2011年5月5日木曜日

日本再生は「現場」の人間がやる。日本の「偉い人」をこれ以上のさばらせない。(その5:英語教育の現場で考え、行動する)





この記事はその4の続きです。





このシリーズの記事の最後として、ここでは英語教育の現場で今回の問題を考え、現場からできることを考えたいと思います。



■英語教育界の「偉い人」が広めようとした近年の政策

英語教育界にも、私がこのシリーズで批判しているような「偉い人」はたくさんいます。

近年、そういった「偉い人」が宣伝して現場を混乱させてきたものとしては次の三つが上げられます。



(1) 小学校への英語教育導入

(2) 「コミュニケーションへの関心意欲態度」の評価

(3) 高校の授業は「授業は英語で行なうことを基本とする」




最初に断っておきますが、私はこれらの英語教育方針が全面的に間違っているとは思いません。

(1)の小学校英語教育導入は、いずれは何らかの形で必要になっていたものと私も考えます。ただ導入するには、どのような教育をするべきなのかという抽象的な理念も、それに基づく具体的な準備(人材・教材)も必要なのに、それらなしに、「とにかく決まったのだから」と最初に政策ありきで押し切ったところからさまざまな問題は生じています。

「大規模政策とはそんなもの」というしたり顔が浮かびますが、はたしてそれは「現実的な態度」なのか、自分たちの準備不足を正当化する巧妙で高飛車な態度なのかは問い直す必要があります。

しかし(2)の「関心・意欲・態度」の評価については、正直私はほとんど意義を認めません。というより多くで報告されているように、この評価を真面目に実行しようとした教員こそ、この評価方法で授業運営・学級経営が乱れてしまっています。このことからすると有害無益だったとさえ言えます(やわらかい言葉でこの評価の批判をしているブログ記事はここ)。

このような批判に対して、(2)の宣伝者は、およそ細かなことを様々に述べ、この評価が適切であることを驚くべき多弁でもって語ろうとしましたが、そういった指示がおよそ現実的でないことは、多くの教師が経験する中で理解したと私は判断しています。

(3)の「授業は英語で」についても、10年、20年単位で考えれば、高校においても英語教師の英語発話量が増えるべきというのはその通りでしょう。しかしこれも拙速すぎて、今いきなりこれを実施しようとしたら、教区困難校では授業が成立せず、進学校でも知的な英語の読解に対応できず、中堅校ではもっと英語の授業が「会話ごっこ」化するだけでしょう。(私の当時のコメントはhttp://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/01/blog-post_14.htmlにあります)。

この政策に関しては寺島隆吉先生の強力な批判(『英語教育が亡びるとき―「英語で授業」のイデオロギー―』)などもあり、一年後の指導要領解説では拍子抜けするほどトーンダウンしています(そのあたりの状況についてはhttp://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/03/blog-post_05.htmlをご覧ください)。



■「偉い人」のコミュニケーションの特徴

しかし「偉い人」の、これらの政策を現場に普及させようとする際のコミュニケーションには問題があります。

簡単にまとめますと、原発安全神話の普及と同じようなコミュニケーションがなされてきたと言えるかと思います。特徴としては、


(a) 現在および過去の政策の間違いを決して認めようとしない

(b) 経験的にも認められていないし、学術的研究に基づいていないのにもかかわらず、政策をとにかく実行させようとする

(c) 批判・反論に対しては、とにかく多弁を弄し、言いくるめようとする。


などがあります。

(a)の無謬主義については、これまで学習指導要領の改訂は何度もありましたが、私は過去の指導要領の問題点を明確に指摘した公的文書を寡聞にして知りません(数行の言い訳などを私は意味していません。もし文科省がきちんと過去の指導要領の問題点を自己検証した文書があればぜひ教えてください)。新しい指導要領が出たら、とにかくその文言を現場教師に覚えさせようとして、過去の問題点を具体的に総括(自己検証)しません(さすがに言い逃れのような文章は上で述べた「授業は英語で」の解説にありましたがhttp://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/03/blog-post_05.html、これも基本的に「国はこれまで間違いをしたことはなく、皆さんが誤解をしていただけです」といった口調に終わっていると思います。

(b)の経験的でも学術的でもない政策を全国的に一気に普及させようとすることは、普及者がある時期に成功した個人的体験を「証拠」とばかりに、全国のさまざまな状況の学校に短期間で普及させようとする無理に見られます。この無理に、全国の多くの良心的な指導主事が悩んでいることは周知の通りです。

また、普及者が、普及させようとしている事項について、きちんと自ら学会発表をしている例も私は知りません(あったら教えてください)。もっとも私は実践に対する研究の限界性を強く感じている方ですが(参考:「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ」http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/08/blog-post_05.html)、できるだけ客観的であろうとする学術的態度は堅持するべきだと考えてます。

社会学者の橋本努先生は、「原発に責任、持てますか? トップをめぐる『政治』と『科学』http://synodos.livedoor.biz/archives/1750944.htmlの記事で、マックス・ウェーバーを引用しながら、学者(科学者)が知的に誠実でありながら、政策に関わろうとすることの根本的矛盾を説明していますが、英語教育研究にも(原子力工学と比べるならたとえ学問性は低くとも)その矛盾はあります。英語教育政策の普及者が研究者である場合も、残念ながらその研究者の学術的姿勢は大きく損なわれている(compromised)というべきでしょう。しかしそれにもかかわらず、その普及者は「○○大学教授」といった肩書きでその政策を宣伝します。

(c)の多弁を弄しての言いくるめは、これまでの原発推進でも数多く見られました。政策を批判する人に「困った人」「偏った人」とレッテルを貼る手法も英語教育界でも見られます。

しかしそういった言いくるめが、現実にはなんの力をもっていないことは、その4の記事http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/05/4.htmlで紹介した動画に示されている通りです。「言いくるめ」は語り手だけでなく、聞き手までも日本組織文化という「言語ゲーム」に従っているかぎり成り立っているわけで、聞き手がそのような馴れ合いや癒着を拒否した時に崩壊します。

福島の住民に突き上げられた文部官僚の答弁はほとんど形をなしていませんでした。政府の英語記者会見はついに外国人記者にそっぽを向かれました(まだ数人は外国人記者が来ていた会見で、ニューヨーク・タイムズの記者が「保安院は東電をうまくコントロールできていないのではないのか」と質問したのに対して、西山氏が「○○法によると東電は保安院の指示に従わなければならないことになっています」と木で鼻をくくったような回答をした時に、私も「こりゃ駄目だ。こんな会見なんて時間の無駄だ」と思いましたが、果たせるかな、日本政府はこれだけの重大な時期に、外国人記者に相手にされなくなりました)。



■しかし、英語教育界でも官と学は癒着

とはいえ、一部の英語教育政策普及者だけを批判するのは、不十分で偽善的です。

まず私のことから言いますと、私は(1)の小学校英語教育導入について、自分が広島市の導入に正式に関与し始めたころから、批判を抑えてきました。関与したのは、自分は比較的導入の困難を理解しているから、単なる「イケイケドンドン」の人間が関与するより私が関与するべきだと判断してのことです。正式に関与した以上、政策側に立ち、私も知的正直を自ら損ないました。

(2)の関心意欲態度に関しては、私はその批判を「大人の事情」という姑息な理由で控えていました。これこそ卑怯者の態度です。

こういった反省も心中密かに行っていたこともあって、(3)の「授業は英語で」についてはきちんと発言するべき時には発言したという自負はあります。しかし自分で気づかぬうちに知的正直さよりも保身を大切にしていたかもしれません(自分を正確に知るとは難しいことです)。


学会全体のことに話を移しますと、(1)~(3)あるいは他の問題でも、シンポジウムなどで徹底的に議論すればいいわけですが、ほとんどすべてのシンポジウムは、どこか「政策普及のための啓蒙目的」になってしまっています。

こういった英語教育界での官学の馴れ合いに対して、きちんと(そして巧みに)知的正直さを保ち続けているのは、私の知る限り、大津由紀雄先生、江利川春雄先生、寺島隆吉先生、(および非常に穏健な形で発言をしているので目立たない)金谷憲先生(参考:『英語教育熱 ―過熱心理を常識で冷ます』、などぐらいです(他にも直言を続けている方は多くいらっしゃいますが、ここは大きな政策批判をきちんとなさっていると考える方だけを上げました←業界的配慮。苦笑)。

私を含めた多くの英語教育「研究者」は官と学の緊張的対立(そして協調)よりも、なあなあ的馴れ合い・心地のよい内輪の世界を好んでいます。日本の英語教育の不全の大きな理由の一つはここにあると言ってもいいでしょう。

研究者にせよ、官僚にせよ、指導主事にせよ、現場教師にせよ、お互いに言うべきことは率直に(しかし礼儀正しく)述べ、隠し事を避け、間違いは認めそこから学び、対立相手の正しい点は謙虚に認め、それぞれがそれぞれの本分を果たす緊張的対立関係の中でコミュニケーションを図り、社会を形成するべきでしょう(私はルーマンの「コミュニケーション=社会」という考えに依拠しています)。

それなのに、英語教育界でも官と学がお互いにものわかりのよい空間を作り出し、そこの「空気」を読み合って、物事をなあなあにしてしまいます。しかし忘れてはならないのはその空間からは、しばしば現場の人間がはじき出されていることです。そもそも「空気」を読みあえる空間など狭いものでしかありえません。業界人が「空気」を読み合って、互いに「大人」になっていると、したり顔になっている時に、その業界人はその空間の外にいる人間について想像力を働かせ、考えることを怠っているのです。これが権力者がなしうる悪の始まりであることはその3の記事http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/05/3.htmlで述べた通りです。

そもそも「空気を読む」などということは狭い密閉空間でのみ可能なことと言えるでしょう。社会は多様で多彩で複合的で、そこに一種類だけの空気などありえません。大規模政策に関わる者が、自分は「空気を読んでいる」と思ったら、それは警戒信号として捉えるべきです。




■私たちが現場でできること

英語教育関係者が、仮に今回の原発人災に関して直接できることが少ないにせよ(でも皆無ではありません!)、英語教育については直接的に責任をもっています。今回の原発人災が、日本の組織文化全体の象徴であるとすれば、私たち英語教育関係者は、自らの持ち場でその組織文化を変革する責務をもっています。これは直接的な責任です。

というわけで、以下、私なりに考える、私たちが現場でできることをあげてみます。


<「偉い人」に対して>

●安易に首を縦に振らない

「偉い人」というのは、自分の影響力が、自分の実力からでなく、自分の(見せかけの)権威から来ていることを、実は自分自身よく知っています。その権威確認の方法が、日本人の癖とも言えるうなずきを見ることです。「偉い人」というのは、聴衆のうなずきを実は心中非常に求めています。

ですから、納得できなかったら首を縦に振らないでください。「偉い人」が権力行使をする際には、世間話をしているのではないわけですから、愛想で「うんうん」と首を縦に振る必要はありません。というより納得できないのにうなずくのはこの場合間違いだと私は考えます。

もちろん納得できたら賛同の意を表現するべきです。繰り返しますが、私がここで提案しているのは、よりよい社会形成のための健全な緊張的対立であり、教条的な敵対ではありません。



●わからないことは率直に「わからない」と発言する

「偉い人」が人をしばしば言いくるめようとすることは上に述べた通りです。そういう時、「偉い人」は、


(ア) とにかく多弁を弄する、

(イ) 難しい理屈を出してくる、

(ウ) 科学用語・法律条文などを振り回す、

(エ) わからないのは「困った人」だという雰囲気を作り出そうとする


といった方略を使います。

(ア)と(イ)に対しては、「簡潔に答えてください」と率直に言いましょう。これに限らず、「偉い人」というのは一般の人に対して、物事をわかりやすく説明するという一般的な知的責任を負っています。このような要求をするのに遠慮をする必要はありません。
※ただし、「素人にもわかるように話せ!」と居直ったり、ゴネたりするのは決してやるべきではありません。一般人もできるだけ理解しようと努力するという一般的な知的責任を負っています。

(ウ)に関して、疑わしいと思ったらその科学用語・法律条文を「後で専門家に聞きますので、正確におっしゃってください」と言って実際にきちんと調べてみましょう。調べる際にはウェブが有効ですから「ウェブに書いて他の人からの協力を仰ぎたいのですが、今のご発言をウェブに書いていいですか?」と聞くのも一法です。公権力の行使に関わる「偉い人」の発言は、公共的なものですから、「偉い人」は基本的に情報公開をするべきです。

(エ)に関しては、「偉い人」には老獪な人が多いので注意が必要です。日本の「偉い人」には、実力や人格でなく、巧妙な影響力操作により地位を得続けている人が少なくありませんから、(エ)の方略には気をつけなければなりません。

これに対しては、私は、唐突に思われるかもしれませんが、自らの身体の立身中正を保つことが基本だと思っています。(参考:「身体を整えて、心の苛立ちや不安を鎮めましょう」http://yanaseyosuke.blogspot.com/2011/03/blog-post_16.html)。自らの身心を清明にしていれば、「偉い人」の相手を小馬鹿にしたようなニヤケ顔や、相手を脅そうとするいけだかな態度にも、その「偉い人」の目をまっすぐに見ることにより対抗できると私は信じています。



<自分自身に対して>

●決して、教条的にならない

現場の人間のよさは、決して教条的でないことです。自分の考えや過去の慣例にこだわらず、柔軟に考え行動し、何よりも現場の問題を解決するために誠実に物事に対応するのが現場の良さだと私は考えています。

ですから、万が一、現場の人間が「自分は現場の人間だから正しい」、「現場に来ない『偉い人』の言う事に正しいことがあるはずがない」などと考えたらそれは間違いです。

現場の人間は、現場を知るからこそ謙虚に自分の間違いの可能性に対して心を開くべきです(「べき」というより、そうでなければ現場は勤まりません)。また、現場から離れて初めてわかること(いい意味での「大局観」)もあるはずです。傲慢であったり、自己中心的であったら現場で仕事はできません。現場の人間は誇りをもって謙虚に、しかし率直であるべきだと私は考え、自分も大学教育という現場にいる者として、そうあろうと努力しています。



<生徒・学生に対して>

●英語の読み書き、および読み書きに基づく対話ができるようにする。

英語教育こそが私たちの本分です。もはや今回の震災で、英語がきちんと使える人間が日本に多く必要であることがわかったことについては繰り返しません。偽りの会話ごっこや、外国人記者が誰も聞きに来ない政府記者会見のように儀式的な発話ではなく、きちんと自ら調べ考えたことを、明晰に述べ、相手からの質問や意見にも知的に誠実に答えられる英語力が、国民のより多くの層に、より高いレベルで必要です。知的に誠実な英語力をつけるためには、「日常会話」レベルだけに留まっては駄目で、きちんとした読み書きに基づいて、話し聞き対話ができるようにならなければいけません。

私たち英語教師は、それぞれの持場で、もっと英語教育の質を高めることが第一に大切だと考えます。



<ALTに対して>

●ALTともっと人間的な対話を重ねよう

英語教師にとって、最も身近な英語話者であるはずのALTと、英語教師は案外話をしていない(時にはテープレコーダー扱いしかしていない)ことは周知のとおりです。理由はいろいろあるかも知れませんが、その一つは(直言するなら)英語教師の英語力が低いからです。常套句でおざなりの会話をする以上の英語力がないから、深い話ができない、広い話題で話ができないわけです。

私たち英語教師は、ALTともっと語り合い、かつそれを契機として、もっと自分自身が寸暇を利用して英語を読み書きする習慣を少しでも育てるべきだと思います(とりあえず英語専用のTwitterを作るぐらいならすぐにできるでしょう)。



<暮らしの中で>

●コミュニケーションとは何かを暮らしの中で徹底的に考え、自ら試行錯誤し、反省しながらコミュニケーションの教育を続ける

これはほとんど自戒ですが、教師はある意味、自分以上の教育を行うことはできません。教師はまずもって自分自身の修養に努めるべき(同時にその「善」が暴走することを防ぐために、自己諧謔やユーモアのセンスを育むべき)だと考えます。

まずは教師自身、よき暮らしをしましょう。

と言っていたら、自分自身恥ずかしくなってきました。


このシリーズはこれで終ります。







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