2017年6月2日金曜日

「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」の論文第一稿



先日、『中国地区英語教育学会研究紀要』の47号 (pp.83-93)に拙論を掲載していただけましたが、以下は、その論文の第一稿です。完成版をお読みになりたい場合は同誌の印刷媒体か近いうちに公開されるであろう電子媒体をお読みください。

なおこの論文の基になった口頭発表については以下の記事を御覧ください。


8/20学会発表:
「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」
の要旨とスライド


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英語教育実践支援研究に
客観性と再現性を求めることについて


広島大学 柳瀬陽介



1 序論:認識論的考察の必要性

 日本の英語教育界ではリフレクションや質的研究が少しずつ市民権を認められつつあるが(浦野・亘理・田中・藤田・高木・酒井, 2016)、英語教育実践支援研究 ―ここではこの用語を「実践者の判断や意思決定を支援することを目的とする研究」と定義する― にも客観性や再現性が当然のごとく求められている。質的研究やアクションリサーチに対して、「主観的な観察にすぎない」や「結果に一般性が認められない」などといった客観性や再現性を要求する否定的な査読コメントが引きも切らないからである。1) そういった中、国内外の学会動向からすればメタ分析などは今後の研究の進むべき方向として推奨されているようだが2)、そもそも客観性や再現性とは何なのか、また、それらを求めることは実践的に何を意味するのかについての根源的な認識論的考察がない。本発表は、哲学的概念(特にアレントやルーマンらが使用する概念)の分析を通じて、客観性と再現性の概念、およびそれらを英語教育実践支援研究に求めることの意味について解明することを目的とする。こういった解明は、今後の研究が進むべき方向性を明らかにし、限られた研究資源の有効活用を目指せるという意義を有する。


2 第一概念分析:客観性について

 日常語として使用される「客観的」ということばには、「(1) 主観または主体を離れて独立に存在するさま、(2) 特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま」(『大辞泉』)といった定義が与えられているが、これら二つの定義はそれぞれ「一元的客観性」と「多元的客観性」として説明できる。以下、一元的客観性を「超越的客観性」と「数直線的客観性」の観点から、多元的客観性を「現実」と「二次観察」の観点から分析しこれらの概念を整理する。


2.1 一元的客観性

 ここでの「一元的客観性」とは、客観的であるということが「誰の主観・主体からも独立している」という一つの特定の様式でしかありえないという考え方を指す用語であるが、その一元的客観性は、一神教の宗教的伝統に基づく超越的客観性と、それが資本主義社会の中で世俗化したと考えられる数直線的客観性に分けられるだろう。現在の英語教育界により大きな影響を与えているのは数直線的客観性であるが、その由来を明らかにするためにもまずは超越的客観性から考察を進める。

(1) 超越的客観性: 西洋近代における客観性は、唯一神の全知・全能・偏在という宗教的な理念が、自然科学の観察・実験といった実証を、数学で理念化された無限という回数で実施することにより獲得されるはずだという信念に基いている(フッサール, 1995)。観察・実験の無限回の実施により「今・ここ」の私を超越した客観性を獲得するはずの科学知の所有者は、時間や場所を超越し、特定の情動や記憶(歴史)を宿した身体をもたない No-body”となる。このように科学が無限に進歩することにより全知・全能・偏在を目指せるという期待はしばしば世間に見られるが、「さらなる実証研究が必要とされる」という実証論文末尾の常套句も、科学の進歩に対する素朴な信頼の表明なのかもしれない。だが、カントの『純粋理性批判』に代表される認識論的考察が再三再四指摘するように、科学知にも人間という特定生物の営みであるという制約がある以上、こういった唯一神に比される無-身体的な超越的客観性は非現実的であり、学術に携わる者がたとえ素朴な期待としても保持すべき概念ではないだろう。

(2) 数直線的客観性: 宗教的伝統に基づく超越的客観性に代わって現代に流布している考え方は、資本主義社会という近代的性質を反映した数直線的客観性であろう。富への執着は、古来マモン (Mammon) として知られてきたが、近代においての執着の対象は、資本主義的生産体制の普及により物神化され多くの人に崇められている貨幣である。貨幣は資本主義社会を支える基礎媒体であり、マルクスの『資本論』が明証したように、あらゆる商品の質を捨象し、すべての商品を貨幣量(価格)という一本の数直線上に配置する。さらに、あらゆる企業の活動は、貨幣量により黒字/赤字という二値的コードに還元できるため、貨幣量という数値は資本主義社会の客観的指標としてあまねく使用されている。「数値で表わせ」というのはビジネスの鉄則でもある。その考え方は教育界にも伝播し、教育の成果も数値(学力テストの得点など)で客観的に測定されるべしという数直線的客観性が時代の思潮となっている。文部科学省 (2013b) も閣議決定を受けた「教育振興基本計画」において、中高生の英語力の成果指標として資格・検定試験の点数・級数(の獲得割合)を使用している。

だが数直線的客観性にせよ超越的客観性にせよ、一元的客観性においては学習者や教師という「私」が何を感じたかといった当事者性が構造的に排除されていることに、実践支援研究のあり方を考える私たちはもっと注意を払うべきであろう。教育実践は究極のところで教師という「私」と学習者という複数の「私」が直接的に関与せざるを得ない相互作用だからである。以下、一元的客観性とは異なる多元的客観性について概念整理することにより、当事者性を排除しない客観性について検討したい。


2.2 多元的客観性

 西洋哲学の深い素養に基づきながら現代社会について考察したアレントやルーマンといった20世紀後半の研究者が使用する客観性に関する概念は、社会構成主義に基づいて私たちが社会的に(=複数の視点と観点が共存する状況で)とらえる客観性を表現している。これを「多元的客観性」と呼ぶならば、この多元的客観性は、理念的に規定できるものの現実世界で私たちが実現できない一元的客観性とは異なり、「特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま」という「客観的」の第二通義による現実的な客観性を示している。ここでは多元的客観性を、アレントの「現実」概念とルーマンの「二次観察」概念から特徴づけてみる。なお、アレントやルーマンといった論者は、「客観性」ということばが帯びてしまった伝統的桎梏を避けるため、「客観性」や「客観的」といったことばを巧みに回避する(アレント)か、端的に使用しないようにしている(ルーマン)が、この論文では上述の「客観的」の第二通義を尊重し、現実と二次観察を(多次元的な)「客観性」を説明する概念として扱う。3)

(1) 現実: アレントのいう現実 (Wirklichkeit) とは、さまざまな視点と観点を取りうる人間が共存している複数性 (Pluralität, plurality) において私たちが認めるものである(Arendt,2002; アレント, 2015)。彼女は、近代人が、あらゆるものの価値を一直線上に並べようとする貨幣を「客観性」として認識しがちであることを指摘した上で、さまざまな人間が「異なるが対等」な存在として語り合いながら相互に行為を重ね合っている複数性を人間が人間であるための条件の一つとして考える観点から、貨幣の数直線的で一元的な客観性とは異なる多元的客観性の概念を提示した。私たちが古来、人間の世の営みの中で「特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりする」という意味で「客観的」であり、「まあ、これが現実というものだろう」と落ち着いた態度を取る時の「客観性」は、私たちが「同じ」と認める対象が、さまざまに異なるように立ち現れるということによって成立する。私たちがある対象について語り合い、その対象が一様ではなく多様に立ち現れながらも、それらの一つ一つが完全否定し難く共存している状況こそ、私たちの「現実」(Wirklichkeit) であり、そこに私たちは「現実性」 (Aktualität, actuality) 、ひいては「実在性」 (Realität, reality)を認めると彼女は説く。4) 複数性に基づく多元性こそが客観性の基盤であるというこの考え方は、言うまでもなく一元的客観性とは明らかに異なる客観性概念である。

 (2) 二次観察: 同じ対象の異なる立ち現われについて私たちが語り合う時、私たちはしばしば二次観察 (Beobachtung zweiter Ordnung, second-order observation) を行う。二次観察とは第二次サイバネティックス (second-order cybernetics) の論者が使用する概念であるが、ここではルーマン (Luhmann, 2009) の定義にしたがって説明する。二次観察とは、ある観察(一次観察)が「何」 (was, what) を観察したかだけでなく、それを「いかに」 (wie, how) つまりはどのような様式で観察したかをも観察する。もう少し具体的に述べるなら、二次観察は、(i) ある一次観察者が観察している対象、(ii) その一次観察者の観察様式、(iii) その一次観察者が観察していない対象の存在、(iv) その一次観察者は自分が観察していない対象に気づいていないということ、の四点を観察する。この事態を図示するなら以下の図1のようになる(sehen/seeの多義性を表現するため、図の中では(読者にとってよりわかりやすい)英語での説明を加えている)。





図1: 一次観察に関する二次観察の四種類の観察

だがその二次観察も決定的で最終的な観察ではありえない。二次観察は、一次観察の誤りを決定的に正すといった意味で特権的ではなく、一次観察の偏りから隔絶された最終的な観察であるといった意味で超越的でもなく、さらに別の二次観察の対象となる(その場合、最初の二次観察は、次の二次観察にとっての一次観察となる)。このように、ある一次観察に二次観察が加えられ、さらにその二次観察が(今度は一次観察として)異なる二次観察の対象となるといった批判的な相互観察の状況は、二次観察を欠いた複数の一次観察が声高に自身の観察の妥当性を主張する悪しき意味での相対主義 ( “anything goes”) の状況とは明らかに異なる。後者では認識の妥当性に理性的な根拠が求められず複数の一次観察者が声を張り上げるだけであるが、前者では二次観察の遂行によりそれぞれの観察の限界が自覚された上で複数の観察が相補的に働くため、より妥当(あるいはより「客観的」)な現実が姿を表す。5)

 私たちはこういった「現実」や「二次観察」といった概念から、一元的客観性とは異なる認識を得ることができる。当事者の認識も、当事者の主観に過ぎないと構造的に否定されることもなく、当事者の認識であるからと絶対的に肯定もされず、多元的客観性を構成する一要素として組み込まれる。次の節では、この認識により英語教育の現状について考察をしてみる。


3 第一考察:英語教育における客観性

先に短く述べたように、文部科学省は外部検定試験の数値を客観的指標としており、英語教育実践にはそれらによる検証が必要であるとしているが、その数直線的客観性が顕著に現れているのが、本来は各技能での能力の多様性を認めていたCEFR (Common European Framework of Reference for Languages) を、技能間の能力差を得点合算により捨象してしまって各種資格試験の共通尺度として利用しようとしていることである(文部科学省, 2015)。CEFRは、ヨーロッパ市民の言語交流を促進するための方便の一つとして言語習得のレベルの統一基準を示しているが、それは本来、複合的言語主義 (plurilingualism) に基づき、市民個々人の言語力を多様な技能 少なくともListening, Reading, Spoken Interaction, Spoken Production, Writingの五つの技能、これらはpersonal, public, occupational, educationalなどの複数のdomain(領域)などでもっと細分化も可能 からすることが設計理念であった。多様性を活かした公共性の確立が複合的言語主義の基本理念である。しかし、文部科学省 (2015) が示した換算表(「各試験団体のデータによるCEFRとの対照表」)では、それらの複数の技能観点の一切が捨象され、言語力(英語力)は、全体としてA1, A2, B1, B2, C1, C2の六段階の順序尺度に縮約されてしまっている。

複合言語主義の理念からすれば、個々の学習者は、目標言語のさまざまな観点・領域で、自分が選ぶ独自の能力を追求する自由をもつ。例えばもっぱら口頭でのインタラクションに自分の能力を特化し、書きことばのリーディング・ライティングの能力を求めない学習者も考えられる(実際、ある外国語での会話はできるが読み書きはおろか、長い時間集中的に話したり聞いたりすることすらも不得手とする言語使用者はヨーロッパには珍しくないし、日本でも例えば韓流ドラマから韓国語に興味をもった言語使用者の少なからずはそういった能力を有している)。あるいは、もっぱら学術文献読解(および翻訳)での能力開発を図り、その他の技能・領域での能力開発にあまり興味を抱かない学習者もいるだろう(実際、そのような言語使用者は明治以来の日本で多く見られたし、これからも存在し続けるだろう)。しかし、文部科学省が示す換算表は、そういった多様性を表現することを止め、個々の英語学習者の能力多様性を能力別の得点合算で一元化した形で、一本の六段階物差しに縮約している。ここには「英語力をアジアトップクラスにする」といった国家的目標に対する配慮はあるが、国民一人ひとりの英語に対する多様性を認め促進する姿勢はみられない。

さらにこの換算表は、さまざまな資格・検定試験がもっている能力測定のそれぞれの特徴を捨象して一元的な順序尺度に縮約するため、資格・検定試験からその特徴(つまりは「質」)を消し去り、単なる順序尺度の数値という「量」に還元している。この点で、究極的にこの換算表は学習者の学習の成果と能力を貨幣化していると言える(柳瀬, 2014)。この貨幣化により、大学も今後ますます文部科学省が提供する換算表に基づき入学試験での優待を「客観的」に行うだろう。それにより、学習者も教師も点数換算で有利な資格・検定試験に即した「効率的」な学習にますます専心することが考えられる。実際、こういった学びの本質を見失った功利的な学習は「どの科目がセンター試験で一番得点しやすいか」といった形でこれまでも見られてきたが、文部科学省が推奨する資格・検定試験の活用促進政策は、有料の資格・検定試験を何度も受験して確実に点数を上昇させることができる経済的に恵まれた受験者とそうでない受験者の経済的格差を一層拡大してしまうという点でより大きな問題をはらんでいる。

個性と多様性がますます求められる21世紀という時代と、GDPに対する学校教育費の公財政支出比率でOECD参加国の最低レベル(文部科学省, 2013a)の日本という場所という状況で、これ以上個性と多様性を抑圧し、教育における経済的格差を拡大させることは危険ではないのだろうか。私たちは一元的客観性ではなく多元的客観性を追求すべきであろう。


4 第二概念分析:再現性

 英語教育研究では、単一要因の操作による結果の違いを求める比較対照実験が未だに「主流」 (mainstream) とされているが、比較対照実験で前提とされている無作為抽出や二重盲検法を英語教育研究で実施することは現実的に困難あるいは無理である。(柳瀬, 2010)比較対照実験の結果に基づくメタ分析のあり方には技術的批判が加えられているが(亘理, 2014)、そもそも実践は複合性に充ちた現場でなされるものであり、実践者はほぼ常に複数の要因に同時に働きかけていることから考えると、単一要因だけの操作により同じ結果の再現を求めるという比較対照実験とメタ分析の考え方自体が根本的に非現実的であるように思われる。ここでは第一節で「単一要因の操作による再現」、第二節で実践の行為の「複合性の中での自己参照性」について検討する。


4.1 単一要因の操作による再現

 実践の中のある特定の要因(例えば教授法)だけを実験者が操作して得た結果を再現させようとする発想は、比較対照実験およびそれを基盤とするメタ分析に共通している前提であるが、この節では、その前提が構造的に排除している実践的要因、その前提が強化する研究の政治権力性、そして、その前提が現在の心理学でどのように議論されているかを示し、再現性について再検討する。

(1) 比較対照実験による実践的要因の構造的排除: 比較対象実験では一義的で普遍的な因果関係を求めるため、操作される単一要因の介入だけが注目され、場に即した実践的要因が無視される。だが実践者にとって重要なのは、現場の多様な要因に文脈の流れに即して対応し続ける力である。ある教授法を導入する実践者も、実際には文脈の流れに応じてその教授法以外の要因を変化させるだろうし、時にはその教授法自身も変化させるだろう。それにもかかわらず単一要因での一方的な介入に関する研究ばかりが推奨されることは、介入者の一方的な「独話的な実践」(セイックラ&アーンキル, 2016)が実践の規範として示されることを意味する。これにより、研究者および研究の権威を借りて指示を下す教育行政者は、ある教授法といった単一要因を遂行さえすれば教育は改善されるはずといったメッセージを現場に送ってしまう。これは、現場のさまざまな要因との相互性・応答性・対話を重んずる「対話的実践」(セイックラ&アーンキル, 2016)をないがしろにすることにつながりかねない。多様な実践的要因を構造的に排除し、「対話的実践」をないがしろにする、一方的な「独話的実践」の規範化につながる再現性(および普遍的因果性)を追求することは、実践を支援する研究としては非現実的、というより反現実的、ではないのだろうか。

  (2) メタ分析で強化される、研究の政治権力化: だが英語教育界においても、再現性と普遍的因果性を前提とするメタ分析が今後の研究のあるべき姿として導入される流れがある。以下、精神医学分野でのセイックラ&アーンキル (2016) に基づき、この流れへの批判的見解を述べるが、この流れは、従来の学界で「強い説明」としての因果関係解明が好まれ、「弱い説明」である相関関係解明、「さらに弱い説明」である記述研究が好まれていなかったことに起因している。「強い説明」では、単一(あるいは少数)の説明項(例えば教授法)により多数の被説明項の変化(例えばテスト得点やパフォーマンス成果や学習意欲など)が因果的に説明され、「弱い説明」では多くの説明項(例えば上記の項だけでなく、学習者個々人の学習履歴や心理的状況や社会的状況、学習集団の相互関係とその歴史、学習集団をめぐる社会的状況など)が相関関係もしくは端的な記述で説明される。しかし、実践の文脈の只中にいる実践者の立場からすれば、弱い説明だけで十分役に立ち、ことさらに強い説明は必要とされない。というより、文脈の中にいる熟練の実践者は、強い説明が前提としているように、実践で複合的に絡み合っているさまざまな要因を一つの要因に還元してしまうことはしない。セイックラ&アーンキル (2016) が社会学のLatourを引用しながら主張するように、強い説明は、誰かが遠くから実践者を管理したがる時に必要となるにすぎない。

 この社会学的考察からすると、メタ分析に基いて作成される実践のガイドラインは、実践の文脈を遠くから管理するための手段になることがわかる。ガイドラインは、異なった文脈でのさまざまな実践をガイドラインに合致させるように求めてくる。この上意下達的な実践統治は、一方向・単一要因の介入研究(比較対照実験)により権威と権力を得ている。そうなると、普遍的な説明や実験室的研究が必要だという信念は、それが意識的であれ無意識的であれ、「遠くから実践者を管理したい」という欲望から生じているとすら言えるかもしれない。英語は他教科に比べても教育行政から現場教師への上意下達的な指導がはるかに多い教科であるが、そういった状況において、比較対象実験およびメタ分析が、前項で述べたように非実践的あるいは反実践的であるだけでなく、行政がもつ(あるいは欲する)政治権力と結託して現場の判断の否定と現場権力の弱体化につながる可能性に対して私たちは自覚するべきであろう。

(3) 心理学における再現可能性の議論: そもそも英語教育研究が比較対照実験で普遍的因果性を求めるようになったのは、一時代前の実験心理学を範にしていたことに起因する。しかし心理学自体では現在、再現性に関して深い反省が加えられている。日本の心理学界を代表する学術誌である『心理学評論』 (Vol.59, No.1, 2016) は、過去の主要な心理学論文の追試で結果が統計的に再現されたものは40% に満たないという衝撃的な論文(2015年にScience 誌に掲載)の含意を重大なものとして、同号を再現可能性に関しての特集号とした。そこに現れた数多くの論考を見るならば、もはや心理学研究が再現可能性を不問の前提とはしていないことが明らかである。

 ここではそれらの論のごく一部しか紹介できないが、渡邊(2016, p.105)は、再現性の高さを科学であるための条件であるとする再現性の自己目的化が的外れであり、現象を正しくとらえるために他の基準とうまくバランスを取りながら再現可能性を考えるべきであると論じている。佐倉 (2016, p.140) も、再現性確保もその一つである「比較的単純な系や,変数の制御が容易な系を対象として洗練されてきた手法」を金科玉条としてしまうことが「本来その学問領域や研究者が共有していた問題群を置き去りにしてしまう」ことを懸念し、科学的方法については「多元性を積極的に許容する方が、科学的に興味深い現象をすくい上げることができるであろう」としている。

 このように、研究における再現性の無批判的追求が非実践的・反実践的態度と現場の判断と権力の弱体化につながること、そもそも英語教育研究が範としてきた心理学においてさえも再現性に関しての根底的な反省が加えられていることからすれば、私たちはもはや英語教育実践支援研究において結果の再現性の担保を金科玉条にするべきではない。そもそも次節で述べるように、実践の複合性と自己参照性からすれば結果の厳密な再現は望むべくもないからである。


4.2 複合性の中での自己参照的な行為

 同じ人間を対象としているように見えても、人間をその生態環境から独立して対象化した自然科学(例えば生理学)と、人間がその生態環境の中で主体として相互作用の営みを繰り返していること、そして、それを記述・説明しようとする研究者といえどもその人間の営みからは独立していないことを前提とする社会科学(例えば社会学)のあり方は根底的に異なる。後者では複合性と自己参照性が重要な前提となる。

(1) 実践の複合性: まず複合性 (Komplexität, complexity) について定義するなら、あるシステムの中に多くの要素がありそれらの要素の組み合わせの数が莫大になるため、すべての組み合わせを同時に比較することができず選択が強制される場合に、そのシステムは複合的 (komplex, complex) であるとなる(Luhmann, 1990)。わかりやすい例を挙げるなら、3x3のマスで行う三目並べはすぐに複合的でなくなるが、将棋や囲碁は(最終局面を除くなら)必然手がなく複合的である。教授法を変えるだけで授業が改善するはずと想定するアプローチ(「工学的アプローチ」)は実践の複合性を考えない認識論に基づき、同じ授業でもクラスによって、また同じクラスでも時期によって成り行きが変わり得ると理解するアプローチ(「生態学的アプローチ」)は複合性を前提とする認識論に基いている。実践者の支援という観点からすれば、実践者の現実認識に即した後者の複合性に基づく認識論を採択するべきだろう。

  (2) 行為の自己参照性: 自己参照性 (Selbstreferenz, self-reference 自己準拠性とも自己言及性とも訳される) は、20世紀前半以来の大きな知的展開なのでここではそのごく短い説明をすることしかできないが、この概念を単純化するなら「人は自分なりの認識と行為しかできない」とまとめられるかもしれない。つまり新たな認識と行動において、人は、常にこれまでの自分自身(自己)の認識と行動(の構成要素)に準拠しながら、つまり自分の認識と行動を参照して、時にその参照した認識と行動について言及しながら認識と行動をする、ということである。例えば、この文章を読んでいるあなたは、筆者である私の脳内の知識をそのまま移植されているわけでなく、私が書いたことばと同じことばを読みながらも、そのことばをあなたの理解に準拠しあなたの理解を参照しながら理解し、時にあなたの理解に言及しながらこの文章に対しての見解を組み立てる。人は、その人なりの認識と行為をすることしかできない。教師にしても、教示されたある教授法を教示者が意図した通りに実行することはなく、その教師なりに教授法を理解し再構成して実践する。これが自己参照性である。

 以上の複合性と自己参照性からするなら、単一要因での比較対照実験が想定するように、実践者が「普遍的因果性」が示された教授法を教えられて、それを忠実に実施するだけで、他のあらゆる実践現場のあらゆる実践者と同じ結果が再現され、教育が改善するとはとても想定し難い。複合性と自己参照性からすれば実践結果の厳密な再現は望むべくもない。


5 第二考察:英語教育界における再現性

 再現性を無批判的に前提とする現在主流の英語教育研究が想定しているのは、どんな文脈でも同じ方法を適用してよい結果を出すことが要求されている作業者であり、文脈に応じてさまざまな工夫でよい結果を出そうとする現実世界の実践者ではない。それは、学習者などの当事者と語りあう必要を特に認めない作業者であり、当事者との対話的な関わりこそが大切だとする実践者ではない。さらには、規格化され効率的に(あるいは工学的に)作業を遂行させられる無人格的な存在であり、教師集団の多様性により相補的に(あるいは生態学的に)教育実践を協働的に行う人格的存在ではない。英語教育研究においては、認識論の抜本的変革が必要なのではないだろうか。


6 結論:研究者が求めるべき権力

 現在主流の研究は、教師や学習者という当事者にとっての現実を直視しない認識論に基づいている。そういった研究は現場から離れたフーコーのいう「真理の体制」を確立し、さまざまな当事者を斉一的に管理しようとする権力に奉仕することにつながりかねない。私たちは一元的客観性でなく、二次観察を伴う多元的客観性のもとに、単一要因の操作による再現ではなく、複合性の中での自己参照的な行為を研究し語り合うべきではあるまいか。近代社会では、研究という営みも権力をもたざるをえないが、それならばその権力は、より民主的・公共的に活用するべきであろう。権力の民主的・公共的な活用とは、アレントが言うように語り合う力 (Macht, power) を信じて、開かれた空間でことばを使うことによってなされる。これが人間のあり方だとしたら、英語教育関係者も言語教育関係者として、数直線的客観性や再現性に無批判的に頼らずに、ことばの力を信じて現実的に認識し行動すべきではないだろうか。


  1) 査読コメントの非公開性によりこれらのコメントは公式の記録には残り難いが、英語教育学界で質的研究を行う者の間では、このようなコメントの存在が未だにしばしば語られている。
2) この際、しばしば臨床研究のあるべき姿とされるのが医学の治験研究であるが、治験と英語教育実践は、介入方法(工業生産された薬剤の一定量投与と個々の教師による教授法実践)やアウトカム(病理学的に規定された指標と研究によってまちまちの基準)の標準化の違いなどにおいて著しい差があること(柳瀬 2010)は看過されがちである。
3) だが、将来的にはアレントやルーマンのように、「客観性」や「客観的」といったことばから離れて実践支援研究について考え遂行すべきなのかもしれない。
 4) ここで「現実」(Wirklichkeit)、「現実性」 (Aktualität, actuality) 、「実在性」 (Realität, reality) の翻訳についてアレントのドイツ語使用に即して述べておくなら、ラテン語由来のAktualität, Realitätよりもドイツ語話者に身近なWirklichkeit 私たちの日常で wirken ( work, have an effect, be effective, act) していること に対しては「現実」という訳語を充て、前二者のラテン語由来の表現に対しては「性」という接尾辞をもちいた「現実性」と「実在性」という訳語を充てた。
 「現実性」(アクチュアリティ)と「実在性」(リアリティ)については、木村 (1994, p.29) を参考にして、ラテン語で「行為」「行動」を意味する「アークチオー」actioから来ている「アクチュアリティ」に「現実性」、ラテン語の「レース」resつまり「事物」という語から来ている「リアリティ」に「実在性」という訳語を充てた。
 5) 二次観察という用語は仰々しく聞こえるかもしれないが、ルーマンも言うように二次観察は近代社会でよく見られるものである。例えば良質のジャーナリズムは、ある事象という対象についての政府見解(一次観察)だけを報道するのではなく、その政府見解に関する複数の識者コメントなどの二次観察を提示し、読者がそれら複数の二次観察をさらに二次観察する機会を提供している。また、しばしば対談・討論形式で、ある識者の二次観察に対する別の識者の直接の二次観察を加えるなどして、それぞれの観察の限界を自覚させ多元的な物の見方ができるように仕向けている。


参考文献
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Luhmann, N. (1990). Complexity and meaning. Essays on self-reference. New York:
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http://www.mext.go.jp/a_menu/keikaku/detail/__icsFiles/afieldfile/2013/06/14/1336379_02_1.pdf より取得
文部科学省 (2015). 「各試験団体のデータによるCEFRとの対照表」
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西支部 メソドロジー研究部会 2014年度第5号報告論集』 5, 64-74.


謝辞:本研究は科研「教師教育者・メンターの成長に関する研究―熟達者と新人の情感性と身体性に着目して―」(課題番号15K02787)の成果の一部である。




 



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