2014年1月27日月曜日

SS君の修士論文構想発表:日英語母語話者の身体意識の違い-バドミントンにおける身体意識の記述・説明の違いを通して-





修士課程一年生の論文構想発表が先日終わりましたが、その中でも荒削りですがとても面白いと私が個人的に思える発表がありましたので、当人の許可を得てそのSS君の修士論文構想をここに掲載します。

私は以前、「卒論・修論のテーマの決め方: 表の方法と裏のやり方」という文章を書きましたが、そこの中の表現を使うと、この論文は「裏」のやり方で書こうとしています。ですから、時流などとは無関係ですが、執筆者当人にとってはもっとも面白さを実感・体感(参考:Educational Values (Chapter 18 of Democracy and Education by Dewey)

その文章にも書きましたが「裏」のやり方には、たくさんの落とし穴があります。しかし何よりも、当人が納得できるテーマが見つかった時、その人はもっとも豊かに自分の可能性を開花させると私は信じていますので、彼の今後の研究を見守りたいと思います。

だから、「こんな研究は『英語教育学』と言えるのだろうか?」などとしか言わないおじさん達は、黙っていてねwww。世の中にはおじさん達の学問政治ごっこよりも、もっと大切なことがたくさんあるのだから。





日英語母語話者の身体意識の違い
-バドミントンにおける身体意識の記述・説明の違いを通して-
(理論基盤と研究方法)




1 はじめに

近年、日本人の身体意識は低下している(齋藤, 2000)。身体意識はあらゆる人間の認識活動の源泉であり(高岡, 1990)、その低下は問題視されるべきである。身体意識を高めるには言葉による身体理解が重要であり、言葉によって我々の身体は意味ある単位に分節され、体系構造をもったものとなる(尼ヶ崎, 1990)。しかしながら、こうした身体意識を高めるための言語教育が、日本の英語教育で盛んに取り上げられているとは言い難い。英語教育が日本人の身体意識の向上に貢献する一つの方法として、母語の違いによる身体意識の違いの追究が考えられる。しかし、そういった身体意識の違いに注目した研究は少ない 。今後、身体意識の違いが徐々に解明されていけば、今問題視されている日本人の身体意識の低下を改善するための指導にも応用でき、また、異文化理解研究や指導の幅も広がるだろう。

本研究の目的は、日本語・英語母語話者の身体意識の違いを分析・考察することである。その手法として、日英語のさまざまな文献や、筆者が日本語・英語母語話者に行うインタビューを用いる。本研究では、身体意識の違いの分析・考察を、バドミントンの技術の記述・説明の違いを元に行う。バドミントンという競技を選択したのは筆者が長年その競技に従事してきたためであるが、その有効性については後ほど議論したいと思う。現在身体意識に関する文献を読む中で、筆者は「わざ言語」と「暗黙知」という理論基盤を得た。それらの概念を導入することは、技術がいかに記述・説明されうるかの理解、すなわち、技術と言語の関係性の理論的理解につながる。その理論的理解は、文献や選手自身による技術の記述・説明が中心となる本研究において、重要なことである。よって本研究の構想発表を行うにあたり、技術と言語の関係性の説明を、「わざ言語」と「暗黙知」というキーワードを元に行う。

しかし、そもそも技術の記述・説明は身体意識の違いを表しうるのだろうか。その議論は、技術と言語の関係性を説明した後に行うのが適切である。その後、研究方法と研究手順を記す。続いて、選手をインタビューする際にインタビュアーとして留意しておくべき点を、先行研究から確認する。この確認は、本研究の分析材料となるような技術の記述・説明を選手から得るために、重要なものとなる。最後に、現在の進捗状況と今後の展望を述べることとする。



2 技術と言語の関係性

 バドミントンの技術に関する文献の記述やインタビューを適切に理解するためには、予め技術と言語の関係について理解しておく必要がある。はたして、(1)技術を「知っている」とは何を表すのか、(2)技術を「伝える」とはどのようなことなのか。この章ではこれら2つの問題について、Polanyi(1966)の「暗黙知」論、生田(2011)の「わざ言語」論を通じて答えを探求していく。

2.1 技術を「知っている」とは

我々はしばしば技術を「持っている」や技術が「ある」、技術を「身につけている」といった言い方をする。ここではそれらの表現を含めて、技術を「知っている」という言い方で議論を進めていくことにする。「知っている」という言い方をすることによって、我々はmind(「心」あるいは「知性」)と関連をもたせた議論を行うことができるからである。技術論をmindと関連させた理論として、G・ライルのknowing how理論がある。彼は、「技術」概念を新たな「知識」の形態として位置づけている。ライルは、人間のmindとは何かを問う中で、人間の知識はknowing that(知識の所有)だけではなく、knowing how(技術)をも含んでいると考えた。彼は、mindと身体は分離したもので別世界にあるという「2世界説」を否定し、身体が中軸に置かれる技術を、人間のmindの一つの表れとしてみなすのである。

本研究では、技術というときに、ただ行為の処理や手続きの知識をもっているだけでなく、それをいかに行うかを知っている状態を示す。すなわち、技術とは、体のどの筋肉がどのように動くことで行為が達成されるのかを科学的に述べること(knowing that)でなく、実際にやり方を知っていること(knowing how)を表す。例えば、バドミントン選手がスマッシュを打つ際の筋肉の動きや体の働き方を科学的にのべることでなく(それはバドミントン未経験者でもできることである)、実際にスマッシュを打てる状態をもって技術を「知っている」という。

 ここから、技術を「知っている」という状態の定義をさらに明確にしていくと、技術を「知っている」ということは、技術を言葉にして表現できることを含んではいない。すなわち、言葉では表現できない身体感覚も含めて、技術を「知っている」と言える。例えば、多くの人はボールを投げる技術を持っているが、彼らに「どうやって投げているか」と問うたところで、「投げる」という行為とその際の身体感覚を言葉で明確に表現できる者はなかなかいないだろう。しかし、彼らがボールを投げることができる事実は明白であり、これは当然技術を「知っている」ということができるだろう。このことをPolanyi(1966)は、「我々は語ることができるより多くのことを知ることができる」と表現している。続いて、技術を「知っている」ということをさらに理解していくために、Polanyiの「暗黙知」の論がどういったものかを詳しくみていく。

 Polanyi(1966)によれば、暗黙知とは「我々が語ることができるよりも多くのことを知る」事態である。暗黙知には2つの項、すなわち、近接項と遠隔項がある。この2つの項を、ボールを投げる例を用いて説明する。我々は、ボールを投げるという行為を達成するために、さまざまな筋肉を動かしている。さまざまな筋肉の動きが近接項で、ボールを投げる行為の達成が遠隔項である。近接項に関して、我々は動員されるさまざまな筋肉の諸活動を確認することができない。また、投球者がそれらの活動を語ることもできない。しかし、確認することも語ることもできないこの筋肉の諸活動は、確かに起こっている。こう言い切れる理由は、実際にボールを飛ばすことができたからである。  

 ここから暗黙知における一つの重要な論が導かれる。すなわち、我々は、要素的な諸活動(筋肉の諸活動)を、それら諸活動が共通して奉仕している目標の実現の中(ボールが飛んでいくこと)にみるのである。言い換えるならば、我々は近接項を、遠隔項との関連において感知しているのである。我々は諸細目をそれ自体としては注目していないし、できないのである。よって、我々はそれを明瞭に語ることができない。「語ることができるよりも多くのことを知ることができる」とは、諸細目、つまり近接項についての知識を十分に語れないことを意味している。以上が、技術を「知っている」という表現で表される事態である。

2.2 技術を「伝える」とは

 ここまで、技術を「知っている」ということがどういった事態を指すのかを、Polanyi(1966)の「暗黙知」の論を用いて詳細にみてきた。以後、「知っている」技術をどのように「伝える」のか、あるいは、「伝える」というのはどういった事態を指すのかをみていきたい。

2.2.1 聞き手の知的協力の必要性

 Polanyi(1966)は「語ることができるよりも多くのことを知ることができる」と述べたが、言い換えれば、我々は「言葉で語れない部分を多く残している」と言うことができる。それを先ほどボールを投げる例によって説明してきた。しかし、ボールを投げる行為は、人から人へ教えることができるものである。このことは、我々がその行為についての知識を語ることができることを証明しているのではないだろうか。  

 この疑問に対して、Polanyi(1966)を参考に、以下のようにして答えることができる。指導者がボールの投げ方を学習者に教えることができるのは、学習者が、指導者の語りの意味を汲み取ろうという知的協力をしている場合のみである。なぜならば、指導者はボールを投げるという行為を言葉や提示によって表現しなければならないが、その言葉や提示と実際の行為には当然ギャップが存在するからである。すなわち、その避けられないギャップを埋める知的努力が学習者によって為されなければ、行為は伝えきれないのである。さらに、Polanyi(1966)は以下のように続ける:  

言葉を用いたとしても、我々には語ることのできないなにものかがあとにとりのこされてしまう。それが相手に受け取られるか否かは、言葉によってつたえることができずにのこされてしまうものを、相手が発見するか否かにかかっているのである。 (p.17[邦訳])


つまり、近接項(ボールを投げる際の身体の使い方)を語ろうとするときには、どうしても語れない部分があり、それを教わる方が知的協力によって発見しなければならないのである。それが、「語る」こと、あるいは「教える」ことを果たす際に必要なことなのだ。このことは後ほど、本研究において筆者の経験のある競技(=バドミントン)を用いる有効性を述べる際に、必要な論となる。

2.2.2 伝えることができる部分をいかに伝えるか

 では、我々は語ることができる部分を、どのようにして相手に伝えるのか。それを、生田(2011)のわざ言語の論を用いてみていく。

 わざ言語とは、様々な「わざ」の世界でその伝承の折に頻用されている、科学言語や記述言語とは異なる独特な言語表現を指示している。わざ言語は、科学言語のようにある事柄を正確に記述・説明することを目的とするのではなく、相手に関連ある感覚や行動を生じさせたり、現に行われている活動の改善を促したりするときに用いられる言語である。ここで、わざ言語の一例を挙げてみる。民族芸能の伝承場面において扇の見せ方を指導する際、「天から舞い降りてくる雪を受けるように」という感覚的な表現を用いることがある。こういったわざ言語を用いることで、指導者の扇を用いたわざの感覚、すなわち身体感覚を表現するのである。今みたような「~のように」といった直喩的な表現ばかりでなく、例えば「張って言って」や「たっぷりやって」、「芝居して、芝居して」といったように、意味が完全に文脈に依存するような表現の仕方もされる。こういったわざ言語を用いることによって、指導者の身体感覚を学習者と共有するのである。  

 わざ言語には、大きく分けて2つの役割 がある。2つを概観した後、本研究において利用する「わざ言語」概念を定義していくこととする。1つ目の役割は、活動における具体的な動きや行為を指示することである。例えば、太鼓の指導場面においては「へそを真下に落とすように打て」や「バチの先に糸がついていて天井から吊るされている」という身体感覚を促す言葉が用いられている。わざ言語の2つ目の役割は、学習者への直接的な動きの指示ではなく、学習者を指導者と同じような身体感覚へと促すために用いられるものである。例えば、スポーツにおけるフロー体験などの語りを通して伝えようとする際に用いられる言葉のことである。創作和太鼓の佐藤三昭氏は、フロー体験として「私がなくなるような感覚、打っている太鼓がメロディを弾き始めたような感覚に至るとき、世界が深まるのです」(北村, 2011)と述べている。このように、具体的に伝えることはできないことは認めつつも、語りつくせない身体感覚を言葉によって表現しようとする際に用いることが、わざ言語の2つ目の役割である。

 これら2つのわざ言語の役割のうち、本研究における「わざ言語」概念は、1つ目の役割のみを指示することとする。すなわち、わざ言語とは、活動における具体的な動きや行為を指示する際に用いられる言語を指示する。2つ目の役割を含意しないのは、フロー体験などの身体感覚は、個人によって大きく異なることが推測されるからである。本研究は異言語母語話者の身体感覚の違いを解明していこうとするものであり、個人間の違いをみるものではない。よって、本研究において記述・説明を行う際に用いられるわざ言語は、1つ目の役割のものに絞ることとする。



3 本研究におけるバドミントン競技の有効性

以上のことを踏まえて、本研究における身体意識の語りにおいて、なぜバドミントンという競技を用いることが研究手法として有効であるのかを、2つの観点から述べたい。

1点目は、知的協力という観点である。2.2.1章では、語られた技術や身体感覚を理解するには、実践者の語りの意味を汲み取ろうとする、聞き手の知的協力が必要であることを述べた。聞き手は実践者が言葉で表現しきれなかったものを発見することで、協力しなければならない。そこで、聞き手が知的協力を行うには、聞き手はある程度実践者と技術や身体感覚を共有していなければならない。また、柳瀬(2007)では、よき聞き手としてのインタビュアーの条件として、以下のように述べている:

とりあえず実践者の語り…(中略)…しか聞くことができないインタビュアーは、その言語化された表現から、言語化されていない実践者の従属的気づきを想像しなければならない。基本的にその想像は、インタビュー中に行われるから、インタビュアーはインタビューの瞬間ごとに実践者の実践を想像してゆかなければならない。このためには、可能な限り、インタビュアーは実践者の技能を自ら実践している必要がある。最低限、インタビュアーはその技能に関して、長年の良き観察者であり、実践者の実践感覚が、推測的にでも想像できるぐらいの実践理解をしていなければならない。(p.117)


筆者の場合、10年以上バドミントンという競技に従事してきた。よって、バドミントンの実践者の言葉を聞いたり読んだりする際、実践者の語りに知的協力ができ、感覚を実践理解することが可能である。

2点目に、本研究におけるバドミントンという競技そのものの有効性を述べたい。以下に、バドミントンが対人競技である点と、動きがパターン化しているという点の2点から、競技の有効性を挙げる。まずは、対人競技としての利点である。バドミントンでは、基本的にコート内において自分の動きが何者かによって阻害されることがない。よって、サッカーやバスケットのように、相手の動きに合わせた動きの練習を行う必要がないため、自らの動きに専念できる。バドミントンの練習を行う目的を端的にいえば、バドミントンにおける身体運動の感覚を養成していくことであるといえる。練習では常にバドミントンの動きの感覚を身体に覚えこませ、また、指導する際にもその感覚を言葉によって学習者に伝える場面が多い。これらは、本研究において適した競技特性であるといえる。次に、動きがパターン化しているという利点である。バドミントンは狭いコートで行われる競技といっても、もちろんさまざまな動きがある。しかし、基本的には6方向への動き(フットワークと呼ばれる)で説明できる。ありふれた一般的な練習においてフットワークといえば6点フットワーク(右前・右横・右後・左前・左横・左後)を指し、もっとも基本的な動きであり、かつもっとも大切な動きでもある。上のレベルの選手ほど、この6点の基本的な動きに関しては幾度となく指導者から教わり、考え、変容させ、あるいは、学習者に教えてきたと思われる。本研究では、この6点の動きにセンターポジションでの構えを含んだ7点を、バドミントンの動きの研究対象とする。



4 技術の記述・説明が身体意識の違いを表すのか

 では、バドミントンの動きの記述・説明は身体意識の差を表すのだろうか。これについては、先ほどのわざ言語の論を用いて答えたい。わざ言語の1つ目の役割として、活動における具体的な動きや行為を指示することがあった。その一例として、太鼓の指導場面で用いられる「へそを真下に落とすように打て」という表現を紹介した。指導者が学習者に太鼓の叩き方を教える際、こういった表現の仕方をした(できた)のは、その指導者が「へそを真下に落とすように打つ」身体感覚を持っているからに他ならない。その表現は指導者がどうにか自分の身体感覚を学習者に伝えようとして捻り出した表現である。このように、我々が指導者(実践者)の身体感覚を垣間見られるようになるのは、それが言葉によって表現されたときである。  

 以下に、筆者が現段階で得た文献の記述を元にして、日英語母語話者の身体意識の違いが表れている記述の一例を挙げる。バドミントンにおけるセンターポジションでの構えの身体感覚として、日本語の文献では「腰を落として前傾姿勢をとる」(池田, 2011)などと書かれている。一方、英語の文献では「腰」にあたる’hips’や’waist’という言葉は用いられずに、”Your weight is on the balls of your feet”(Badminton: step to success, p3)というように身体感覚が表記されている。すなわち、日本語母語話者はセンターポジションにおいて「腰」を意識するが、英語母語話者は”balls”、つまり母指球を意識することが重要視されているのである。この事実から、バドミントンの構えにおいても日本人は「腰」意識が強いことが見られ、英語母語話者にはそれが見られないことがわかる。そういった身体意識の差はなぜ生じるのかについては、今後文献を元に考察していきたい。



5 研究課題

 以上を踏まえ、以下の研究課題を設定する。

1 日本語母語話者と英語母語話者のバドミントン選手に、バドミントン動作における身体意識の違いはあるのか。  

2 身体意識の違いがあるのであれば、それはどのように異なり、なぜ違いが生じるのか。






6 研究方法

6.1 研究の概要

 ・実験参加者  : 英語母語話者と日本語母語話者で、バドミントンの上級者(各同数)  

・実験対象の文献: 英語母語話者によって書かれたバドミントンの理論書と、日本語母語話者によって書かれた理論書(入手できる限り)

 ・分析対象となる記述・説明: センターポジションでの構えと基本移動の6点の、計7点に関する記述・説明  

 ・研究手順:以下の手順で研究を行う。  

① 日英の文献を比較し、分析対象となる記述を得る。
② 日英語母語話者のインタビューを行い、その様子を録画・録音・観察する。
③ ②の談話を書き起こし、生田(2011)やPolanyi(1966)の論を用いて分析を行う。必要であれば、George LackoffやMark Johnsonのメタファー論や、竹内敏晴、尼ヶ崎彬、斉藤孝などの身体論を用いて分析を行う。
④ ①~③で得たものを元に、身体意識の違いに関する考察を行う。




6.2 インタビュアーとしての留意点

 本研究において、英語母語話者と日本語母語話者のバドミントン選手の身体意識を探る際に行うインタビューは、非常に重要な位置をしめる。よってインタビューを行う前に筆者がもっておくべき留意点を、柳瀬(2007)を参考に2点まとめておく。1点目に、聞き手であるインタビュアーも、インタビュー中の気づきを言語化するように努めることである。すなわち、実践者の語りを聞いている際、言葉を瞬時に解釈し、実践者の語りの従属的気づきをすぐに言語化することで、語りに協力しなければならない。こういった言語化は、実践者の近接項の言語化の手助けになるだろう。2点目としては、本研究においてインタビュアーの際に、筆者が避けなければならない点である。インタビュアーは、インタビューで実践者から引き出した言葉を、凡庸な常套句理解、言葉へと変形させてはならない。インタビュー内容は忠実に文字化するべきであり、また実践者の語りの様子を参照できるように映像で残しておくことも可能な限り行うべきである。語られ方を無視し、言葉を凡庸に改変してしまうことは必ず避けなければならない。



7 今後の展望

 以下に今後の研究計画を述べる。1、2月中に日英の文献を探すとともに、分析材料となりうる記述を集め、3月にインタビューの準備、4月下旬までにインタビューを終え、5月からそれらの分析・考察を行っていき、8月から徐々に書き始めることが研究手順の理想である。まずは今月中に文献を探し、それらを読み、また、インタビューのアポイントメントを取りたい。現時点では、英語の文献やインタビューを通してどのような表現が得られるかがあまり見積もれていないため、研究がどう進むかの展望を明確に持ててない。固まった思考に陥らず、文献やインタビューで得た材料に忠実に、柔軟に対応しながら今後研究を進めていきたいと思う。  

 

主要参考文献
Grice. T. (2008). Badminton: step to success. Human Kinetics, inc.
Polanyi, M. (1966) The Tacit Dimension. Routledge & Kegan Paul Ltd., London.
尼ヶ崎彬(1990).『ことばと身体』 勁草書房
生田久美子(2011).『わざ言語―感覚の共有を通しての「学び」へ―』. 慶応義塾大学出版会.
池田信太郎(2011). 『池田信太郎のいちばんやさしいバドミントンの基本レッスン』. 新星出版社. 東京.
斎藤孝(2000).『身体感覚を取り戻す―腰・ハラ文化の再生―』NHKブックス
高岡英夫(1992).『ハラをなくした日本人』.恵雅堂出版. 東京
柳瀬陽介(2007). 中国地区英語教育学会研究紀要: CASELE research bulletin no. 37 page. 111-120 (2007-04-01).







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