以下はRobert Crease (2011) World in the balance: The historic quest for an absolute system of measurement. W. W. Norton & Company. (邦訳:ロバート・クリース(著) 吉田三知世(訳)『世界でもっとも正確な長さと重さの物語』日経BP社)のエピローグの一部の翻訳です。邦訳書は大変参考にさせていただきましたが、以下は私なりの訳出となっています(私にとって翻訳は精読し考えるための最善の方法の一つですのであえて自分で翻訳してみました)。
クリース教授 (Stony Brook University, New York) (自身のホームページ Wikipedia)の文章について私はこれまで以下の記事を書いてきました。
(1) Measurement and Its Discontentsの翻訳
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2017/05/measurement-and-its-discontents.html
(2) 創造性を一元的な評価の対象にしてはいけない
http://cis.hiroshima-u.ac.jp/2017pdf/11.pdf
(3) Robert Crease氏によるエッセイ「文化を測定する (Measuring culture)」の抄訳
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/07/robert-crease-measuring-culture.html
以下の記事では、クリース教授の意を汲んだ上で、これら (1) - (3) での翻訳よりもわかりやすさを重視した意訳を行い、"ontic measurement" に対しては「存在物の測定」ではなく「物理的存在物に関する測定」という訳語を、 "ontological measurement" に対しては「存在論的測定」ではなく「実存的存在に関する測定」という訳語を充てました(そもそも "ontic" を「存在物の」と訳している時点でかなり意訳なのですが、今回はさらにわかりやすさ・日本語としての通りのよさを重視しました)。また、私はこれまで "a measure" に対しては「測定基準」という訳語を充てていましたが、下では「尺度」と訳しました(これは邦訳書から学んだことの一つです)。
ちなみに (3) でクリース教授は、"ontic measurement" を「基準と対照させる測定」 (measurement against standards) 、 "ontological measurement" を「理想と対照させる測定」 (measurement against ideals) として、後者は基準を使うものではないとしていますが、下では、 "ontological measurement" つまり実在的存在に関する測定でも基準は使うが、その基準は測定者がもつ存在についての可能性や理想であり、"ontic measurement" つまり物理的存在物に関する測定で使われる基準とは大きく異なるものといった論じ方がなされています(だからこそクリース教授は、両者において「測定」という用語を使い続けているのでしょう)。
上の (2) の文章で私は "ontological measurement" (存在論的測定・実在的存在に関する測定)が "ontic measurement" (存在物の測定・物理的対象物に関する測定)とは異なることを、アレントの複数性の概念から説明していますが、下のクリース教授の文章ではその違いがハイデガーの―アレントが批判したような意味で個人的な―存在論(および実存主義的な言説)から説明されています。
と、また前置きが長くなっていますが(苦笑)、下の文章の趣旨を私たちの問題意識に即した形で翻案してみますと次のようになります。
私たちが、例えばある人がある組織にふさわしい人物かどうかを見極めるために、その人の人柄やコミュニケーション能力について面接を行う場合、面接官はその人の振る舞いを、各々がもっている「ふさわしい」人柄・コミュニケーション能力という基準(理想像)と比較して評価をくだす。その基準(理想像)は、面接官がこれまでの人生経験を通じて作り上げてきたものであり、各個人によって微妙に異なる。個々人で異なる以上、共通尺度として数量化することは、少なくとも厳密な科学としてはできない。もっとも世間では「社交性」「積極性」といった曖昧な項目に、1-5といった判断基準が不明瞭な順序尺度を当てはめることも多いが、これは科学ではない。この意味でこの人物測定は、自然科学で行われている物理的存在物の測定とは異なる。
こういった人物測定といったものを、人間が現実にどう生きながらどう可能性を探求していくかという実存を反映した測定として実存的存在に関する測定と呼ぶことができるだろう。この場合の実存的存在とは、測定の対象となる人間だけでなく測定を行う測定者も指す。この測定の対象は、被測定者が示す可能性や測定者が想定する可能性も含んだものであるので、実在物のように測定することはできない。また、測定者が想定する可能性は、それぞれの測定者のこれまでの人生経験およびこれからの人生に対する姿勢を反映したものであるので、この測定に対して厳密な数量化による共通尺度化を施すことは根本的な意味で誤りである。その誤りを無視して、科学的体裁を取った測定を試みても、私たちはどこかに不満を見出すだろう。その不満を無視して、その測定を強要するなら、やがてその測定が私たちの生き方そのものを歪めてしまう。
とはいえ、科学とテクノロジーの圧倒的な進歩を眼にした私たちの多くは、人間が人間を評価する営みにも物理的存在物の測定に似せたような測定を試みようとし続けている。長期的には、そういった現代の測定文化が誤りであることを私たちが哲学的に自覚することが重要であるが、短期的には(あるいは現実妥協的には)、人間が人間を測定する営みの一つ一つのどこがおかしく、どこに限界があるかを具体的に指摘することが重要であろう。現代の測定文化の暴走を私たちは止めなければならない。
以上が前置きです。それでは以下の抄訳をお読みください。ただこの文章では、ある理想像と自分を比べて反省するという例が実存的存在に関する測定の例としてあげられており、上のように、ある面接官が他の人間(応募者)について評価する例とは表面的には異なっておりますので少しご注意ください(もちろん、これら二つの例は原理的には同じものだと考えられます)。
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■ 実存的存在に関する測定 (ontological measurement)
しかしもう一つの種類の測定において、私たちは自分たちを物差しにあてがったり天秤皿の中に入れたりしない。この種類の測定はプラトンによれば「ふさわしい」 (fitting) や「正しい」 (right) という基準 (a standard) を用いて行われるものである。この測定は[外に向かう]行為 (an act) というよりはむしろ[内に向かう]経験 (an experience) である。自分たちがやったこともしくは自分たち自身が、自分たちの可能性や自分たちが掲げる理想 (they could or should be) に比べるならまだ足りないことを自覚する経験である。一定の規則に従うだけでこういった測定を行うことはできないし、そもそも数量化 (quantification) できるような類のものではない。これは「比喩的な」意味でのみ測定であると言うべきだろうか。[しかし]これはある基準 (a standard) と対照させた測定ではある。[ただその基準は物理的存在物に関する測定の際に用いる基準とは異なり]ふさわしいあるいは正しい実例 (the fitting or the right example) である。その実例と私たちの行ったこと (actions) ―さらには自分たち自身 (our selves) ―を比べるなら、私たちは自分たちの存在がまだ不十分であり、まだ発展の余地があること (there is more to be) がわかる。私たちはまだ自分たちの潜在的可能性 (potential) に到達していないことを実感する。これを「実存的存在に関する」測定 ("ontological" measuring) と呼んでもいいのかもしれない(この用語法は哲学者が存在について記述するやり方に基づくものである)。実存的存在に関する測定には、厳密な意味で明確に定義できる特性はなく、数量化できるものは何もない (nothing quantitative)。どんな計算を施しても、実存的存在に関する測定を生み出すことはないだろう。方法論 (method) で行えるものではないのだ。実存的存在に関する測定は、[現実の]人間を超えた何か (something trans-human) と私たちを結びつける。その何かとは、私たちがその内に入り、身を捧げる (participate in) 何かであり、私たちが上から支配できる (command) ものではない。物理的存在物に関する測定において、私たちはある対象をその対象の外 (exterior) にある対象と比べるが、実存的存在に関する測定では、私たちは自分自身もしくは自分が生み出したものを、私たちの存在が巻き込まれ関係づけられている何か (something in which our being is implicated, to which it is related) と比べる(善や正義や美の概念などがその例にあたる)。実存的存在に関する測定は、物理的存在物に関する測定の流儀では行えない (ontically measureless)。
Crease, Robert P.. World in the Balance: The Historic Quest for an Absolute System of Measurement (p.270). W. W. Norton & Company. Kindle版からの拙訳
■ 現代の測定文化 (the modern metroscape)
現代の測定文化において、私たちはただ単に測定そのものに注意を払うのではなくて、私たちが測定することで成し遂げようとしている目的 (the goals) にこれまで以上の注意を払わなければならない。測定が測定し得ないことについていだく不満にもっと注目しなければならない。だがこれらの不満に対して、現在の尺度 (measures) を捨ててより新しくより優れた尺度を求めることで応えてはならない。なぜならそれらの尺度とて結局は私たちの望みを満たしてくれず捨て去らなければならないようになるからである。かといって実存的存在に関する測定は「不可能」 ("beyond" measuring) と思い込んでもいけない。現代の測定文化において私たちは、どの測定 (measurements) が何を測定できず、どこで失敗するのかについてもっと丁寧に言語化 (articulate) しなければならない。しかし現代の測定文化における物理的存在物と実存的存在に関する測定の違いに目を向けるもっとも重要なことは、それぞれの測定という行為がどのように実行されるかについて反省的に省察 (reflect) するだけでなく、測定文化そのものおよびそれが私たちに何をなしているかについて反省的に省察することである。正午に大砲を撃って時を告げる昔ながらのやり方に絶対的な基準を導入して正確を期した後でも、そもそもなぜ私たちがそういった制度を作り出すにいたったのかという人間的な目的 (the human purposes) は何であったのかということを思い起こさねばならない。そしてその最新の方法がそもそもの人間的な目的の障害になるとしたらそれはどこからなのかということについても考えなければならない。
Crease, Robert P.. World in the Balance: The Historic Quest for an Absolute System of Measurement (pp.275-276). W. W. Norton & Company. Kindle 版よりの拙訳
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