物体・出来事・関係・推論を表す非言語的な想いが変換されたものである。
Damasio, A. (2000) The Feeling of What Happens, Mariner Books.
Damasio, A. (2012) Self Comes to Mind, Vintage.
今はとりあえず、この"image"概念を「想い」と翻訳することによって、優れた小学校英語教育実践を読み解く手がかりの一つとしたいと思います。
追記1 (2015/08/05)
用語法の議論ですから、以下の引用(およびその拙訳)も追加しておきます。
A brief note on terminology: I used to be strict about using the term image only as a synonym of mental pattern or mental image, and the term neural pattern or map to refer to a pattern of activity in the brain as distinct from the mind. (Damasio 2012, p. 64-65)
用語法について一言述べておきたい。以前の私は「想い」という用語の使用法については厳格で、「想い」は心で感じる模様や想いの同意語としてだけ使い、心とは区別された意味での脳の活動模様を意味する場合には「神経回路模様」や「地図」という用語を使ってきた。
However, for someone who stands on physicalism, the employment of two terms, one for the mental and the other for the neural (or physiological), is just aspect dualism.
I was simply indulging in aspect dualism and discussing the way things appear, on their experiential surface. But, of course, so did my friend Spinoza, the standard-bearer for monism, the very opposite of dualism.
But why complicate matters, for myself and for the reader, by using separate terms to refer to two things that I believe to be equivalent? Throughout this book, I use the terms image, map, and neural pattern almost interchangeably. (Damasio 2012,p. 55)
しかし [あらゆるものは物質に他ならないとする] 物理主義に立脚する人にとっては、このように心的なものと神経回路的なもの(もしくは生理学的なもの)に対して二つの用語を使用することは、「見え方における」二元論を採択していることになる。
私は「見え方における」二元論に陥ってしまい、物事が私たちの経験の上ではどのように現れてくるかを論述していたことになる。とはいえ、これは私が愛するスピノザもやっていたことである。無論、彼こそは一元論者の代表格であり、二元論の対極にいる。
しかし、結局のところでは同じものだと私が信じている二つのものにそれぞれ別の用語を使うことによって、私自身と読者を混乱させる必要もない。したがって、この本では、「想い」と「地図」と「神経回路模様」という用語を、ほぼ同義として使うことにする。
※「脳の活動模様」は「脳の活動パターン」と、「神経回路模様」は「神経回路パターン」と訳すべきかとも思いますが、ここでは敢えて「心模様」(mental pattern)との整合性を優先させました。
追記2 (2015/08/05)
ある親切な読者の方が、「もう少し柔らかく訳してみてはどうでしょう」と以下の訳例を提示してくださいました。
By the term images I mean mental patterns with a structure built with the tokens of each sensory modalities -- visual, auditory, olfactory, gustatory, and somatosensory.
「想い」とは、見たり、聞いたり、香りを嗅いだり、味わったり、感じたりした経験を元にして心の中に作り上げた模様である。
日本語としてはあきらかにこちらの方が自然です。こちらの翻訳を使わせてもらおうかとも思いましたが、用語法の議論ですので、上の「固い」拙訳は敢えてそのまま残しておくことにします。
さらにその読者の方は"image"を思い切って「記憶」と訳した方がしっくりくるのでは・・・ともおっしゃってくださいました。ですが、ダマシオは"memory"について多く語っているので、"image"までも「記憶」と訳すことは躊躇します。
とはいえ、今後は"memory"を「想い出」と訳しても面白いのかもしれません。「想い」(image)とのつながりを強調することができるからです。もちろん、訳語を決定するためには、上のような作業が必要なので、ここでは備忘録的に書いておくにとどめますが。
また、その方は「何にせよ、image を単に心像だとかイメージだとかに訳してしまわないことで、ずいぶんと image が変わるものだなぁ、と驚きました」と書いてくださりましたが、私もまったく同感です。
ことば(アルファベット・ひらがな・かたかな・漢字など)にはそれぞれの形があり、それぞれの形は他の形のことばと独特のつながりをもちます。私たちがある形のことばを使う時も、おそらく潜在的にはその形とつながる形のことばも私たちの心の奥底では想起されているのでしょう。ことばを大切に使いたいと思います。その点で、繰り返しになりますが、私は最近のカタカナ語の多用には批判的です。
加えて、その方は、ダマシオの一節を読んで想い出しましたとして、三浦しをんの『舟を編む』の一節を引用してくださいました。ここに転載します。
なにかを生みだすためには、言葉がいる。…生命が誕生するまえの海を想像した。ただ蠢くばかりだった濃厚な液体を。ひとのなかにも、同じような海がある。そこに言葉という落雷があってはじめて、すべては生まれてくる。愛も、心も。言葉によって象られ、昏い海から浮かび上がってくる。
読者の方に改めて深く感謝します。
追記3 (2015/08/05)
別の読者の方が、ダマシオのTED動画を改めて見て「想い」という訳語が適切かどうか検討してみたと教えてくれました。
私も見たところ、一部の"image"は「図」や「写真」と訳した方がよいものの、多くの"image"は「想い」と訳してもよく、また、そのことによって考えが広がるように思えました。特に、"image-making"を「想いを創り出す」と訳すと面白いと私は感じました。
また、訳語の議論とは離れますが、神経科学者であるダマシオが"socio-cultural"な要因の重要性について語っているのも注目です。
*****
以下は、8/10(月)の講演会・ワークショップの主催者案内のコピーです。当人としては面映いところもありますが、転載します。
8/10(月)第10回 OBK講演会
「『わくわく』って、つまりどういうこと?」
英語学習と『わくわく』の関係を哲学的に解明
広島大学 柳瀬陽介先生
・・・・・・・・
What color is a carrot? と聞かれても「わくわく」は起こらない。
What color is spring for you? こう聞かれたら「わくわく」するのはなぜだろう?
What color is peace for you? これはどう?
毎時毎時の授業で、こどもたちの心に「わくわく」を起こしたい。
こどもたちの「こころ」が動きまくるためには、どんな要素が必要?
こどもたちが、英文を読むとき「わくわく」しているだろうか。
こどもたちが、英語の音のかたまりを聞くとき「わくわく」しているだろうか。
こどもたちが、英語の音を発話するとき「わくわく」しているだろうか。
その時、かれらの「からだ」「こころ」「あたま」では、いったいどんな事が起こっているんだろう?
広島大学 柳瀬陽介先生がそのメカニズムを哲学的意味論で説明してくださいます。
教育ってなんだ?
ことばってなんだ?
コミュニケーションってなんだ?
英語も、国語も、音楽も、社会も、理科も、、、
ああ、すべての教育は、「からだ・こころ・あたま」が動きまくることが大切なんだ!
わたしは、これが、からだと こころと あたまにストンと落ちて、とても心地よく、とても嬉しく、とても感動しました。
「からだ・こころ・あたま」が わくわくする英語の授業づくりにチャレンジし続けていきたい!!
みんなにも、このお話を聞いてほしい!
とくに、こどもに何かを教える事に携わる方は、「ああ、報われた・・」という気持ちになられるのではないか、と思います。
時間がないけど、お友達を誘って、いらしてください。
・・・
なお、11月8日に 第2回 こども英語みほん市 あらため 「こども英語教育研究大会」を開催します。
キーワードは、「からだ・こころ・あたま」と「みんなを 連れていく」
そんな授業作りを目指す学校・民間の英語の先生たちが、関学梅田キャンパスに結集する大会です。
柳瀬陽介先生には、その時にもご講評いただきます!
8/10には、「からだ・こころ・あたま」「意味ってなんだ?」のお話をぜひ聴きにきてくださいね。
懇親会もありまっせ!
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