2015年12月21日月曜日

オープンダイアローグの詩学 (THE POETICS OF OPEN DIALOGUE)について



斎藤環先生による『オープンダイアローグ』は大変にわかりやすい本で、「開かれた対話」を行うことが、精神疾患の抜き差しならぬ状況の改善にも効果的であるというフィンランドでの事例を一般読者にもよく伝えてくれます。コミュニケーションと教師による語り合いの二つに興味をもつ私もこの本で、オープンダイアローグについてのある程度の知識を得ることがでました。



この本の中には三本の英語論文の翻訳が掲載されていますが、これが非常に読みやすい翻訳です。私としてはあまりにも面白かったので、英語論文の方にも目を通してみることにしました。英語で読むとまた日本語翻訳を読むのとは少し異なった角度から考えることができ、非常に有益でした。

そこで私なりにさらに理解を深めるため、英語論文の一部を自分なりに翻訳してみることにしました。その翻訳をした後で本書の翻訳を再度読んでみると、本書の翻訳が非常に優れたものであることが再確認(というより痛感)できましたが、個人的には、原文と翻訳と拙訳の比較でさらにこの論文が表現しようとしている内容に新たな角度から考えることができたと思っています。

以下に掲載するのは、本書に翻訳が掲載されている第一論文の一部の拙訳とそれに対応する原文です。可能ならば、本書の優れた翻訳を掲載すればいいだけなのでしょうが、著作権の関係からそれは控えるべきでしょう。本書の内容に興味をお持ちの方は、ぜひ本書をご購入してその優れた翻訳をお読みください。

なお、この第一論文を含めた三本の論文は容易にインターネットで読むことができます。この第一論文は以下のページから閲覧しました。



Seikkula J, Olson ME. (2003)
The Open Dialogue Approach to Acute Psychosis: Its Poetics and Miropolitics
Family Process, 42(3):403-18.




以下は、この論文の中で、特にコミュニケーションの原理(「オープンダイアローグの詩学」)として説明されている三つの原則(「不確定性の容認」、「対話主義」、「多声性」)のごく一部です。

こういった原則は、教師の間、教師と児童・生徒の間、教師と保護者の間などでのコミュニケーションにおいても重要だと考えましたので拙訳を掲載する次第です。私としては、コミュニケーションの言語が第一言語(日本語)であろうが第二言語(英語)であろうが、こういった原則は尊重されるべきであると考えています。

もちろん精神疾患現場での議論をそのまま教育現場の議論に無批判的・無思考的に適用することは慎むべきです。二つの現場の違い(あるいは、そもそもフィンランド文化と日本文化の違い)をよく考えた上で、このオープンダイアローグの知見は応用されるべきでしょう。以下の拙訳は、そのように考えるための材料の一つとして掲載することを念のために述べておきます。





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オープンダイアローグの詩学 (THE POETICS OF OPEN DIALOGUE)



■ 詩学 (poetics) の定義

ここでいう「詩学」とは、人と人が顔を合わせている状況での言語とコミュニケーションの実践を指す用語です。

The term “Poetics” refers to the language and communication practices, in face-to-face encounters (Hoffman, 2002; Olson, 1995).  (p.404)



■ 不確定性の容認 (Tolerance of Uncertainty)

不確定性の容認とは、仮説形成やそれ以外の評定手段を体系的に実行することとは異なる原則、いや、それとは真反対の原則です。実践的には、会合を頻繁に開き対話の質を高めることで不確定性が容認できるようになります。

Tolerance of uncertainty is the counterpart to, in fact, the opposite of, the systemic use of hypothesizing or any other kind of assessment tool.
In practice, tolerance of uncertainty is constituted by frequent meeting and by the quality of dialogue. (p. 408)


耳を傾け一人ひとりの声と視点に対応し、一人ひとりを正統な参加者として認めることで安心感が生じます。このような容認がなされれば、家族や患者の心理的(私たちの言い方なら「対話的」)な潜在力がもっと活かされる可能性が生じます。このことによって、困難な出来事の経験を表現する言語を以前はもっていなかった家族や患者が行為主体へと変容します。

Safety is established initially by hearing and responding to every person's voice and point of view, thus legitimizing each participant. If this king of tolerance is constructed, there emerge more possibilities for the psychological (or what we might now call “dialogical”) resources of the family and the patient who thereby become agents who previously did not have a language to express their experience of difficult events. (p. 408)


したがって、セラピストは予め問題は何であるかを定義することなしに対話に参加します。対話自体が新しい考えと物語をもたらすと信じているからです。

The therapists therefore enter without a preliminary definition of the problem in the hope that the dialogue itself will bring forward new ideas and stories. (p. 408)



■ 対話主義 (Dialogism)

対話についてのバフチンの考えと、その考えを精神病の状況に適用することの根底には、社会的現実を構成しているのは言語とコミュニケーションであると考える伝統があります。ことばを紡ぎ出して象徴的なコミュニケーションを行うということは、声を見出し、アイデンティティを見出すことです。これは、互いに相補う「人々の間で」生じる行為主体的な活動です (Gergen, 1999)。こう考えることにより、危機は、自己と社会的世界を構成する物語・アイデンティティ・関係性という織物を織り上げ、織り直す機会となります。

The Bakhtinian idea of dialogue and its adaptation to the psychotic situation derive from a tradition that sees language and communication as primarily constitutive of social reality. Constructing words and establishing symbolic communication is a voice-making, identity-making, agentic activity occurring jointly “between people” (Gergen, 1999). The crisis becomes the opportunity to make and remake the fabric of stories, identities, and relationships that construct the self and a social world. (p. 409)



■ 多声性 (Polyphony)

意見の食い違いが生じた場合、望ましいのはすべての声の存在を認め、互いに耳を傾けあい意見を交換することです。正しいか間違っているかのどちらかだという○か×かの考え方はやめるべきです。だからといって、誰もがすべての視点を受け入れなければならないというわけではありません。人々の間には意見の相違があるものです。よい変化が生じるのは、安心できる環境で異なるものの見方が表明されるという単純なことからです。私たちが目指しているのは、お互いが相補いながら理解することであり、全員一致の合意を得ることではありません。

When differences arise, the hope is to give all voices room to exist and thus encourage listening and exchange, rather than polarized, right-or-wrong thinking. This does not mean that everyone has to accept all points of view; people can disagree. Positive changes can take place simply from the airing of different perspectives in a safe climate. The goal is to generate joint understanding, rather than striving for consensus.  (p. 410)


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「不確定性の容認」、「対話主義」、「多声性」のどれも、現代(日本)文化が抑圧しているもののであるような気がします。エビデンスつきの確実な結論をもった者だけが発言権を得て対話を無駄な営みと軽視し、現場に一つの声だけを響き渡らせようとする抑圧的な雰囲気が、教育現場にも浸透しようとしているような気さえ私にはします(私が知っている英語教育の現場が例外的であることを望みたいのですが・・・)。

その意味で、「不確定性の容認」、「対話主義」、「多声性」という重なりあう三つの原則については大切に考えたいのですが、今回、特に印象的だったのは、"joint understanding"という用語でした。これは "consensus" (全員一致の合意)の対立概念として使われている用語で、本書はこれを「理解と理解を結び合わせること」と翻訳していましたが、絶妙な翻訳だと思います。

上の拙訳では「お互いが相補いながら理解すること」と(やや冗長に)翻訳しましたが、要点は「全員に共通している理解がなくとも、一人ひとりが自分なりの理解をして、その理解がコミュニケーションを通じて相補うように働くことで、全員でなんとか協働的に理解をするができる」といったことかと私は理解しました。

英語の表現に "unity of difference"というのがありますが、お互いの違いが統合されることにより、問題が理解されてゆくというのは、人間の複数性を欠くべからざるものとして尊重する態度に重なると私は思っています。

また、人間の経験世界の複合性 (complexity) からすれば、単一の視点からの一つの見解だけで経験世界全体を把握しようとすることは愚かなことで、その単一の見解で経験世界を支配しようとするのは極めて危険だと考えられます。私たちは最終解がないままに、互いに耳を傾けあい、お互いに相補いながらなんとか事態を乗り切ってゆくべきではないでしょうか。

そういった考えは、一つの結論だけで突き進んでゆく勇ましい考え方からすれば、いかにも我慢のならないことのように思えるかもしれませんが、私は過度の単純さと性急さこそが批判されるべきだと思っています。というよりも意見の違いと不確定性を容認し、対話を続けてゆく文化こそが民主主義ではないでしょうか。

こういった意味でも、私としてはこの"joint understanding"という概念について考えを深めたいと思っています。


追記 (2015/12/22)
"Joint understanding"は、「互助相補的理解」あるいは「相互扶助的理解」と翻訳してもいいのではないかとも思い始めました。訳語については今後も考え続けたいと思います。







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