2008年5月12日月曜日

齋藤孝x梅田望夫『私塾のすすめ ─ここから創造が生まれる』 ちくま新書

齋藤氏と梅田氏の対話がどんどん進み、深まり、読者もその際の息づかいや声の調子まで想像できる対談集になっているように思います。梅田氏も今までになく素の感情を出しているのは齋藤氏というぴったりと波長の合う(しかしスタイルは違う)相手に恵まれたからでしょうか。梅田氏の対談本三冊の中では私はこの本が一番好きです。

両氏の馬が合ったのは、両氏がまったく同じものと戦っていることに気がついたからだと梅田氏は「おわりに」で述べます。


そこに存在するのは、「時代の変化」への鈍感さ、これまでの慣習や価値観を信じる「迷いのなさ」、社会構造が大きく変化することへの想像力の欠如、「未来は想像し得る」という希望の対極にある現実前提の安定志向、昨日と今日と明日は同じだと決めつける知的怠惰と無気力と諦め、若者に対する「出る杭は打つ」的な接し方・・・といったものだけ。これらの組み合わせがじつに強固な行動倫理となって多くの人々に定着し、現在の日本社会でまかり通る価値観を作り出している。「まったく同じもの」とは、人々のこうした行動倫理や価値観のことです。その結果、齋藤さんが言う「本気で変える意志というのをもっていない、もやーっとした感じ」、「達成が問われにくく、朦朧としている感じ」(111ページ)が日本社会全体を覆ってしまった。(204-205ページ)


私も同感です。

ただ、ある大学に勤める教員として私が一つつけ加えたいのは、この「まったく同じもの」は日本の中高年に見られるだけでなく、大学生にも見られるということです。

時代の変化への鈍感さ、想像力の欠如、親の金や奨学金によって安穏と暮らしている現状を疑わない姿勢、知的怠惰と無気力と諦め、「出る杭は冷やかす」ような同輩への接し方・・・その結果「もやーっとした感じ」は、現在、無視できないほど多くの学生の間に蔓延して、しかもそれが徐々に広がろうとしているという危機感を私は抱いています。

そういった若者に対して齋藤氏のように「みんな伸びる」(73ページ)という前提で接するのがやはり教育者としてのあるべき姿なのか、それとも梅田氏のように「全くやる気がないという人はどうにもならない」(84ページ)とクールに認める方が高等教育で学ぶ者や社会人に対してはむしろ親切であるのか。

「みんな伸びる」というのがこれまで一種の国是であった日本では、たとえ高等教育機関でも「教育者の有限のリソースはやる気を示す若者に注ぐ」と発想するのはタブーだったのでしょうか(それともこう考えるのは私が教育学部という特殊な環境にいるからでしょうか)。

「こちらがいろいろと働きかけても、全くやる気を示さない若者は取りあえず切り捨てる。そうして彼/彼女らには、周りの伸びる若者を目の前にさせたり、厳しい現実がひしひしと迫ってくることに気づかせる。それで少しでもやる気が出たら相手にする。何にも感じないなら丁寧に高等教育機関からお引き取りいただく」などという発想は、実は現実的で賢明で親切なやり方なのかと、私の気持ちは揺らいでいます。

中高年の方々はもとより、現状に不全感を抱いている若者に読んでもらいたい本です。

この新書を買う出費さえ「高い」と言う若者には、もう何も言いません。

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