先日(7/25-26)、広島大学を会場として開催された小学校英語教育学会を見ての感想を、備忘録としてここに書いておきたい。
感想を一言で述べるなら、やはり毎日小学校現場で子どもを相手にしている方々の知恵は深いということだ。
■ 英語力の発達を分析的に見るか、子どもの発達を全人的に見るか
拙著『小学校からの英語教育をどうするか』(岩波ブックレット)の最後の方でも書いたが、これまでの英語教育界はもっぱら「英語力」をどう上げるかについてばかり語ってきて、子ども(児童・生徒)の全人的な発達について語ることが少なかったように思われる。学会誌などのタイトルで見れば顕著だが、ひょっとすると大修館の『英語教育』誌の記事目次タイトルなどで調べてみてもこの傾向はあるかもしれない(調べていないので、もちろん断言はできないのだが)。
これまでの英語教師と英語教育研究者は、英語力を、語彙力やリスニング力や文法力などと分割したうえで、その向上を「分析的」に計測することを中心課題としてきた。もちろんそのようなアプローチの有用性は否定できないが、そのようなアプローチだけでしか教育を考えないと、子どもの実態を見落としてしまうことになりかねない。
その点、子どもの正直な姿に毎日朝から夕方まで接しなければならない小学校教師(担任・専科・外部講師など)は、英語教育・外国語活動においても、子どもを全人的にとらえようとする。担任教師は特に、他の教科も教え、昼間の生活をほぼ共にしているようなものだから、一人ひとりの子どもの個性を把握したうえで、授業が子どものどの側面に変化を与えているかを中・長期的に丁寧に観察している。
だから小学校教師の実践研究は、細分化された観点だけに集中したものではなく、多面的・総合的なものになることが多い。
そうなると明確な数字で結果が出されることも少なくなり、それは一部の人からの批判を招くことになる。実践研究は、教育用語を使って実践について語っているだけだと非難される。
確かに流行りの教育用語がちりばめられただけの底の浅い教育言説はよく見られる。そのような言説に接するたびに徒労感に襲われる人も多いだろう。
しかし、どのようなことばで現実を切り取り語るかというのは、私たちの認識の根幹に関わる重要なことだ。だから丁寧に教育用語を理解し、それを思慮深く使用し、さらにはその言語使用が現実を適確に捉えているかについて反省を加え、その反省に基づき、教育現象の記述を豊かにしてゆくことは、私たちの行動を大きく変えてゆく。
数字で結果を出さない実践論文が「役に立たない」というのは大きな間違いだ。教育を語ることばを、丁寧な理解に基づき思慮深く使用し、さらにそれに批判的な反省を加える教育言説ほどに現実的・効果的で「役に立つ」ものも珍しいとは言えまいか(早い話が、例えば大村はまの言説を「数字が出てこない」という理由だけで切って捨てるのは愚かなことだろう)。
だから、新たな流行語を作るという意味ではなく、教育について豊かに語るためのメモとして、以下に、私にとって印象的だった実践者のことばを書き留めておきたい。書き留めるといっても私なりの理解(誤解)と言い換えが入り込んでいる。そのことにより発表者があらぬ誤解を受けてもいけないので、発表者の名前や所属校はあえてここには書かないことにする。
■ 研究指定を受けた小学校の先生のことば
ある研究指定を受けた小学校で勤務する、もともとは理科を専門としていた先生は、以下のようなことばを重要概念として授業を立案・実施・反省していた。
「学びの有用感」、「子どもの思いや願い」、「伝え合う必要感」、「自己選択、自己決定の場」、「単元の見通し」、「子どもが自己の成長を感じられる」、「学び続けようとする態度」
発表ではビデオで子どもの様子を見ることができたが、その際の着眼点も明確で、子どもの個性を見極めた上で、一見すると見逃してしまいそうな所作に、子どもの変化を見出したものだった。
■ 小学校で教え始めた中学校英語教師のことば
ある発表者は本来は中学校英語教師なのだが、教育センターでの「振り返り」(自らの教育実践に対する反省的考察)の研修を経た上で、近年は小学校で教えている方だった。
その先生は、教育センターでの研修と小学校での現実から、「正解を出さねばならぬ」「教師の意図に近づくことが全てである」というこれまでの英語授業観では子どもに「語らせる」言語活動はできても、子どもが自ら「語り出す」言語活動はできないことを痛感する。
痛感により「天狗の鼻を折られた」その先生は、子どもが英語を自ら「語りだす」授業を立案・実施・反省し、今回の学会発表となった。
子どもが「語り出す」授業のために重要なことは、私なりに少し言い換えてまとめると、発話動機と自己受容と相手意識だ。
発話動機は、発話をする必然性によって子どもの「からだ」から生じてくる情感と私なら定義したい。
自己受容とは、ありのままの自分の気持ちを表現しても、それが受容される教室文化に支えられた自己肯定感といえるだろうか。
相手意識は、よく使われる用語だが、発話の「相手」を単なる一般的な"you"としてしまうのではなく、その相手のこれまでの歴史とその相手と自分との関係をよく理解することと言い換えられるかもしれない。(この発表では、相手を歴史的に実在する「青い目の人形」とした上で、実際に人形も使いながら、子どもたちの相手意識を高めていた)。
と、私なりに発話動機・自己受容・相手意識を定義することを試みたが、無論これらの概念についてはこれまでに膨大な研究があるわけであり、まがりなりにも大学で教鞭を取るものとしては、少しでも過去の遺産を理解しそれを活用しながら、これらのことばを現代的に使いこなせるようまとめをしなければならない。本日は、冒頭にも述べたように備忘録としてここに書き連ねている次第である。
■ 小学校を退職後、中学校で英語を教えている先生のことば
小学校を定年まで勤めあげて、その後中学校で英語を教えている先生の研究の発端は、小学校英語教育に関するある研究論文への違和感だった。大学研究者によるその研究論文は、小学校英語教育において重要なのは「児童指導力と英語運用力」と結論づけていたが、その先生はどうもこの言い方に納得できなかった。
その違和感はどこから生じているのかという問題意識をもとに授業を反省的に実践する中でその先生が現時点で到達したのは、「児童理解に基づく授業ルールづくりと教室英語の使用、そしてチームプレー」こそが重要だということだ。
「児童指導力」というと、どこか教師からの一方的な権力行使のようにも聞こえる。だが、子ども一人ひとりの実態を理解しないままの権力行使は、役に立たないところか、しばしば逆効果に終わってしまう。だからその先生は「児童理解」の重要性を訴える。しかし、一人ひとりの児童を理解したとしても、教師は教室を学びの空間にしなければならない。だから「授業ルールづくり」が必要になってくる。ルールといっても上から与えられるものではなく、子どもがそのルールの重要性を納得し、ルール違反をする子どもがいれば、他の子どもが「それはおかしい」とその子に注意できるぐらいのものでなければならない。そういった意味でその先生は「児童指導力」ではなく、「児童理解に基づく授業ルールづくり」ということばを選んだ。
「英語運用力」という用語にもその先生は違和感を覚えた。「英語運用力」とは漠然とした概念で、その概念を明確に示そうとすれば、多くの人はTOEICなどの資格試験のスコアで表現してしまう。だが、資格試験のスコアがいくら高くとも教室でうまく教えられない英語教師はいくらでもいる。だからその先生は「英語運用力」を「教室英語の使用」と言い換えた。
さらにその先生は「チームプレー」ということばを重要概念として付け加えた。この世の中に万能人はいない。担任が専科や外部講師はもとより、図工が得意な同僚や音楽演奏が得意な同僚などに助けを借りることは、学校の力を上げるためには重要なことだ。そうやって教師がお互いの個性を組み合わせて助け合う同僚性を作り上げれば教師は困難な状況も打開できる。
こうやって実践を語ることばについて丁寧に考え、ことばを選びなおすことにより、この先生は実践を向上させた。繰り返しになるが、教育を語ることばに着目することは重要なことだと私は考える。
■ 児童英語教育に関するあるNPOの方々のことば
この発表者とは、今回(も)よく話をすることができたので実名を出してもいいと思うが、特定非営利活動法人Creative Debate for GRASSROOTSの池亀葉子先生と竹田里香先生の発表(ことばのルールを発見しよう ~オノマトペを活用した不可算名詞の概念化~)は素晴らしかった。長年の実践の工夫の積み重ねを、「ことばへの気づき」という概念からとらえなおし、「ことばへの気づき」を、子どもが身体的に実感できるように仕向けていた。これは、気づいた概念を身体表現化(ジェスチャー化とオノマトペ化)することにより、ことばの身体的理解の促進するとも言い換えることができるかもしれないが、そのように単純で抽象的な言い換えではこの実践の深さを伝えることができない。この実践については、私自身時間をとっていつかまとめたいと思っている(また、この実践では「想像力」も非常に重要な概念であったことを付記しておく)。
■ 「小学校の先生たちから、私を含め中・高等学校の英語の先生が学ぶべきことがたくさんあります」
「ことばへの気づき」といえば、文部科学省教育課程課/幼児教育課による『初等教育資料』(2015年8月号 36-41ページ)での、直山木綿子氏(文部科学省教科調査官)と大津由紀雄先生(明海大学副学長)の対談(「小学校教育として外国語教育に求めるもの)が面白い。
この記事の冒頭で私は子どもの全人的な発達ということばを使ったが、全人的ということは、子どもの母語・母国語も含んだ上で、英語という外国語の学び・使用も考えていくことにつながる。Council of Europeの言い方なら、複合的言語観(plurilingualism)になる。
対談で直山氏は、彼女と大津先生が、「学校教育での外国語学習の一番の意義」もしくは「外国語教育の目的」について共通理解をもっているとした上で、次のように述べている。
外国語教育単体で考えるのではなく、母語と合わせて、言語教育としてとらえる必要がある。今は全く別のものとしてとらえている傾向があると思います。(37ページ)
これは小学校現場の実態・実感に則した、極めて現実的な認識だと私は考える。大人は「英語科」や「国語科」などと教科の枠組みでしか考えないことが多いが、別箇所での大津先生の発言を借りるなら、「子供たちの頭の中ではそんな境界はなく、むしろそこを取っ払ってしまうほうが自然」(41ページ)だからだ。
さらに両氏は、小学校教師が積み上げてきた外国語活動の成果(その一端はこの学会でも十分に感じられた)の意義の高さを強調する点でも共通している。これまで小学校教師が積み上げてきた成果について直山氏は次のように述べる。
小学校の先生だからこそできたと言っても過言ではないと思います。小学校の先生には、自信をもってほしい。まだまだ消極的な人もいるけれども、小学校の先生たちから、私を含め中・高等学校の英語の先生が学ぶべきことがたくさんあります。(41ページ)。
私が岩波ブックレットの題名を『小学校の英語教育をどうするか』ではなく『小学校からの英語教育をどうするか』(強調を挿入)にした大きな理由は、私も上のように、これまでの英語教育関係者は、小学校での実践から大いに学ぶことがあると信じるからだ。小学校実践は、(同書での表現を使うなら)「からだ」と「こころ」から英語をとらえているものが多いからだ。そんな意味で、文部科学省教科調査官が上記のように発言しているのにとても勇気づけられる。私は役所の文化をよく知らないが、ひょっとしたらこの発言は、教科調査官としては勇気ある発言なのかもしれない。もしそうだとしたらその勇気は、小学校現場で働くすべての人々を大いに勇気づける効果を得たという点で、発言のリスクをはるかに超える効果を生み出していると私は思う。
■ 「論文」の壁
だが、楽観できることばかりではない。学会で会った何人もの人が異口同音に、このような小学校現場の知恵を論文にすることが現状では困難であることを訴えていた。ある人曰く、現在の査読者に「実践研究の論文とはどうあるべきか」という理解がない。別の人曰く、「実践者が自分の実践を冷静に観察してそれを文章化する文化・文体がまだ成熟していない」、さらに他の人曰く、「実際、査読付きの学術誌に実践論文が掲載されることは今はまだ少ないが、そうだと大学で人事を行う時に、本当に有用な人材を採用することができない・・・。
だが実践論文とはどうあるべきかという研究については、もちろんこれまでにそれなりの蓄積がある(私にとってとても印象的だったのは、細川英雄・三代純平(編) (2014) 『実践研究は何をめざすか 日本語教育における実践研究の意味と可能性』 ココ出版だ)。
関係者は、実践論文のあり方について学び直し、実践論文の文化・文体を成熟させなければならない。
と、書いていると、私のFacebookのタイムラインに南浦涼介先生(山口大学教育学部)の次の文章が掲載されていた。ご本人の許可を得て、ここに全文掲載し、この文章を終えることにする。
「学校現場の研究」とはなんなのでしょう。
最近は「学力向上」の流れの中で、県をあげて、市をあげて、それに取り組もうと、行政と学校が一体になって「学力を上げる授業」に取り組んでいる。それはいいこと。うん、僕も昔、もっと面白くて賢くなれる授業を受けたかった。
ただ、それが「研究」になった瞬間、違和感が起こります。「一般化」「仮説」「検証」という言葉が踊る文章。アンケートで数値化。「うまくいったこと」だけを取り上げて「うまくいかなかったこと」には目を向けられないこと……。実際に子どもを育て、実践をしているときには考えもしない言葉たちが、「研究」になった瞬間踊り出しはじめます。
実際、当事者の現場の先生たちはこういうことに違和感を感じていることは多いようなのですが、「研究とはこういうもの」という前提の中で、豊穣な「実践のことば」は、形式的な「研究のことば」に置き換わっていきます。
やがて、多くの先生たちにとって、「研究」は日常の仕事の重しにしかならず、「二度とやりたくない!」というものになっていきます。そして、「とりあえずこなす」という、面倒なものに落ちついていきます。しかしそうやって生まれた「成果」は、やがて報告書で、インターネットで公開され、「研究とはこういうもの」を強化し、次の誰かの「面倒な研究」を生み出していきます。
そういうのが嫌で、現場の先生といっしょに取り組んで、楽しい研究、やっていて自分に意味を見出せる研究、人が読んでわくわくする研究をやっています。でも、最終的には「形式があるらしく…」と、それは成果にならないことが多いです。本当に申し訳ないです。(しかし、新たなものを生み出す行為である「研究」に、こうしないとダメという「形式」がなぜ存在するのでしょう)
こういう「学校現場の研究」の文化を作り出したのは、大学教員と行政と学校が、「指導助言」というシステムの中でつながって、長い年月の中でできたものでもあります。大学の教科教育系の教員の僕らの責任もかなりあります。あと20年くらいの中で、なんとか変えていきたいものの1つです。今のままじゃ喜べる人も、救われる人も少ないものね。
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