2018年7月3日火曜日

Robert Crease氏によるエッセイ「文化を測定する (Measuring culture)」の抄訳



ロバート・クリース (Robert Crease) 氏については、私はだいぶ前にたまたまThe New York Times紙のエッセイで読みいたく共感しましたので、昨年、そのエッセイの翻訳をこのブログで公開もしました。

Measurement and Its Discontentsの翻訳

ここでは8/9(木)のLET全国大会パネルディスカッション「大学入試改革は、高校英語教育での四技能統合を推進するのか?」 (http://www.j-let.org/let2018/page_20180222024053)  の準備の一環として、クリース氏の別のエッセイの一部を翻訳します。

原文は以下から自由に読めます。

Robert P. Crease: Measurement
の中の
Measuring Culture (Physics World Link)
です。


翻訳した箇所は4つで、それぞれ小見出しをつけました。
(1) ケルヴィン卿の宣言
(2) 二種類の測定の区別
(3) 人間の営みを測定する場合は、測定が測定対象となる営みそのものとその営みの目的を歪めてしまう。
(4) 人間の営みを測定する場合は、誰が何のために測定しているのかということもはっきりしておかねばならない。

(1) では19世紀以来続いている「数量化できなければ科学ではない」という考えが表明されます。
(2) では科学的な測定と、そうではありえない測定の区別が提示されます。(これは上記NYTの記事の趣旨でもあります)。
(3) では人間の営みを測定する際の問題点が説明されます。
(4) では (1) や (3) を踏まえた上で、最低限私たちがやるべきことが示されます。

それでは以下が抄訳と若干の補足情報です。


*****


(1) ケルヴィン卿の宣言

「あなたが自分が語っていることを測定し、数字で表現している場合、あなたはそのことについて何かしらのことを知っている。しかしあなたが数字で表現できない場合は、あなたの知識は貧弱なものであり満足できない種類のものである。そういった知識は知識の始まりなのかもしれないが、あなたはそれを思考の中で科学の段階までほとんど進展させていないのだ。これは事柄が何であれである。」

※ 参考情報
Wikipedia: William Thomson, 1st Baron Kelvin
https://en.wikipedia.org/wiki/William_Thomson,_1st_Baron_Kelvin
ウィキペディア:ウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%88%E3%83%A0%E3%82%BD%E3%83%B3


(2) 二種類の測定の区別

私は(2011年出版の ”World in the Balance" で初めて表明した)区別を引用した。それは基準と対照させる測定 (measurement against standards) --国際単位系はこの測定である--と、理想と対照させる測定 (measurement against ideals) の区別である。

前者は手続き的で慣習的 (procedural and conventional) であるが、後者は経験に基づくもの (experiential) であり正義や教育といった目的 (goals) とか関わっている。皮肉なことは、私たちの文明が基準と対照させる測定を「新国際単位系」と共にほぼ完璧な測定にしている時に(新国際単位系はこれまでパリにあったキログラムの人工基準を自然科学の定数に換えるものである)、理想と対照させる測定はこれまでになく物議をかもしていることである。

※参考情報
Wikipedia: International System of Units (SI)
https://en.wikipedia.org/wiki/International_System_of_Units
ウィキペディア:国際単位系 (SI)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E5%8D%98%E4%BD%8D%E7%B3%BB

※ 上記の「理想」、あるいは「理念」は、カント哲学の枠組みでの意味合いで使われていると思われます。
簡単に言えば、理念とは、現実の現象世界のさまざまな条件を一切捨象して考えられた無条件的な考え(=現実の諸条件には拘束されずになりたっている考え)です。
「理想」は理念の一種で、無条件的なのですが、具体的で個別的なイメージが与えられています。日常語での「理想像」と同じと考えていいかと思います。

関連記事:「コミュニケーション能力」は永遠に到達も実証もできない理念として私たちを導く
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2012/10/blog-post_5.html

関連記事:Summary of Kant's Critique of Pure Reason
1 Introduction and Key terms
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/introduction-and-key-terms-summary-of.html

2 Transcendental ideas
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/transcendental-ideas-summary-of-kants.html

3 'I' as the transcendental subject of thoughts = X
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/i-as-transcendental-subject-of-thoughts.html

4 Freedom
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/freedom-summary-of-kants-critique-of.html

5 Principle of Pure Reason
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/09/principle-of-pure-reason-summary-of.html


※ こういった考え方に基づき、私はかつて「リスト化・数値化の危険性」という文章を三友社『新英語教育』2015年7月号の19ページに掲載させていただきました。要旨は「コミュニケーション能力」は理念であり、必要十分に測定できる概念ではないということです。
短い文章ですので、お読みいただけたら幸いです。

関連記事:「リスト化・数値化の危険性」
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2015/08/blog-post_31.html


※ なお「理想と対照させた測定」までも「測定」と呼んでしまうことについては私は少し抵抗を感じています。これに関しては、以下の拙稿をお読みくだされば幸いです。

関連記事:創造性を一元的な評価の対象にしてはいけない
http://cis.hiroshima-u.ac.jp/2017pdf/11.pdf


(3) 人間の営みを測定する場合は、測定が測定対象となる営みそのものとその営みの目的を歪めてしまう。

理想と対照させた測定の一つの障害となるのが、ハイゼンベルクの不確定性原理の文化版のようなものであるグッドハートの法則である。この法則は、英国の経済学者であるチャールズ・グッドハートにちなんで命名されたが、彼は1975年にこの法則を表明した。法則の基本的な考え方は、ある尺度 (a measure) が政策決定のために選ばれると、その尺度は尺度としての価値 (value) を失ってしまうというものだ。グッドハートはこの法則を金融政策 (banking policy) に適用したが、他の分野でも同じように、測定は測定される実践 (the practice being measured) を歪めて (distort) しまうだけではなく、私たちが目的をどのように認識するか (the perception of the goal) までも歪めてしまう。例えば知能 (intelligence) を標準化テスト (standardized tests) で測定し始めるやいなや、学校はテストに合わせた教育をしてしまう (teach to the test)。そして知能とはテストに合わせた教育を子どもが受け入れる能力 (a child's ability to be taught to the test) だと考え始めてしまう。もし研究者の質 (researchers' quality)  を出版した論文の数で測定するなら、研究者は質の低い論文を不必要なぐらいに大量生産し始める。

※ 参考情報
コトバンク:不確定性原理
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8D%E7%A2%BA%E5%AE%9A%E6%80%A7%E5%8E%9F%E7%90%86-123742
ウィキペディア:不確定性原理
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%A2%BA%E5%AE%9A%E6%80%A7%E5%8E%9F%E7%90%86
Wikipedia: Goodhart's law
https://en.wikipedia.org/wiki/Goodhart%27s_law
Wikipedia: Charles Goodhart
https://en.wikipedia.org/wiki/Charles_Goodhart


(4) 人間の営みを測定する場合は、誰が何のために測定しているのかということもはっきりしておかねばならない。

しかし今日の世界では、ニューヨーク近代美術館に集まったパネリストたちも同意したように、ケルビン卿の宣言が力をもっている。たとえそれが文化的な事柄であれ、政治家、政策決定者、出資者は測定によって動いている (measurement-driven)。したがって私たちは、文化的な機関 (cultural institutions) のために測定基準 (metrics) を考案する際には、もっと巧妙でなくてはならない。だが、グッドハートの法則を回避するためには、私たちは、測定には「それ」 (it) --測定されるなにか--だけでなく、「誰」 (who) --測定をする人間--が関与していることも思い起こさなければならない。理想と対照させた測定を行う場合、測定は匿名 (anonymous) であってはならない。誰が何のために測定をしているかを明確にしなければならない。
 [ニューヨーク近代美術館の管理者である]アントネリが言ったように、「文化的影響 (cultural impact) を測定することの問題は数字だけでは解決できない」のだ。

※ 少しことばを補っておきますと、例えば私たちが入学や入社のために面接試験を行う場合、私たちは常識的というか直感的にそれを「コミュニケーション能力を測定している」と標榜している客観式標準テストの得点でもってすませてしまうことはないでしょう。複数の面接官がさまざまな質問を投げかけ、応募者の応答を観察し、面接終了後はその複数の面接官が話し合うのが現実というものでしょう。その話し合いでは、それぞれの面接官の個性(who) や入学・入社に関する考え (why) を互いに自覚した上で、協議がなされるはずです。こういった現実の営みを、機械的な試験で代替してしまうようなことはおよそ愚かなことです。しかし、私たちは徐々にその方向に文化を導いているのではないでしょうか。

※ このあたりはアレントも強調していることです。

関連記事:真理よりも意味を、客観性よりも現実を: アレント『活動的生』より
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2016/05/blog-post_24.html

関連記事:「英語教育実践支援研究に客観性と再現性を求めることについて」の論文第一稿
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2017/06/blog-post.html


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お知らせ



7/22(日)に広島大学で開催される広島大学英語教育学会では、先日締め切った第2回英語教育小論文コンテスト「10代・20代が考える英語テストのあり方」の受賞作品を受けて、一般公開企画として対話の集い「英語テストのあり方」(無料)と情報交換会(茶菓子代として500円)を開催します。

簡易託児所(学生バイトによる管理ですので乳幼児のケアはいたしかねます)も用意しますので、ぜひ皆様もお越しください。




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