2014年1月13日月曜日

岡田尊司 (2014) 『母という病』 ポプラ新書




「普通でない人」人がいる。「普通の人」なら、気にしないこともクヨクヨ気にして不安がる。感情をうまく表現できず、てっきりおとなしい人かと思っていると時に感情を暴発させる。他人が手を差し出すと妙に後ずさりする(あるいは周りが驚くぐらい何も考えずについてゆく)。そしてやたらと完璧主義になり正論を述べるかと思うと、その完璧主義と正論に自ら傷つく。そしてやがて病んでゆく。

そんな「普通でない人」に対して、「普通の人」はしばしば、途方にくれる。そして、やってられないとばかりに、「あの人は『普通』でない」と匙を投げる。

だが、そういった心理状態がそんな人の「普通」なのだとしたらどうなのだろう。

生まれと育ちの相互作用で、そのような心持ちが「普通」 ―世間の大多数の人からすれば「普通でない」状態― なのだとしたらどうなのだろう。



精神科医の岡田尊司先生はさまざまな症例から、「境界性パーソナリティ障害や摂食障害、うつや不安障害、さまざまな依存症に苦しむ人が急増しているが、それらの障害の根底にも、母親との不安定な愛着が、しばしばかかわっている」(15ページ)と考える。

そのように苦しむ人の特徴は、「基本的安心感」と「基本的信頼感」(53ページ)の欠如である。多くの場合、「基本的安心感」と「基本的信頼感」は母親から(あるいは母親代わりの母性的な養育者―それは男性であっても構わないだろう―から) 与えられるものだが、ある種の女性(養育者)は、「母性」とは正反対の「白黒をはっきりしないと気が済まない潔癖さや完璧主義」(143ページ)をもって子どもに接し続ける。

そういった母親(養育者)は、「正しいこと」や「すべきこと」を要求し、理屈を述べ立て、子どもを力づくで動かそうとする。それができないと、見捨てると脅したり、母親(養育者)を苦しめる「悪い子」だと非難したりして、思い通りに支配し、コントロールしようとする(207ページ)

成熟した大人ならもちろんそのような人には反論し、そのような人から遠ざかることができる。

だが、子どもはそれができない。人間の子どもとは徹底的に庇護を必要とする弱い存在だからだ。だからそのような母親(養育者)を受け入れざるをえない。かくしてその子の基本的な性格が形作られてゆく。そんな子どもにとって、母親とは、不安や困難時に安心感や支えをもらえる存在ではなく、脅威や不安の原因となる(149ページ)。だが、幼い子どもはそんな母親(養育者)から離れることができない。かくして基本的安心感と基本的信頼感の欠如が、その子にとっての「普通」となる。

そのような母親(養育者)は、性格破綻者かといえば、(少数の例外を除けば)そうではなく、女性として社会的に活躍していたり、いかにも良き主婦であったりする。だが、そこには自らを顧みる力が乏しいことがあると岡田先生は考える。そんな母親(養育者)と子どもの関係を岡田先生は次のようにまとめる。


自分を顧みることも、人の気持ちを顧みることも、根もとでつながっている。

顧みる力が弱いと、自分に問題があることさえ気がつかない。子どもにこちらの都合を押し付け、子どもが嫌がっているのに、自分では良いことをしていると思っている。

子どもに問題が起きると、まるで子どもにすべての非があるかのように、子どもに立派な説教をする。そんな理不尽さにも、子どもは逆らうことができない。それでも親に愛してほしいからだ。親を傷つけたくないからだ。(186ページ)



しかし、子どもの我慢には限度がある。やがて、そんな子どもは「普通でない」言動を隠しきれなくなる。そこには少なくとも二つのパターンがある。

一つは、「腹を空かした野良犬のように、誰かれ構わずついていって、取り返しのつかない傷を受ける」(185ページ)パターンである。周りがいくら忠告しても、一見優しい素振りをする(実は暴力的な)男性などにすぐに虜になるパターンから抜け出せない少女が典型例なのかもしれない。


もう一つのパターンは「良い子」になろうと、周りに過剰適応することだ。岡田先生はその心理を次のようにまとめる。


自己否定を抱えた人ほど、それから逃れるために、理想的なもの、完璧なものを求めようとする。完璧な自分は、良い自分。不完全な自分は、悪い自分。その二つしかないのだ。

完璧な自分ならば、親も周囲も認め、愛してくれると思うから、背伸びしてでも、無理をしてでも完璧であろうとする(278ページ)


だが完璧な人間など存在しない。存在しない人間であり続けようとするそのような人はやがて疲れ果てるし、不完全な自分を嫌い、落ち込む。



どちらのパターンにせよ、また他のパターンにせよ、その人の言動がその人自身にや周りの人々に耐え難いものになると、その人は精神科医を訪れる ―あるいは『17歳のカルテ』にも描かれているように、巧みに精神科医の元に送り込まれる―。

ところが、「最近の精神科の診断は、症状だけで診断を下すのが当たり前となり、背景とかプロセスといったものにあまり関心を向けなくなっている。精神科医といっても、心の専門家ではなくなってきている」(167ページ)というのが岡田先生の見立てである。精神科医は必ずしも最終的解決手段ではない ―と、自分で書いていて驚いた。私はなぜ「最終的解決」という恐ろしいことばを使ってしまったのだろう―。


閑話休題。


むろん、精神科医に行かないまま苦しむ人も多い。だが、しばしば、苦しみはその人だけにとどまらず、苦しみは周りの人々にも広がる。



母という病を抱えた人は、ネガティブな感情や考えにとらわれやすい。特に、いつも否定されたり、あら探しばかりされてきた人では、その傾向が強い。

ところが、その人自身が大人になり親になると、欠点ばかりをあげつらい、否定的なことを口にする癖を身に着けてしまっている。あれほど嫌だった親や大人の口ぶりを、自分もしっかり真似ているのだ。

辛口のことを言うことが、大人らしい、親らしい言い草だと勘違いしていたりする。それが自分を苦しめてきただけでなく、今も人生を台無しにし、未来の不幸を用意しているというのに。自分の子どもを、知らずしらず痛めつけ、自身や自己肯定感を奪い、不幸を背負った人間に育てているということに気づいていない。

不幸の連鎖を生んでいるのは、まさに、癖になっている否定的な口ぶりなのだ。それは、害毒を撒き散らす、不幸の根源だと言ってもいい。(292ページ)



そういった否定的な言動は、公的な場面だけでなく、私的な場面でも現れる。



母という病を抱えた人は、自分と他人の境目がもろい。母親の意思を自分の意思のようにいつも感じ、支配されてきたため、自分の気持ちと人の気持をうまく区別することができない。

(中略)

親しくなればなるほど、相手と自分との境目が曖昧になり、支配されたり、支配したりが起きやすくなる。なぜなら、その人の母親も、その人をそのように扱ってきたからだ。長年、母親がその人にしたように、その人もまた愛する人にしてしまう。それは相手の自立、自分の自立も損なう。いつのまにか、押し付けや支配や依存が起きやすい。(301ページ)



本書ではこのような「母という病」がさまざまな症例から明らかにされる。とりわけ面白いのが、「母という病」に侵されていたと推定される著名人のエピソードである。本書にあげられた著名人は、このブログ記事の下に示したが、その著名人の作品などを知っていればいるほど、彼・彼女らのエピソードは説得力をもつだろう(また作品理解も深まるだろう)。


しかし、もし「母という病」があるとすれば、それに苦しむ人を周りにもつ人は何をすればいいというのだろう。あるいは自分自身がその病に苦しんでいる人はどうすればよいのだろう。その道筋は本書の第7章に示されているが、まずは、この「母という病」に苦しむ人 ― アダルトチルドレンと同じなのかどうか専門家でない私にはわからない― に対する理解を深めることが先決だろう(浅薄で軽薄な理解だけしかもたずに「処方箋」を手にしたという人ほどやっかいな人はなかなかいいない)。


この本は2012年11月に単行本として発刊されたのものを、内容をそのままに新書化したものだという。新書化する期間がずいぶん短いように思うが、これは、新書化によりより多くの人の目に留まる ―実際、私もこの本を書店の新書新刊コーナーで偶然見つけた― ことを優先させた出版社の英断なのだろう。その判断に感謝したい。









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http://en.wikipedia.org/wiki/Maurice_Utrilloより



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