2014年1月16日木曜日

The Nature of Subject Matter (Chapter 14 of Democracy and Education)



[ この記事は、デューイ『民主主義と教育』(John. Dewey (1916) Democracy and Education. を読む授業のためのものです。目次ページはhttp://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/09/john-dewey-1916-democracy-and-education.htmlです。]





以下、引用はProject Gutenbergからします。
(Project Gutenbergに掲載されている本の著作権は切れていますので、引用や転載は自由です)。

http://www.gutenberg.org/files/852/852-h/852-h.htm#link2HCH0014




なお、以下でつけられたページ番号は、Dover editionのページ番号です。また、Project Gutenbergにはイタリックやボールドなどの強調が抜けていますので、それらは適宜Dover editionから補いました。

■印は、続く引用文の要約で、⇒印は私のコメントです。 下のスライドは、私にとって印象的だったデューイのことばです(下線は私がつけたものです)。



スライドは下のURLからダウンロード
https://app.box.com/s/gviotvz6mfsy25w89nkv1h0men0yhs1x








第14章: 教育内容の特質
Chapter Fourteen: The Nature of Subject Matter



追記(2016/01/05)
改めて読みなおして、デューイは学びや知識の"social"な側面をずいぶん強調していることを再認識しました。
"Social"(社会的)を私はよくルーマンに倣って、「一つの自我に回収できない」と定義しています。この場合の「自我」は"perspective"とも言い換えることが可能かと思います。
今回デューイを読んでいてふと思ったのは、"social" (社会的)を「一人ではできない」「一人では不可能な」などと柔らかく訳してみても面白いかなということです。今後も引き続き考えてゆきたいと思います。



1. 教師にとっての主題と学習者にとっての主題(Subject Matter of Educator and of Learner.)


■ 主題 (subject matter)の定義

⇒"Subject matter"は一般的な意味で使われている時は「主題」、教育の文脈で使われている時は「教育内容」と訳すことにした。後者に関しては、「教科内容」と訳すべきかとも思ったが、「教育方法」という用語と対をなす用語なので「教育内容」とした。

It consists of the facts observed, recalled, read, and talked about, and the ideas suggested, in course of a development of a situation having a purpose. (p. 173)

⇒定義部分なので一応律儀に翻訳(苦笑)。

主題とは、ある目的がある状況が発展する中で、観察・想起され読まれ語られた事実、およびそこで示された観念から構成されるものである。



■ 教師の役割

The educator's part in the enterprise of education is to furnish the environment which stimulates responses and directs the learner's course. In last analysis, all that the educator can do is modify stimuli so that response will as surely as is possible result in the formation of desirable intellectual and emotional dispositions. (p. 174)

⇒再三強調されている点だが、重要なので翻訳

教育という企ての中での教師の役割とは、反応を引き出し、学習者の発達を指導する環境を整備することである。突き詰めて考えるなら、教師ができることは、刺激を修正して、望ましい知的・感情的性向を確実に形成するように刺激を修正すること以外の何ものでもない



■ 学校の教育内容と、社会集団の習慣や理想は、かけ離れているように思えるが、それは異なる。

the bonds which connect the subject matter of school study with the habits and ideals of the social group are disguised and covered up. The ties are so loosened that it often appears as if there were none; as if subject matter existed simply as knowledge on its own independent behoof, and as if study were the mere act of mastering it for its own sake, irrespective of any social values. Since it is highly important for practical reasons to counter-act this tendency (See ante, p. 8) the chief purposes of our theoretical discussion are to make clear the connection which is so readily lost from sight, and to show in some detail the social content and function of the chief constituents of the course of study.(p. 175)

⇒まったくその通りなのだが、英語という外国語教育では、「社会集団」が、アメリカに旅行に行った際の社会集団と考えられた会話教材は今なお多い。もちろん「学校にALTがやってきた」といった設定の教材もたくさんあるが、(使用できる英語が初歩レベルなこともあって)どこか絵空事のような設定に聞こえてしまう。

学習者がその中で暮らす「社会集団」を考えると、カタカナ英語やアルファベット表記が多用され、(地域によって異なるが)複数の言語と文化が混在する社会が、学習者にとって多少ともリアリティが感じられる社会集団ではないのか。

もちろん、今は「社会集団」をオンライン上にも求めてもいいのかもしれない。もっともその場合は、ヘイトスピーチも横行するコミュニケーションも含まれてしまうのだが。

うまくまとめられないが、学習者にとっての「リアリティ」ということをきちんと考えたい。そうしてゆくと、文学といった虚構の話こそ「リアリティ」を感じさせるものという結論に到達するかもしれない。いずれにせよ、「会話っぽいことをやっているから、実用的」といった浅薄な考え方には警戒したい。



■ 教育内容は教師の観点と学習者の観点から考えられなければならないが、教師の観点からすると、教師がもつ教育内容の知識は、学習者がもつ知識をはるかに凌駕するものでなくてはならず、さらに、まだ未成熟な学習者の粗削りの活動の可能性が明らかになるような確固とした基準を提供できるものでなくてはならない。

The points need to be considered from the standpoint of instructor and of student. To the former, the significance of a knowledge of subject matter, going far beyond the present knowledge of pupils, is to supply definite standards and to reveal to him the possibilities of the crude activities of the immature. (p. 175)

⇒当たり前のことだけど、まず教師は教育する内容に通暁していなければならない。だからこのようにデューイを読むことも大切だけれど、まずは英語を自分が楽しめるようになろう。以下のサイトも活用してください。



広大教英生がお薦めする英語動画集
http://kyoeivideoselection.blogspot.jp/




■ 教科の題材は、伝承するのが望ましいと考えられる現代社会生活の意味へと、具体的かつ詳細に翻訳されなければならない。

(i) The material of school studies translates into concrete and detailed terms the meanings of current social life which it is desirable to transmit. (p. 175)

⇒教科書を字義通り教えるのではなく、教育内容の中にある意味を学習者にわかりやすく納得させるということ。そのためには、英語教育では、「教師が英語に生きており、英語が教師に生きている」状態になければならない。

関連記事:私は言語に生き、言語は私に生きる
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/10/orionis23-abc-33the-human-mind-is-idea.html

■ 教師は過去の知的遺産をもとにして、学習者の取り留めもない反応にも意味を見出し、その反応に必要な刺激を与えて、学習者の反応が発展するようにしなければならない。

(ii) A knowledge of the ideas which have been achieved in the past as the outcome of activity places the educator in a position to perceive the meaning of the seeming impulsive and aimless reactions of the young, and to provide the stimuli needed to direct them so that they will amount to something. (p. 175)

⇒ここは、教師の長年の経験が生きるところ。といっても長年、同じ授業を機械的に繰り返しているだけの教師は、こういったことがいつまでたってもできない。生徒から期待しているのは正解だけで、他の答えはすべて切り捨ててしまう(というより、力量がないから、切り捨てざるをえないのかもしれない)。

常に、教育内容と学習者のlife(生活・暮らし・生きていること)を結びつけようとしている教師だけが、経験年数とともにこういった力量を上げてゆくことができるだろう。そういった教師は、たとえ生徒が「不正解」を述べたとしても、「なるほど、なるほど。つまり、○○だから××だと考えたのじゃないかな?他の人にもそう考えた人も多いはずだよね。なるほど、確かに○○だとも思えるけど、本当にそうかな。なぜ○○と思ってしまったのだろう・・・」などとどんどん授業を展開できる(毎度の例で恐縮だけど、田尻悟郎先生は、このような引き出しが驚くほど多かった)。

本当に賢い人というのは、何気ないことにも深い意味を見出だせるもの。浅薄な知性の持ち主は、自分が親しんでいる専門用語にしか意味を見出せない。



■ 教育内容を教育者の観点からしか見れず、学習者の観点から見ることができない教育者は失格

From the standpoint of the educator, in other words, the various studies represent working resources, available capital. Their remoteness from the experience of the young is not, however, seeming; it is real. The subject matter of the learner is not, therefore, it cannot be, identical with the formulated, the crystallized, and systematized subject matter of the adult; the material as found in books and in works of art, etc. The latter represents the possibilities of the former; not its existing state. It enters directly into the activities of the expert and the educator, not into that of the beginner, the learner. Failure to bear in mind the difference in subject matter from the respective standpoints of teacher and student is responsible for most of the mistakes made in the use of texts and other expressions of preexistent knowledge. (p. 176)

⇒大切なところなので頑張って翻訳。

言い換えるなら、教育者の観点からすれば、さまざまな教科は、使える資源、入手可能な資本である。しかし、教育者が若者の経験から遠くはなれていることは、見かけ上のことではなく、本当のことである。学習者にとっての教育内容とは、大人にとって定式化され結晶化され体系化された教育内容 ―書籍や芸術作品などに見出される題材― と同じではないし、同じではありえない。大人にとっての教育内容とは、学習者にとっての教育内容の可能性を示すものであり、決して現状を示すものではない。それは専門家と教育者の活動には直に入ってくるが、初心者つまり学習者の活動に直に入ってくることはない。教育内容が教師と学習者のそれぞれの観点から見ると異なっているということを頭に入れそこねることにより、もっぱら、テクストや既存の知識を表現した他の教材の使い方を間違ってしまう。



■ 教師にとっての教育内容と学習者にとっての教育内容は、それぞれ見え方が違う

The teacher presents in actuality what the pupil represents only in posse. That is, the teacher already knows the things which the student is only learning. Hence the problem of the two is radically unlike. When engaged in the direct act of teaching, the instructor needs to have subject matter at his fingers' ends; his attention should be upon the attitude and response of the pupil. To understand the latter in its interplay with subject matter is his task, while the pupil's mind, naturally, should be not on itself but on the topic in hand. Or to state the same point in a somewhat different manner: the teacher should be occupied not with subject matter in itself but in its interaction with the pupils' present needs and capacities. (p. 176)

⇒ここも重要なので翻訳。

教師が現実のものとして提示するものを、生徒は可能なものとしてしか自らの中で表現できない。つまり、教師は、生徒が学び始めたばかりのことを既に知っているのだ。ゆえに、両者にとっての課題は根源的に異なっている。教えることに直接従事している時、指導者は教育内容をお手のものにしておかねばならない。指導者の注意は、学習者の態度と反応に向けられなければならない。学習者の態度と反応が、教育内容とどう絡まってゆくのかということが指導者の課題である。一方、学習者の心は、もちろんのことながら、心自体に向けられるのではなく、手元にある題材に向けられるべきである。同じことを違ったように表現するなら、教師は教育内容自体に集中するのではなく、教育内容が学習者の今の欲求と能力にどう関係しているかに集中するべきである。

⇒確かに、教科に関する知識はもっているかもしれないが、下手な教師にかかると、学習者は「自分の答えは間違っていないか、どうして自分はこんなに出来が悪いんだ・・・」などと教育内容ではなく自分の心ばかりに目がいってしまう。また教師も職員室で「年々、生徒の出来が悪くなりますなぁ」などと言って自分が好きな英語の本ばかりを読んだりする(あるいはTOEFLの試験対策に励む)。

何度も言うけど、教師が教育内容に精通していることは必要だが、それは教師としての前提条件に過ぎず、本質条件ではない。教師の本質条件とは、学習者の目から教育内容を見ることができ、その視点と教師自らの視点を絡ませて、学習者を伸ばすこと。

だから英語でも、(仮に資格試験で英語力が十分に測れると仮定してのことだけど)教師がある程度の点数を資格試験で取れることは必要だが、いたずらにその点数を上げて、教師の関心をもっぱら英語だけに注目させるのは本末転倒。教育の成果は、教師ではなく、学習者によって決まるものなのだから、教師は学習者の方に関心を向けなければならない。



■ 教科内容だけに詳しい教師の弊害

Hence simple scholarship is not enough. In fact, there are certain features of scholarship or mastered subject matter --taken by itself --which get in the way of effective teaching unless the instructor's habitual attitude is one of concern with its interplay in the pupil's own experience.

⇒翻訳

したがって単に学識があるだけでは不十分である。実際のところ、学識や、教育内容それ自体として熟知しているだけのことは、その教師の態度が習慣的に、教育内容が生徒自身の経験とどう結びつくかということに向けられているのではないならば、いい教え方の障害となってしまう要素がある。

⇒英語で言うなら、たとえ大学院卒であろうが(あるいはネイティブ・スピーカーであろうが)、生徒がどのように教育内容を受け入れるか(あるいは受け入れないか)に興味をもっていなければ駄目。

注意しておきたいのは、これはただ「子どもに興味がある」ことではなく「子どもと教育内容の関わりに興味がある」ことを意味する。前者は単なる子ども好きであり、よい教師ではない。



■ 教師は教育内容と生徒の両方を熟知しなければならない

The problem of teaching is to keep the experience of the student moving in the direction of what the expert already knows. Hence the need that the teacher know both subject matter and the characteristic needs and capacities of the student. (p. 177)

⇒翻訳

教えることの課題とは、生徒の経験を専門家が既に知っている知識の方向へと常に動かし続けることである。したがって、教師は教育内容と、生徒の特徴的な欲求と能力、の両方を知っておかねばならない。







2. 学習者の中での教育内容の発達 (The Development of Subject Matter in the Learner)

■ 教育内容が学習者の中で発達する三段階

It is possible, without doing violence to the facts, to mark off three fairly typical stages in the growth of subject matter in the experience of the learner. In its first estate, knowledge exists as the content of intelligent ability --power to do. This kind of subject matter, or known material, is expressed in familiarity or acquaintance with things. Then this material gradually is surcharged and deepened through communicated knowledge or information. Finally, it is enlarged and worked over into rationally or logically organized material -- that of the one who, relatively speaking, is expert in the subject. (p. 177)

⇒三段階のところだけ翻訳

最初に、知識は知的能力--何かを行う力--の内実として存在する。この種の教育内容(もしくは知るようになった題材)は、物事に親しみ慣れていることのうちに表現される。次に、題材は次第に、コミュニケーションされる知識や情報によって強められ深められる。最後に、題材は拡張され、合理的もしくは論理的に体系化された題材へと発展する --これは相対的に言っての話だが、その主題の専門家にとっての教育内容に相当する。



I


■ 人が最初に得る知識は、「どのようにして行うか」というハウツーの知識

The knowledge which comes first to persons, and that remains most deeply ingrained, is knowledge of how to do; how to walk, talk, read, write, skate, ride a bicycle, manage a machine, calculate, drive a horse, sell goods, manage people, and so on indefinitely. (p. 177)



■ この原初的な「どのようにして行うか」という知識が、過度に科学的な知識概念によって否定もしくは軽視されることにより、教育内容が学習者の欲求や目的から乖離し始める。

When education, under the influence of a scholastic conception of knowledge which ignores everything but scientifically formulated facts and truths, fails to recognize that primary or initial subject matter always exists as matter of an active doing, involving the use of the body and the handling of material, the subject matter of instruction is isolated from the needs and purposes of the learner, and so becomes just a something to be memorized and reproduced upon demand. (p. 178)

⇒翻訳

科学的に定式化された事実と真理以外は何も認めようとしない学術的な知識概念に影響されて、教育が、原初的で最初の教育内容は能動的に行うことの中に存在すること、そしてそれは身体の使用と題材の扱いを含むものであること、を認識できなくなってしまうと、教示の際の教育内容は、学習者の欲求や目的から離れてしまい、単に要求にしたがって記憶され再生されるものになってしまう。

⇒とても卑近な言い方にしてしまうと、「わかってからできるようになるか」と「できるようになってから(もっと)わかるようになるか」とでは、デューイは後者の立場に立つ。だが、多くの教育者は前者の立場で、「まずわからせなければならない。しかもそのわからせる内容は科学的に定式化したものでなくてはならない」と考える --ちなみに私はこの対立を、言語学者が主催した言語教育に関するセミナーで強く感じた。当然、言語学者は前者の立場で、しかも教育内容を科学的厳密性を犠牲にして提示しなければならないことに対してとても抵抗を覚えていた。言語学という生業からすればそうなのだろうと思うが、実践の立場である私としては、そういったアプローチには違和感を覚えた。



■ 成すことによって学ぶ (learning by doing)

Recognition of the natural course of development, on the contrary, always sets out with situations which involve learning by doing. Arts and occupations form the initial stage of the curriculum, corresponding as they do to knowing how to go about the accomplishment of ends. (p. 178)

上記の立場とは反対に、自然な発達段階では、成すことによって学ぶことに関する状況から常に始まる。技芸に集中することがカリキュラムの最初の段階を構成し、それに応じていかに目的を達成するかという知識が得られる。

⇒有名な"learning by doing"ということばが出てきたが、ここで注意したいのは、このことばは、(1)心身二元論的な哲学への反論として出てきたこと、(2)その次の段階での知識の拡充や整理を否定しているわけではないこと、であろう。「とにかく、まあ、何かやらせておく」というのは著しく反知性的な態度であり、それをもってデューイ的な教育と呼ぶことはできないだろう。



■ 学術的な哲学およびそれに影響を受けた教育では、知識と行為能力の結びつきが失われ、知識とは行為とは離れた情報だとされているが、実践分野ではそのような知識観はとられていない。

Popular terms denoting knowledge have always retained the connection with ability in action lost by academic philosophies. ... Only in education, never in the life of farmer, sailor, merchant, physician, or laboratory experimenter, does knowledge mean primarily a store of information aloof from doing. (p. 178)

⇒学者や教師は、市井の実践人からすると変人というのが世間の相場だが、それも故なきことではない。



II

■ こうして意図的・技術的に学ぶことだけが知識の始まりではないことを理解すると、人間は他人からも学ぶということが視野に入ってくる。

But it is likely that elaborate statements regarding this primary stage of knowledge will darken understanding. It includes practically all of our knowledge which is not the result of deliberate technical study. Modes of purposeful doing include dealings with persons as well as things. (p. 179)



■ 他人とのコミュニケーション、つまり語り語られることからも人は学ぶ。「ここからここまでが私の経験で、そこから向こうはあなたの経験」といった線引をすることは困難である。

Impulses of communication and habits of intercourse have to be adapted to maintaining successful connections with others; a large fund of social knowledge accrues. As a part of this intercommunication one learns much from others. They tell of their experiences and of the experiences which, in turn, have been told them. In so far as one is interested or concerned in these communications, their matter becomes a part of one's own experience. Active connections with others are such an intimate and vital part of our own concerns that it is impossible to draw sharp lines, such as would enable us to say, "Here my experience ends; there yours begins." In so far as we are partners in common undertakings, the things which others communicate to us as the consequences of their particular share in the enterprise blend at once into the experience resulting from our own special doings. (p. 179)



⇒以前、デューイは語ることで自らの知識が再構成されたり深まることがあるとも述べていた。実際、学生も友人に説明したりすることで、新たな気づきを覚えることも多い。

上でデューイは、学習者の経験の中で教育内容がどのように発達するかをまとめて、(1)身体的に慣れ親しんでいる、(2)コミュニケーションによって知識が広がり深まる、(3)知識が合理的・論理的に体系化される、の三段階を設定したが、この第二段階目のコミュニケーションが果たす学びへの貢献について、私たちはもっと自覚すべきであろう(言うまでもなく、一斉授業では、生徒同士のコミュニケーションは奨励されていない)。

別に「協同授業」という用語にこだわる必要はないが、私たちはもっとコミュニケーションからの学びについて理解を深めるべきだろう。








■ 教育内容が子どもの経験に即しているならば、それについてのコミュニケーションは自然に促される(逆に、コミュニケーションが生じないような内容ならば、それは教育的な内容ではないとも言える)。

The place of communication in personal doing supplies us with a criterion for estimating the value of informational material in school. Does it grow naturally out of some question with which the student is concerned? Does it fit into his more direct acquaintance so as to increase its efficacy and deepen its meaning -- If it meets these two requirements, it is educative. (pp. 179-180)

⇒翻訳

学習者が個人的に何かをやった時に、コミュニケーションがどのような役割を占めるかで、学校が提示している題材の情報性の価値に対する判断がくだせる。コミュニケーションは、学習者からの疑問から自然に生じるだろうか?コミュニケーションによって、学習者はより習熟し、効率を高め意味を深めることができるだろうか?もしこれら二つの要求を充たすなら、その題材は教育的である。

⇒もちろん本来は教育的な内容でも、教師の問いかけ(発問)が下手だったり悪かったりすれば学習者の間にコミュニケーションは起きにくい。また教師が支配的だったり権威主義的だったりしても同様の結果に終わる。教育内容も、常に教育方法と合わせて考えなければならない。



■ しかし言うは易く行うは難しで、特に情報量が増えている現代では、学習者に大量の情報を与えすぎて、学びから学習者を疎外してしまうことはよくある。

But it is not so easy to fulfill these requirements in actual practice as it is to lay them down in theory. The extension in modern times of the area of intercommunication; the invention of appliances for securing acquaintance with remote parts of the heavens and bygone events of history; the cheapening of devices, like printing, for recording and distributing information -- genuine and alleged -- have created an immense bulk of communicated subject matter. It is much easier to swamp a pupil with this than to work it into his direct experiences. All too frequently it forms another strange world which just overlies the world of personal acquaintance. The sole problem of the student is to learn, for school purposes, for purposes of recitations and promotions, the constituent parts of this strange world. Probably the most conspicuous connotation of the word knowledge for most persons to-day is just the body of facts and truths ascertained by others; the material found in the rows and rows of atlases, cyclopedias, histories, biographies, books of travel, scientific treatises, on the shelves of libraries. (p. 180)

⇒100年前のデューイがこう嘆いているのなら、情報革命で情報が爆発した私たちはどうすればいいのだろう。学習の量的拡大(例えば進学率の向上)などには限界があるし、何より、学びが、学校のため、暗記と進学のためになるという大きな弊害がある。

情報革命の中で私たちは新たな学びの態度を見つけつつあるとも思えるが、それについてもっと真剣に考える必要があるだろう。この点、私は、梅田望夫氏が提起した問題を私たちは十分に検討していないと考える。

関連記事
梅田望夫(2007)『ウェブ時代をゆく』ちくま新書
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2007/11/blog-post.html 梅田望夫(2008)『ウェブ時代5つの定理』文藝春秋
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/04/5.html
斎藤孝x梅田望夫(2008)『私塾のすすめ--ここから創造が生まれる』ちくま新書 http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/05/x.html
梅田望夫・飯吉透(2010)『ウェブで学ぶ ―オープンエデュケーションと知の革命』ちくま新書
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2010/10/2010.html

ちなみに私なりに、ウェブ時代での学びにおいて重要だと考えることは、知の身体性と知のコミュニケーションによる進化である。

関連記事
メディア・リテラシーについて
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/10/blog-post.html



■ 銀行的知識観:知識とは言明もしくは命題であり、それは人間に貯えられる。

The imposing stupendous bulk of this material has unconsciously influenced men's notions of the nature of knowledge itself. The statements, the propositions, in which knowledge, the issue of active concern with problems, is deposited, are taken to be themselves knowledge. The record of knowledge, independent of its place as an outcome of inquiry and a resource in further inquiry, is taken to be knowledge. (p. 180)

関連記事
Paulo Freire (1970) Pedagogy of the Opressed
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/10/paulo-freire-1970-pedagogy-of-opressed.html



■ 知識とは命題であるという知識観が論理学者や哲学者によって強化されると、「学習指導要領」は、情報ごとに教科に分けられ、それぞれの教科はそれぞれの時間に分けられ、点数化されるとなる。

If this identification of knowledge with propositions stating information has fastened itself upon logicians and philosophers, it is not surprising that the same ideal has almost dominated instruction. The "course of study" consists largely of information distributed into various branches of study, each study being subdivided into lessons presenting in serial cutoff portions of the total store. (p. 180)

⇒知識を命題の体系と考えれば、確かに上のように教育内容は、区分けされ、部品化される。学びはその区分け・部品の命題を何割習得したかという観点で点数化される。

教育内容の区分けで、私がいつも抵抗を感じるのは、よく言われる「それはもはや国語教育(あるいは社会科教育)の内容であって、英語教育ではない。したがって、我々英語教師が話をするべき事柄ではない」といった意見である。確かに英語教師の多くは、自らのアイデンティティを「英語」という教科においているから、そんな発言になるのだろう。

だが、教育内容とは、生徒の心身と暮らしの中に融合し発展するものというデューイ的な考え(プラグマティズムpragmatism)を取れば、そんな学習指導要領の区分などは、学びにとって本質的な区分ではないことになる。

あくまでも学習者の心身と暮らしから、学校の学びも考えるべきではないのか。



■ 情報は、ことばとして大切なのではなく、それが問題解決のために使われる手段として大切。

To be informed is to be posted; it is to have at command the subject matter needed for an effective dealing with a problem, and for giving added significance to the search for solution and to the solution itself. Informational knowledge is the material which can be fallen back upon as given, settled, established, assured in a doubtful situation. It is a kind of bridge for mind in its passage from doubt to discovery. (p. 181)

⇒翻訳 ("posted"の"post"は、"to appoint to a post of command"の意味だと理解した)

情報を得ることは、何かができる地位を得るということだ。問題に効果的に対処し、問題解決自体とそのための探究に新たな意義を加えるために、主題を自由に使うことができるということだ。情報としての知識とは、どうなるかわからない状況でも、与えられ、安定し、制度化され、成功の見込みがあるとされる題材である。どうなるかわからない状況から発見につながる道のために心に架けられた橋の一種である。







3. 科学あるいは合理化された知識 (Science or Rationalized Knowledge)



■ 科学とはどんな知識か

Science is a name for knowledge in its most characteristic form. It represents in its degree, the perfected outcome of learning,--its consummation. What is known, in a given case, is what is sure, certain, settled, disposed of; that which we think with rather than that which we think about. In its honorable sense, knowledge is distinguished from opinion, guesswork, speculation, and mere tradition. In knowledge, things are ascertained; they are so and not dubiously otherwise. (p. 182)

⇒一種の定義部分なので翻訳

科学とは、もっとも知識らしい知識に与えられた名称である。科学は、程度に応じてのことではあるが、学習成果のすべて -- 学習の成就を意味している。ある一定の事例に対しての知識とは、確実で確かで安定した処理済みのものであり、私たちが思考の対象とするものではなく、思考の道具とするものである。ことばの良い意味で、知識は、意見や推測や思案あるいは単なる伝統とは区別されるものである。知識において、物事は確証されている。それはまさに確証的なのであり、そうでない疑わしいものではない。

⇒私たちの多くは、ほとんど何の不安も抱かずに飛行機と呼ばれるジェットエンジンで空中に放り出される鉄の塊に乗ったり、手術と呼ばれる意識を剥奪され身体を切り刻まれる作業に身を委ねるぐらいには、科学というものを信じている。

だが、手術でも例えば腫瘍のための手術なら、その有効性を疑う医者すらいる。科学に対する確証度・信頼度にもさまざまな度合いがある。







ましてや、「科学的証拠を得た」と称される英語指導法の有効性・確証性・信頼性に関しては、疑いはもっと多くなるというのが、私なりに現場を観察してさまざまな実践者の話を聞いた上での実感。

「科学」という名前が使われたら、疑いなく信じきってしまうというのは、実践の中での知性・思考・省察を重視するデューイの哲学に反する。

かといって逆に「科学」や「知識」を嫌ってしまうのも、極めて反デューイ的態度。

別にデューイに忠義立てるのが趣意ではないが、あくまでも実践の中で観察・省察・思考を重ね、まとめられることはまとめ、ときほぐすべきことはときほぐして生きたい。

というより、端的に、より良く生きたい。



■ 主題について知的な確実性を得ることと、私たちが信じたいがままに信じてしまうことはまったく異なる。

But experience makes us aware that there is difference between intellectual certainty of subject matter and our certainty. We are made, so to speak, for belief; credulity is natural. The undisciplined mind is averse to suspense and intellectual hesitation; it is prone to assertion. It likes things undisturbed, settled, and treats them as such without due warrant. (p. 182)

⇒私たちは知的に怠惰なところがあるから、知的努力をせずに一気に信じてしまおうとする。



■ 私たちは、物事がまあまあうまくいくと、自分の思い込みでいいと思ってしまうし、物事に失敗しても、その原因は自分の思考とデータにあるとは考えずに運や周りの状況が悪いからと考えてしまう。

We are satisfied with superficial and immediate short-visioned applications. If these work out with moderate satisfactoriness, we are content to suppose that our assumptions have been confirmed. Even in the case of failure, we are inclined to put the blame not on the inadequacy and incorrectness of our data and thoughts, but upon our hard luck and the hostility of circumstance. (p. 182)

⇒私は大学という知的変態の巣窟(笑)にいるので、このようにはあまり思わないが、それでも世間知らずとして、他の業種の人たちと交わると、時に驚く時がある。

ある時、ある審議会で県会議員の発言を聞いていたら、その根拠と脈略のなさと反比例するぐらいの自信満々の態度に私は本当に驚いた。と、同時に、こんな押しが強い人が選挙の時などは人気がでるのかもしれないと思った。



■ 科学と人類

Science represents the safeguard of the race against these natural propensities and the evils which flow from them. It consists of the special appliances and methods which the race has slowly worked out in order to conduct reflection under conditions whereby its procedures and results are tested. It is artificial (an acquired art), not spontaneous; learned, not native. To this fact is due the unique, the invaluable place of science in education, and also the dangers which threaten its right use. Without initiation into the scientific spirit one is not in possession of the best tools which humanity has so far devised for effectively directed reflection. (pp. 182-183)

⇒翻訳

科学とは、人間のこれらの自然な傾向性とそこから生じる害悪に対しての、人類としての防波堤である。科学は特別な器具と方法から成り立つが、それらは、手順と結果を検証する状況の中で省察をするために、人類が少しずつ開発してきたものである。科学は人工的なもの(後天的に獲得された技芸)であり、自然発生するものではない。学ばれたものであり、もって生まれたものではない。このことゆえに、科学は教育の中で独自の価値ある地位を占めるわけであり、また科学の正しい利用を脅かす危険性もでてくるのである。科学的な精神に向けられないなら、人は人類がこれまで開発してきた省察を効果的に導くための最上の道具を手にすることができない。

⇒確かに、科学への啓蒙は必要。だが、同時に、科学の誤用・乱用、そして科学への誤解についても私たちは啓蒙されなければならない。



■ しかし科学が、それ自体で成立する切り離された知識として考えられ始めると、科学は既成の知識であり、私たちが自ら経験と思考の中で獲得すべき知識ではないと思われる危険性がある。

On the other hand, the fact that science marks the perfecting of knowing in highly specialized conditions of technique renders its results, taken by themselves, remote from ordinary experience -- a quality of aloofness that is popularly designated by the term abstract. When this isolation appears in instruction, scientific information is even more exposed to the dangers attendant upon presenting ready-made subject matter than are other forms of information. (p. 183)

⇒デューイは「○○である。しかし△△。とはいえ××。」と論を二転三転させているようだが、このような反転がないと、現実は捉えられないと言えるだろう。これ自体単純すぎる主張になってしまうという矛盾をおかしてしまうが、単純すぎる主張には気をつけよう ――私たちは複雑な現実の中での真実に近い表現を探ろうとすると、矛盾表現を必要とするのかもしれないーー。



■ 理想の科学体系とは、それぞれの知識がそれぞれを支え合う論理的で合理的なもの。

The ideal of scientific organization is, therefore, that every conception and statement shall be of such a kind as to follow from others and to lead to others. Conceptions and propositions mutually imply and support one another. This double relation of "leading to and confirming" is what is meant by the terms logical and rational. (pp. 183-184)

⇒この1916年時点での科学観は、正直、楽天的過ぎるように思えて、私は賛同できない。

私はきちんとした科学の訓練を受けているわけではないかが(要は、口先だけのエセ文化人ということ)、ハイゼンベルクの不確定性原理 (1927年)やゲーテルの不完全性定理 (1930年)や20世紀後半のカオス理論脱構築を受けて、上記のような単純な科学の理想を簡単には信じがたい(てか、話を思いっきり卑近なものにすれば、原発って絶対安全じゃなかったの?)

ポスト・モダンということばは、最近取り立てては使われなくなってきたと思うけど、それはこれが私たちの思考の前提になったからではないのか。

でも英語教育界ではまだまだモダニズムでしか考えない人が多いから、おじさんはますます居心地の悪さを覚えるのであった(←おそらくは老化に伴う、適応力の低下)。







4. 教育内容の社会性 (Subject Matter as Social)

■ 教育内容の選択には社会全体で考える暮らしの観点が必要

The scheme of a curriculum must take account of the adaptation of studies to the needs of the existing community life; it must select with the intention of improving the life we live in common so that the future shall be better than the past. (p. 185)

⇒今の御時世(参考:「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」2013年12月13日下村博文文部科学大臣記者会見では、大切なことだから全訳。

カリキュラム構想は、今ある共同体の暮らしが必要とすることに研究を適応させることを考慮に入れたものでなければならない。過去よりも未来の方がよくなるために、私たちの共同の暮らしを改善するという意図をもってカリキュラム構想は選択されなければならない。



■ 教育とはまず人間に関するものでなくてはならない。教育が専門的になるのはその次である

Moreover, the curriculum must be planned with reference to placing essentials first, and refinements second. The things which are socially most fundamental, that is, which have to do with the experiences in which the widest groups share, are the essentials. The things which represent the needs of specialized groups and technical pursuits are secondary. There is truth in the saying that education must first be human and only after that professional. (p. 185)

⇒さらに重要な箇所なので、イタリックにした上で全訳します。

さらにカリキュラムは、必須のものを最初に、さらなる向上をその次に置くようにして計画されなければならない。社会的にもっとも基礎的なもの、つまり、もっとも広い範囲の社会集団で共有される経験に関わるものが必須のものである。特定の社会集団が必要とするものや専門的な追求は二次的なものだ。教育とは最初に人間的なものであり、その後にのみ専門的なものでなければならないという古諺には、真理が含まれている

⇒しかし、「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」2013年12月13日下村博文文部科学大臣記者会見というのは、どうも(換喩的表現を使うなら)永田町・霞ヶ関・六本木界隈の人たちの論理を、全国の小学生に、まともな準備もないままに押し付けようとしているだけのようにも思える。(この件については、ひょっとしたら近日中にまとまった論考を公刊できるかもしれません。その時はどうぞ読んでやってください)。



■ 教育と民主主義の関係

Democratic society is peculiarly dependent for its maintenance upon the use in forming a course of study of criteria which are broadly human. Democracy cannot flourish where the chief influences in selecting subject matter of instruction are utilitarian ends narrowly conceived for the masses, and, for the higher education of the few, the traditions of a specialized cultivated class. (p. 185)

⇒翻訳

民主主義的社会が成立するためには、特に、広く人間的な学習指導要領という判断基準を作ることを維持してゆかねばならない。大衆のためには狭い意味の功利主義的目的、特権階級を伝承する少数の者のためにはより高度の教育を与えるという目的が、指導するための教育内容を選択する際の主要要因であるなら、民主主義は反映することはできない。

⇒「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」は、建前では国民全員を対象としつつ、実質では教員養成や教材開発の点から不十分で、会話スクールや塾に行ける子どもだけが英語を学べ、それだけの経済的余裕がない子どもは知的にも意欲的にも脱落せざるを得ない結果に終わる可能性は十分にある。正直、恐ろしい。

新自由主義の本質は、富裕階級の権力の回復と強化だとするハーヴェイの主張の説得力はますます高まってきているように私には思える。








今、どんどん政治権力が教育を利用しようとしている。そうではなく教育、すなわち人間的な成長で結ばれた人々の権力 ―それは特に世論や選挙で示される― が政治を動かさなければならない。

この冬、私は心身の調子を崩していてブログ記事も書けなかったけど、特定秘密保護法の強行採決は、明らかにやり過ぎだった。教育者ももっと政治的 ―それは必ずしも党派的ということを意味しない― にならなくてはならない。いや、市民全員がならなければならない。



■ カリキュラムは、私たちすべてが暮らしを共にするために作られねばならない。

A curriculum which acknowledges the social responsibilities of education must present situations where problems are relevant to the problems of living together, and where observation and information are calculated to develop social insight and interest. (p. 186)

⇒翻訳

教育の社会的責任を認めるカリキュラムは、カリキュラムの課題が、人々が共生するという課題と関連し、社会的な洞察と興味が育つように観察が進められ情報が加えられるような状況を提示しなければならない。

⇒昨今の英語教育改革は、新自由主義的であっても、民主主義的ではない、と言えないだろうか。







Summary

The subject matter of education consists primarily of the meanings which supply content to existing social life. The continuity of social life means that many of these meanings are contributed to present activity by past collective experience. As social life grows more complex, these factors increase in number and import. There is need of special selection, formulation, and organization in order that they may be adequately transmitted to the new generation. But this very process tends to set up subject matter as something of value just by itself, apart from its function in promoting the realization of the meanings implied in the present experience of the immature. Especially is the educator exposed to the temptation to conceive his task in terms of the pupil's ability to appropriate and reproduce the subject matter in set statements, irrespective of its organization into his activities as a developing social member. The positive principle is maintained when the young begin with active occupations having a social origin and use, and proceed to a scientific insight in the materials and laws involved, through assimilating into their more direct experience the ideas and facts communicated by others who have had a larger experience.

⇒まとめもかねて、皆さんそれぞれで翻訳してみてください。

といいつつ、私は疲れたので最初の一文だけ翻訳(笑)



教育内容の第一の構成要素とは、現存する社会での暮らしに中味を与える意味である。






⇒今の英語教育、そして現在計画されている英語教育改革は、すべての国民の暮らしにどんな「意味」をもっているのだろう。









"Democracy and Education"読解のためのブログ記事の目次ページ
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