2018年7月28日土曜日

森田真生先生の講演会「数学の身体性と普遍性」に参加して考えたこと



広島大学の教育ヴィジョン研究センター(EVRI)による企画である森田真生先生の講演会「数学の身体性と普遍性」(2018/07/28 13:00-16:00広島大学中央図書館ライブラリーホール)に参加しました。とても面白かったので、忘れないうちに自分で考えたことをメモしておきます。

■印に続く文は、森田先生のお話の要約ですが、それには私自身の言い換えや解釈(誤解)が入っていることは最初に申し上げておきます。[ ]内と▲印に続く文は私なりに考えたことです。まあ、要は、以下の記述の中で、何かいいことが書かれていたらそれは森田先生によるもので、間違いが書かれていたらそれは私によるものということです(笑)。



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▲ 全体的な印象を最初に述べるなら、マトゥラーナとヴァレラのシステム論的な考えが基底にあり、その上で急速かつ多面的に変化している現代社会の現象を踏まえながら語っていたのが印象的[私はお話を、自分で理解している限りのルーマンの論に翻訳しながら聞きました]。
関連記事
柳瀬ブログ:ルーマン関連の記事
https://yanaseyosuke.blogspot.com/search/label/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3

■ 「XのためにYをする」という目的-手段構造の問いを何回か重ねると(「では何のためにYをするのか?」・・・)、「αするためにαする」という同語反復が生じてくる。だが、この同語反復命題こそが人間にとって重要。

■ 現在の人工知能研究は発展しているように見えるが、やはりプログラムにおける評価関数は外から予め与えられることが多く、そこに限界があるのかもしれない。ただ遺伝的アルゴリズムの手法を使い、かつ、集団の平均値からもっとも外れた個体の情報を遺伝させるようにすると、非常に面白い進化が生じるとも聞いている。
関連サイト
ウィキペディア:評価関数
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%95%E4%BE%A1%E9%96%A2%E6%95%B0
松尾豊 (2015) 『人工知能は人間を超えるか』、松尾豊・塩野誠 (2016) 『人工知能はなぜ未来を変えるのか』
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/01/2015-2016.html


■ 認識の成功とは変化する世界に参加できていること[デューイ的な発想]
関連記事
John Dewey (1916) Democracy and Education (デューイ『民主主義と教育』の目次ページ)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2013/09/john-dewey-1916-democracy-and-education.html

■ 華厳経での「重々帝網」(じゅうじゅうたいもう)を世界の比喩として考えるなら、その網の一部を切り出したのが学問の知恵といえるかもしれない。切り出された網の一部を垂れ下げると樹形図のようになり、その始点を私たちは原因と考える局所的な説明ができあがる。
関連サイト
ウィキペディア 華厳経
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E5%8E%B3%E7%B5%8C
織田隆深 「人体は、 巨大なネットワーク -- 重々帝網(じゅうじゅうたいもう)なるを即身と名づく」
http://mitsumonkai.na.coocan.jp/prefaces/preface201801.html
末期癌の医師・僧侶が語る空海「重々帝網名即身」の解釈
https://www.news-postseven.com/archives/20161020_457135.html
宮沢賢治 『インドラの網」
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/460_42328.html

■ Knowing [うまい日本語訳が見つからない!] はbeingによって包摂され規定されているが、同時にknowingはbeingを変容される。しかし、近代の学問はknowingをbeingから切り離した上でそれを不動のものとして設定した。

■ 学校の教室とは、学習者がいかに行動しようと、授業という環境が変わらない場所だと表現できるかもしれないが、このように特殊な場所は他にはない(他の場所では、人の行動によって環境はそれなりに変わり、人と環境は相互作用を起こす)。

■ 学校に長い時間いさせるということは、「自分は何をやっても環境は変わらない」という信念を若い人に植え付けることとすら言えるかもしれない。

■ しかも学校・教室という空間は閉鎖的であり、授業という目的に直結しないものはできるだけ置かれないようにされている。

■ しかし思考や創造性を環境変化への対応と考えるなら[デューイ的発想]、環境がnoisyでmessyであってこそ思考や創造性は始動するのではないか。

■ 多様な人間と出会わないと、自分が進むべき道もなかなかわからないだろう。

■ 何の変化もない環境で「考えろ」と言われても、それはおよそ困難な要求であろう。

■ 社会や人間観が変わると同時に学校も変わる。たとえばフンボルトは彼なりに時代の変化を感じ取り新しい大学像を提示したが、現在もこのような大学像のままでよいのだろうか?[初等・中等教育については、テイラーやソーンダイクの影響が強かったが、これにも変化の必要はないだろうか?]

関連サイト
【報告】「哲学と大学」 第3回「フンボルトにおける大学と〈教養〉」
https://utcp.c.u-tokyo.ac.jp/blog/2008/02/report-philosophy-and-universi/
いかにして私たちの世界は標準化されてしまったのか
Ch.2 of The End of Average by Todd Rose
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/04/ch2-of-end-of-average-by-todd-rose.html

■ 学ぶことはもっと生きることに近づかなければならない[デューイ的発想]

■ ヴァレラはなめらかな知性としてのKnow-Howとぎこちない知性としてのKnow-Whatを対比させたが、前者こそが私たちの知の根源である。
関連サイト
FRANCISCO J. VARELA Ethical Know-How: Action, Wisdom, and Cognition
https://www.sup.org/books/title/?id=896
https://www.amazon.co.jp/Ethical-Know-How-Cognition-Writing-Science/dp/0804730334

■ 現在「公準」と日本語に訳されている概念は、古代ギリシャでは「要請」という意味だった。この要請を受け入れた人たちだけが、数学というゲームに参加することができた。例えば、「幅のない線」という概念を認めないと幾何学というゲームに参加することはできない。

■ 数学教育の目的とは、数学の技術(代表的なものとして計算)を教えることなのか、それとも数学を通じて学習者に自己変容を経験させることなのか。

▲ 現状の学校教育で学習者と教師を疲弊させてしまっている要因の一つは、他律的で標準化された評価。こういった評価で管理されると、学習者が学習者なりの自己変容を経験することを支援するのが教師の役目といった考え方は否定される。

■ 生命とはそもそも自律的 (autonomous) であるが[オートポイエーシスシステム(自己生成システム)であるが]、自律的であるということは自らの過去に縛られているということでもある。

■ そんな人間も、計算を覚えると、外部からの入力に対して一定の出力を出すようになるという意味で他律的 (heteronomous) になる。しかしこの他律性により、人間は過去の自分からは考えられないような結果を自らの中で作り出すことになる。最初、その結果は意味不明だが、何度も同じような計算をすることにより、そこに意味が見出されるようになる。

■ 計算のやり方を覚えることが数学の第一段階だとしたら、最初は意味不明に思えた計算結果から意味を見出すことが数学の第二段階と言えないだろうか。

▲ 数学の学びは、最初はrealな身体(=生物学的・歴史的に拘束された実在的身体)で始まるが、やがて数学を学ぶにつれ学習者は計算などで導かれる数学世界で活動するようになりactualな身体(=数学という行為を行うことによって実感される現実的存在)を実感し、ひいてはそのactualな身体でも実感できないが数学世界にいる以上、認めざるをえないvirtualな身体(=数学をやる限りにおいて認めざるをえない仮想的身体)を獲得するとはいえないだろうか。

■ これからは計算を得意とする機械と、意味を見出すことを得意とする人間が相互作用を起こすことにより、創造性が向上するのではないだろうか。

▲ 話を聞いていると、数学教育を刷新する方法の一つは、STEM (Science, Technology, Engineering and Mathematics) にArtを足したSTEAM  (Science, Technology, Engineering and Mathematics) という枠組みで、学習者が何かの現実世界の課題をプロジェクトにして、数学を他の知と連動的に学ぶようにすることであるように思える。この場合、学習者は「気がついたらプロジェクトに参加していて、しかもそれを面白いと思っていた」となるようにするべきだろう(これは『ライフロング・キンダーガーテン』で描かれている学びの姿でもある)。

ただし、これは相当に力量のある教師が融通無碍に協働し、かつ世界のさまざまなリソースを使いこなさないと難しいことなのかもしれない。伊藤穰一がよく言う「押し出す力よりも引き出す力 (pull over push)」を学ぶことが必要だろう。

ウィキペディア:STAM教育
https://ja.wikipedia.org/wiki/STEAM%E6%95%99%E8%82%B2
Wikipedia: STEAM fields
https://en.wikipedia.org/wiki/STEAM_fields
What is STEAM?
https://educationcloset.com/steam/what-is-steam/
ミッチェル・レズニック 『ライフロング・キンダーガーテン 創造的思考力を育む4つの原則』




伊藤穰一、ジェフ・ハウ著、山形浩生訳 (2017) 『9プリンシプルズ:加速する未来で勝ち残るために』早川書房
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/01/2017-9.html

■ 学ぶ者は、次に自分が学ぶことで自分がどのように変わるかを予め知ることはできない。この点を考えるなら、学習者にその時点での学習者がわかる理屈で学習を促進させようとするのは筋違い。むしろ、学習者が、学習者のレベルを超えた学びをしている人間と交流し、それら先達が学んだ文化を楽しんで実践している姿を見せることが重要。

■ 社会におけるさまざまなシステムは相互依存しているので、例えばある教育システムだけが改善されたとしても、その教育システムから出た者は、他のシステムでは苦労するだろう(たとえばあるとても先進的な学校を出た者は、日本社会では苦労する)。

■ システムの相互依存性を考えるなら、あるシステムが変わる時はおそらく社会のさまざまなシステムも同時に変わっている時なのではないか。

■ 社会のさまざまなシステムが同時に変化し始めると「当たり前」が通用しなくなる。その時にこそコミュニケーションは意味をもつ。現代はまさにそのような時代ではないか。

▲ 現在の学校教育システムで良心的に教育しようとしている教師は、惰性的に続いているだけのシステムの中にいながら、そのシステムを変革して教育を行わねばならないというジレンマに引き裂かれるような思いをしているかもしれない。だが、考え方を変えるなら、そのような教師の役割とは、現状の学校教育システムの内側で、子どもに現状のシステムへの対応を教えながらも、学校教育システムに潰されないように子どもを守り、いつかくるだろう諸システムの大変化に備えた学びを促進することではないのか。

▲ しかし、諸システムの大変化は一晩で起こるものではないだろう。現在はすでにその渦中にあると考えて行動するべきではないか。



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いろいろと思考を触発される講演会でした。学校教育関係者にはこのような「撹乱」が必要でしょう。さもないと、私たちは窒息してしまうかもしれません。

また、森田先生の著作を読み返したくもなりました。









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