2011年5月28日土曜日

七沢潔(1996)『原発事故を問う ―チェルノブイリから、もんじゅへ― 』岩波新書(その2 隠蔽される事故原因と放射線障害)

この記事は「七沢潔(1996)『原発事故を問う ―チェルノブイリから、もんじゅへ― 』岩波新書」の続きです。



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■今、日本で発足しようとしている事故調査・検討委員会

先日、政府は今回の原発事故の調査・検証委員会の委員長に「失敗学」で有名な畑村洋太郎氏を選びました。言うまでもなく、この委員会は、今後の賠償補償問題だけでなく、未来の原発政策に大きな影響を与えるものです。多元的で科学的な検討が必要です。

しかし、この畑村洋太郎氏は、原発事故の有様がかなり明らかになった今年の4/21の時点での産経新聞のインタビューで、次のように明言しています。


人類は原発を知り尽くしていない。だからこれからも事故は起きるだろうが、事故を克服して原発を使っていくべきだ。

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110421/dst11042103130002-n1.htm


まさにこれから調査・検証しなければならない事象について、これだけ明確な方針を公言している人が事故調査・検証委員会の長に内定するというのは、私にとってはおかしなこととしか思えません。


それでも畑村氏は「失敗学」と自称する学問の創始者だから期待できるとする向きもあります。

しかしコンプライアンスを始めとして、的確な発言を繰り返している郷原信郎氏は、畑村氏起用についてわざわざ次のように発言しています(太字強調は私が付け加えました)。


しかし、注意しなければならないのは、畑村・失敗学は、従来の事故原因調査等とは考え方が全く異なるということだ。

事故の発生や拡大に関係する様々な要因を抽出し、そこから「本質安全」への道筋を明らかにしていくというのが「失敗から創造へ」という畑村・失敗学の基本的な考え方であり、「誰が悪かったのか、誰の責任か」ということは問題にしない。そこで、明らかにされる事実というのは、「そういう発想で事故原因を考えることが、安全につながる」という一つの「仮説」であり、事故原因と結果の因果関係を実証することではない

畑村先生を中心とする委員会の調査・検討が、今回の原発事故問題への対応や、今後の我が国の原発をめぐる政策に、活用されるためには、このような畑村・失敗学の基本的な考え方が調査に携わる関係者に理解されるだけではなく、国民に受け入れられる必要がある。

今後、委員会が立ち上げられ、そこでの議論が、必要に応じて公開されるであろうが、それを、従来の事故調査のような責任論や法的原因論の観点でとらえると、大きな違和感を生じることになる。

まず、「失敗学」の考え方について認識を共有することが必要だ。



郷原氏が言いたいのは、事故調査・検証委員会の委員長の学問的信念が、このように、事故再発を防ぐものではなく、どうやって失敗から安全を作りだすかというものであることを、国民はきちんと理解しているか、ということだと私は理解しました。私などは、この畑村・失敗学が、「原発安全神話改訂版」を創り上げるのではないか心配です。


また、この委員会のメンバーは以下のように発表されています。


柳田邦男・ドキュメンタリー作家 ▽ 古川道郎・福島県川俣町町長 ▽ 尾池和夫・前京大学長 ▽ 柿沼志津子・放射線医学総合研究所放射線防護研究センターチームリーダー ▽ 高須幸雄・前国連大使 ▽ 高野利雄・元名古屋高検検事長 ▽ 田中康郎・元札幌高裁長官 ▽ 林陽子弁護士 ▽ 吉岡斉・九州大副学長

http://mainichi.jp/select/jiken/news/20110528k0000m040075000c.html


それぞれのリンク先を見ていただければわかりますように、この中には原子力工学の研究者がいません。かろうじて柳田氏がドキュメンタリー作家として、吉岡氏が科学史・科学社会学研究者としての知識と経験をもっているぐらいです。このメンバーで、厳密な事故原因の調査と検証ができるのか、それほど楽観的になれません。

もちろん原子力工学研究者のほとんどは「原子力ムラ」の住人とも言われていますから、原子力工学者を入れていないとも主張できるかもしれません。しかしそれでしたら先日、参議院行政監査委員会で原子力工学専門家として証言をした「原子力ムラ」の住人ではない小出裕章氏(京都大学助教)などの人材を招くこともできたはずです。




このように、(1)委員長畑村氏の個人的信念(原発継続)、(2)同氏の学問的信念(対象となる技術の安全化を目標とする)、(3)委員会メンバーに原子力工学の専門家がいない、といった理由から、私はこの委員会が、きちんと事故原因の調査・検証をできないのではないかと懸念しています。(※首相官邸の見解はhttp://www.kantei.go.jp/jp/tyoukanpress/201105/27_p.htmlで読むことができます。)



しかし、それはまだわからないことと今はしておきます。それよりも、ここではチェルノブイリの事故調査で実際に何が起こったかを、七沢潔(1996)『原発事故を問う ―チェルノブイリから、もんじゅへ― 』岩波新書からまとめてみたいと思います。




■ソ連政府が事故の数ヵ月後にIAEAに提出した報告書は、事故を運転員のミスとした。

1986年8月にIAEAで行われた「チェルノブイリ原発事故国際検討会議」にソ連政府が提出した報告は、「事故の第一義的原因は、発電部署の要員たちが犯してしまった、まったくありうべからざる指示違反、運転規則の組合わせだった」というものでした(85ページ)



■5年後の国家原子力安全監視委員会のシュテインベルク報告書は、事故は運転員のミスではなく、制御棒の構造によるものだとした。

しかしながら事故から5年たった1991年の国家原子力安全監視委員会のシュテインベルク報告書は、1986年の事故調査報告とはまったく反対の結論を出します。事故は運転員のミスによるものではなく、原子炉の構造上の欠陥であったとしたのです。

この背後にはもちろん1991年のソ連崩壊があるでしょう。しかしシュテインベルク報告は、単にソ連が崩壊したから、ソ連の公式発表を否定したというものではなさそうです。七沢氏は、この画期的ともいえる報告が出た背景について次のように述べています。


まず、彼自身がチェルノブイリ原発の元運転員であり、その職場の仲間が被災し、生命を失ってまでも「国賊」扱いされてきたことへの深い憤りが原点にあることは疑いない。それに加えて、彼自身、ソ連政府事故調査委員会に協力して、自己原因調査のプロセスを見てきたことにも由来している。

私とのインタビューを、シュテインベルクは衝撃的な証言で結んだ。


「実は原子炉の欠陥が真の事故原因だったことは、86年の5月の段階で、政府の事故調査委員会、そしてソ連政府の上層部にまでも、十分よく知らされていたのです。その証拠に、事故後すぐにRBMK型原子炉の制御棒の改良をしています。それにもかかわらずソ連政府はあの当時、意識的に偽の情報を世界の前に、そしてソビエト国民の前に出していたのです」
(94ページ)





■ゴルバチョフの活躍と限界:政治家は真実よりも体制安定を選ぶ

もちろん86年の事故調査の際にもそれなりの調査はなされました。特にペレストロイカ(再構築)とグラスノスチ(情報公開)を掲げて改革に取り組んだゴルバチョフは、ソ連の守旧派の言いなりにはならないと独自の調査をし、それに勇気づけられていろいろな証言も出ました(120ページ)。しかしそんなゴルバチョフもかなりの真相を知りながら、事故原因は運転員のミスとする報告書を最終的には出してしまいます。そのあたりの事情を、ルイシコフ(元)首相は、七沢氏に語ります。


「ゴルバチョフは政治家です。彼が情報を発表するにせよ、その内容をどうするかは別の問題です。もしあの時、チェルノブイリ型原子炉が危険であることを発表してしまったら、ソ連国内のすべての同型原子炉が停止へと追い込まれたでしょう。そうなったら国を支える電力供給はどうなりますか。(中略)このような事故が起きたからといって、原発の重要性を忘れてしまうようではいけないのです」(127-128ページ)


七沢氏は93年に京都でゴルバチョフ氏と会い、彼自身から次の言葉を引き出しています(もちろんのことながら、この時点で彼は公的な政治権力の地位を失っています)


「政治家というものは、こういう場合には社会に動揺を与えないことをまず第一に考えるものなのです。公表したあとの、社会的影響を深く考慮すべきだという意見が、政治局の大勢だったのです」(129ページ)


政治家個人の倫理性や道徳性がいかに高かろうと、政治家が政治家である限り、必ず限界はあると考えるべきでしょう。



■IAEAは原子力の平和的利用を推進することを目的とする団体

しかし86年にソ連の報告書がIAEAの席上に出された時に、それには何の検討も加えられなかったのでしょうか。もちろんそういうわけではありません。IAEAの席上には原子力技術の専門家もおり、ソ連の報告書に対しては500を越える質問状が寄せられました。1日目にはすべての質問に答えると豪語したソ連のレガソフ代表も、原子炉の構造に関する質問も含まれたこの質問攻勢には弱り果て、会議の進行役に対してモスクワに帰ると言い出し、会議は中断されました。(141ページ)

この事態に対してIAEAのブリックス事務長はレガソフを始めとしたソ連の代表団をプライベートに夕食会に招待し「ソビエトがすべての質問に答えるだけの十分な準備ができていない事情は理解した。だから、答えられない質問は、モスクワに持ち帰り、あとで回答してくれればよい」と提案します。IAEAとしてもソ連代表が本当に帰国してしまったら困るからです。(141ページ)これ以外のさまざまな政治的妥協・功利によりIAEAは厳密な検証の場とはなりませんでした。



■IAEAを切り抜けたレガソフは2年後に自殺をした

しかしそうやってIAEA会議を切り抜けたレガソフも、その後良心の呵責を感じはじめ、またソビエト科学のためには体制の改革が必要と国内で唱え始めました。しかし彼の改革案はことごとく受け入れられず彼は村八分状態になります(154ページ)。そして彼はチェルノブイリ事故のちょうど二年後の1988年4月26日の深夜に自宅で首吊り自殺します。(153ページ)

七沢氏はレガソフの死を次のように総括します。


レガソフはその最晩年に、チェルノブイリ原発事故を招いた真の原因は長年国を支配した官僚体制がその内部に宿した病巣、「体制を維持するためには秘密を守り通し、民をかえりみない」という倒錯的な矛盾にあったことを見抜いていたに違いない。(155ページ)





■放射線障害調査も歪められた

調査はもちろん被曝住民に対してもおこなわれます。七沢氏がようやく公開されたカルテを調べたところ、避難民が検査のために入院した5月初旬には「放射線障害」という診断が目立っていました。しかし退院時には診断名は「神経血管疲労」に変わっていました。(235ページ)

七沢氏はコビィルカ医師長の証言を得ます。


「「神経血管疲労」という病名をつけることになったのは、ソ連保健省からの通達があったからです。「事故の規模はそれほど大きくないから、住民に放射線障害に関した病気は起こらない」という指示があり、われわれ現場の医師は、「放射線障害」と診断することを禁止されたのです。それで、ほとんどすべての患者に対して、上からの指示通り「神経血管疲労」の診断名を書きました。どんな症状が出ていても、判で押したようにこの病名になったのです。当時、医療分野は共産党とKGBのコントロール下にありましたから、医療検査の結果は特別の部屋に保存されて、機密扱いを受けたのです」(235ページ)




■IAEAは住民被曝被害の再検討に際して、ソ連政府の差し出すデータばかりを使った。

しかし、こういった診断に対してはさすがに国内で批判が高まります。そういった国民世論に対抗するため、ソ連政府は国際的な学者グループをIAEAに派遣してもらって調査してもらうことにしました(238ページ)。しかしその調査結果は、ソ連の対応は、避難と食物制限については、放射線防護の観点からは必要な範囲を超えており、もう少し緩和すべきである、また汚染地帯の住民が陥っているのは「放射能恐怖症」という心理的な病だとするものでした(239ページ)。こういった結果が出た背景にはIAEAが基本的に原子力推進を目的とすることがあると私などは考えますが、七沢氏は、こういった結果が現在は国際的に批判されているのは、第一にIAEAがの調査はソ連政府の委託と出資によるもので、独自の調査は少なく、ほとんどがソ連政府の差し出すデータの評価に終始したこと、第二に調査から大量に被曝した者を除外したことにあると書いています(239-240ページ)。

七沢氏は、IAEAのブリックス事務局長から次の証言を得ます。


「IAEAとは、加盟国の政府の利益と意向を代表する組織であり、各国の国民や、世界の市民のための組織ではありません。もちろん民主的国家においては、政府は国民の利益を代表しますから、間接的には人々の利益につながるはずなのですが・・・」 (240ページ)



追記 2011/05/29

ソ連政府によるチェルノブイリ事故調査に対して批判が高まり、ソ連政府はIAEAによる調査を依頼し、国民世論の鎮静を図りました。IAEA調査団の長は被爆地「ヒロシマ」の重松逸造氏だっただけに、地元の期待は高かったが、実際はどうだったか。ジャーナリスト広河隆一氏@RyuichiHirokawa の取材に基づくテレビ報道。






■政府と人々は、根源的には対立していると考えるべき。

以上のようなことから、私なりにまとめをしますと、次のようになります。


●政府(政治家・官僚)というものは、いざという時は多少国民を犠牲にしても、国家体制の安寧を優先する。これは政治家・官僚に倫理性・道徳性を期待することでは是正できない傾向と考えるべきである。

●事故調査や医療調査は、その後の政策や賠償金に関わることもあり、政治的な介入が必ずあると考えておいたほうがよい。

●「国際機関」といえど、その設置目的をよく考えるべきであり、政治から自由であるなどと期待すべきではない。

●そういった「政治」の行き過ぎを是正するのは、人々の勇気ある発言であり抵抗である。

●政治家・官僚とて人の子であり、時に良心の呵責に耐えかねて自壊することもある。


日本人の多くは「徳治主義」が好きなので、知識も人徳も備えた政治家が権力の座につき、善政をしてくれることを期待します。「○○は駄目だ。でも△△なら・・・」と次々に政治家の待望論が出ます。

しかし、政治家は少なくとも政権を握る限り、少数を捨て多数を生かすという判断をするように動機づけられています。また官僚は、言われたことだけをやり自ら失敗をしないようにする文化で暮らしていますから、積極的に少数者を救うために人道的に立ち上がることはないでしょう。むしろ少数を救うために多数を犠牲にしようとする為政者、人道的信念から越権的な行為をする官僚は、それぞれ為政者、官僚としての機能不全として追放されると見るべきでしょう。



■自らの論理を越えた圧力が知恵を生み出す

とはいえ、それはあくまでも一般的な傾向であり、実際の判断にはいろいろな裁量の余地があります。「無理だ。少数の犠牲に目をつぶるしかない」と政治家や官僚が思っても、それは彼・彼女らが自分たちの頭でそう判断しているだけであり、「そのような犠牲は許されない」と強烈な圧力がかかれば思っても見なかった知恵が出ることはしばしばあることです。

「文句ばかり言う自称『市民』の勝手に付き合っては現実は乗りきれない」と苦々しく言い捨てる政治家・官僚はしばしばいますが、彼・彼女らは、本当は自分の無能を密かに自覚し、自分たちが限界と思っている限度を超えて思考し・行動することを怖がり嫌がっているのかもしれません。

本来、公務員は「公僕」つまりは"public servant"です。難しいとされる試験あるいは過酷な選挙戦を経て安定した身分を得ていることの裏面は、ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)つまりはエリートの重い責務を負っていることです。ところが人間はしばしば自分に甘くなるもの。だから市民は政治家・官僚に自分たちが当然受けるべき憲法上の権利を堂々と要求できます。



■ルーマンの機能分化論的な政治観

私はルーマンの社会論を妥当と考えている者ですから、それを解釈して、多元的な機能行使を現実的な理想と考えます。つまり官僚は官僚として現行制度の忠実な執行を自らの機能とします。政治家は政治家として政策決定や立法などを自らの機能とします。科学者は科学者として真理のひたすらな探求を自らの機能とします。国民は国民として自らの憲法上の権利が損なわれないことを求め続けることを自らの機能とします。

ここで大切なのは、政治家も官僚も、あるいは科学者も国民も、どれとしてすべてを総括する立場には立っていないということです。政治家はしばしば、科学者の真理や国民の権利請求を面倒くさいものと考えます(官僚の愚直な仕事さえ時に嫌がります)。官僚はしばしば、政治家の新政策を嫌がります(科学者の真理や国民の権利請求などは余計に面倒くさいものです)。科学者はしばしば、政治家や官僚の要求を科学的に受け入れがたいものとみなし、国民の要求を荒唐無稽なものと考えます。国民はしばしば、政治家・官僚・科学者の行動を不十分なものとしか考えません。

ですが、ここでもし政治家が、官僚・科学者・国民の要求をすべて満たしたと称したら、それは巨大な嘘を述べており、傾聴すべきさまざまな声を抑圧していると考えるべきでしょう。「偉大なる指導者」は全体主義にしか登場しません。民主主義政体の指導者は常に批判を受ける者です。

また科学者が、政治家・官僚に都合のいい説ばかりを述べ始めたら、彼・彼女は科学者として自殺し「御用学者」というエセ学者になったにすぎません。御用学者はエセ科学者として国民を犠牲にし、政治家・官僚にばかり都合のいい制度に奉仕し、自らの安寧や栄光をそこで得ます。

国民にしても、もし国民が衆愚化し、さらには暴徒化するなら、政治家、官僚、科学者それぞれの立場からすればとても許容できないような政治を要求することとなり、社会は自壊します。民主主義政体の最大のリスクは国民の衆愚化・暴徒化であす。政府・官僚はそれを防ぐため権力行使をしなければいけませんし、科学者は国民をできるだけ啓蒙しなくてはなりません。

つまり、複雑に発達した現代社会における「政治」とは、政治家、官僚、科学者、国民のどれもが単独で健全に実行できるものではありません。ましてや一人あるいは少数の指導者が善政を行うことなど考えてもいけません。


■それぞれがそれぞれの存在の機能あるいは「良心」を失ってはいけない

「政治」とは、誰も正解がわからないし、誰もすべてを統括できない問いであり、為政者だけに委ねては危険です。「政治」を行うには、為政者、官僚、科学者、国民(あるいは経済人、文化人などなどの存在)が、それぞれの機能をできるだけ忠実に果たそうとし、かつ社会全体の機能を破壊してしまわないようにして行われるべきだと考えます。

社会全体が損なわれないように自らの機能を果たすには、それぞれの存在は、他の機能を有する他の存在の、自らの機能では理解しがたい・受け入れがたい機能を、何とか自分の機能が自壊しないように翻訳して理解し・受け入れ、自らの機能を継続しなければなりません。

原子力工学者を例にとりますと、原子力工学者は、国策に邁進する政治家、利益ばかりを求める経済人、絶対安全などを求める国民、限られた権限と予算しか与えない官僚などといった、科学技術の論理だけでは度し難いし受け入れがたい声を聞きながら、それでも科学技術の論理だけは崩さずに、科学者・技術者としての「良心」を失わずに言動しなければなりません。そこで科学者・技術者が自らの論理や良心を捨てれば、「原子力ムラ」の住人のようになり、やがては今回のような取り返しの付かない人災を生み出してしまいます。

他方、為政者・官僚・経済人も、科学者・技術者としての良心を失わない者を邪魔者として扱い、自分たちの言う事を聞く科学者・技術者(=エセ学者・御用学者)を創り上げようと懐柔などはしてはいけません。さもないと今回のように政権・統治機構・経済活動自体が壊れかねないようになってしまいます。国民も夢物語のような話ばかりする科学者・技術者を求めてはいけません。さもないとどこかで大きな破綻がきます。

国民について逆の見地から語りますと、国民は自らの機能である憲法上の権利請求をやめてはいけないと考えます。もし今回の原発人災で、福島の人にはかわいそうだけど、きちんと国が賠償したら国が立ちゆかなくなるから我慢してもらうしかないじゃないか、と思い始めたら、それは倫理的な罪を犯しはじめているだけでなく、国としてあるべき姿を国に失わせてしまうという国民の機能において失敗をしてしまうことだと考えます。福島の人々、不当に人間の尊厳を損なわれた人々が憲法上の権利請求をすることに対して、他の国民は倫理的な意味だけでなく、機能分化社会の存在論的な意味においても、支援するべきだと考えます。



■誰にも解がわからない。だから考える

「しかしどうすればいいのだ!大規模避難なんて急にできるわけがないじゃないか!」と怒り出す官僚もいることでしょう(いや、このような怒り方をする国民も結構います。彼・彼女らは国体という秩序が乱されることを非常に嫌います。私はこのように制度・秩序の維持を偏愛する自称「保守派」「現実主義者」を個人的には好きになれません)。

「わかりません」というのが私の正直な答えですし、それは誰にとってもそうでしょう。大規模避難→社会的混乱→財政破綻となるかもしれません。しかし大規模避難→社会的再構築→社会的再生となるかもしれません。また、財政破綻になったとしても、その財政破綻から新しい秩序・制度が生まれるかもしれません(歴史は、これまですべての政体・文明にそのように過酷な試練を与えてきました)。無責任で言っているのではありません。わからないから本気で考えよう、実行しよう、試行錯誤し、そこから急速に学ぼうと言っているのです。

自称「保守派」「現実主義者」の中には、「正しさ」が見えない状況を極度に嫌う人がいます。それは感情的性向なのか創造的知性の欠如なのかわかりませんが、たしかに時代によっては制度や秩序の「正しさ」が重視されるべき安定した時期もあります。しかし時代によっては、新しさ、ということは古い秩序の(部分的)破壊が必要な時があります。この「国難」の今はそんな時代だと私は考えます。

もちろんすべての新しいこと、革新的なことが無批判的に称揚されるべきではありません。そこは本来の保守主義、すなわち健全な知的懐疑主義が自制となり、革新の暴走を食い止めるべきです。真の保守主義者とは、変えるものを変えるために、変えてはいけないものを守るとも言われます。そういった意味の保守主義者(それは穏健な革新主義者と言い換えてもいい存在かと思います)が今、必要だと思います。

それでは守るものとは何か。それは人間の尊厳だと考えます。それを守るためには、これまでの文明的便益は多少犠牲になっても仕方ないと私は考えます。

私は考えます。わからないから考えます。







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1 件のコメント:

古井戸 さんのコメント...

畑村『危険学』(5月刊行)ではいまだに『本質安全』『機能安全』という概念を原発に使っている。しかし、原発は一旦重大事故があれば地球規模の汚染が発生し、平時でも使用済み燃料の処分さえできない(隔離しているだけ)、不完全システム=本質危険を備えた構築物であり、危険性のレベルが旅客機、新幹線、火力発電所、化学プラントなどとくらべて段違いである、というリスクの分析を行っていない。失敗から学べるの小物とちがい、失敗分析などやる手前で技術的に封印すべきシロモノですよ、原発は。