2008年5月10日土曜日

「現代社会における英語教育の人間形成について」のためのノート 3/5

1.2 現代における人間をどのように考えるか

 国家/世界の対立に関しては、情報革命の後の現代では、地球が多様なコミュニケーションによって網のように結ばれている以上(ルーマン、ネグリ・ハート)、国家と世界の問題は切り離して考えられないことが言える。これは環境、経済、戦争といった国境をまたぐ問題によっても明らかであろう。

 個人/公共については、人間は複数性において人間であり得ること(アレント)、しかしその公共空間は、一人(あるいは少数)の人間によって設計されてはいけないこと(ハイエク)、私たちはコミュニケーションによって公共性を創り上げるのであり(ハーバマス)、そのコミュニケーションは合意よりも差異を前提とすべきであること(ルーマン)、さらにそのコミュニケーションは複数の言語の使い分け、使いこなしによって、柔軟に行われるべきであること(複言語主義)が明らかとなった。

 伝統/新しい文化については、グローバル化された社会においては、私たちは「国民」であるというより(法律によって「国民」とされない隣人は私たちの周りにすでにたくさんいる!)、様々に異なりながらも連なり合っている「マルチチュード」として、言い換えるなら「多にして一、一にして多」である「多様性において統合している」存在として考えられるべきであろう。マルチチュードにとって単一で固定的な伝統はない。あるのは様々な伝統であり、その様々な伝統が新たな文化に変容することだけである。

 日本においては、日本は「単一民族・単一言語」であるという言説が、事実との相違にもかかわらず、今なお強く生き残っている。発言の最近の一例としては、文部科学省初等中等教育局国際教育課の手塚善政氏が雑誌『英語展望』に示したものがある。ここで氏はこの見解を声高に主張しているのではなく、文章のつなぎのなかで短く触れているだけであるが、それだけにこの見解は氏のような人々に自明視されているとも考えられる。


「筆者は国際理解を深めるためには異なる文化・価値観の摩擦が大きな役割を果たすと考えている。しかし、同一民族・同一言語で構成される日本ではこのような異なる文化・価値観の摩擦を経験することが極めて少ない (p.29)。」
(手塚義正 (2007)「今後の英語教育と国際理解教育 21世紀の日本を見据えて」『英語展望』No.114 : 22-29.)


 このような言説が文部科学省の「国際教育課」から私的な意見としてにしても出される日本においては、「伝統」の強調には注意であろう。もちろん伝統の否定というのは、まったくに愚かなことであり、私たちはこれまでの履歴なくしては何事も果たし得ないことは忘れてはならない。


1.3 現代社会における英語教育の人間形成
 ここまでの論考から、現代社会における英語教育の人間形成についてまとめてみよう。

現代社会について

現代社会とは、多種多様なコミュニケーションの網の目が地球規模で広がっている社会である。このコミュニケーションが促進されることが現代社会の進化であり、コミュニケーションの網の目が次々に切断されるのが社会の破壊である。私たちは多種多様なコミュニケーションを促進しなければならない。

英語について
多種多様なコミュニケーションは、単一言語のみによっては達成できない。英語は全地球を覆い尽くしているわけでもないし、おそらくはそうなるべきでもない。仮に英語が今よりさらに普及するとしても、それは他の言語を抑圧排除する形でなく、他の言語によるコミュニケーションと英語コミュニケーションの差異を利用する形で、複言語主義的にコミュニケーションがより豊穣に進められることによってである。英語は世界にとっての唯一の言語ではない。また日本にとっての唯一の外国語ではない。日本においても英語教育は、日本語教育、他の外国語教育、地域言語、古典語、手話などの大きな言語教育の枠組みで進められるべきである。母国語としての日本語と「グローバル言語」としての英語が修得されれば言語教育は完結するのではない。日本において英語教育は、多種多様な言語への入り口への教育としてなされるべきである。様々な言語への入り口としての英語教育で、目標を「ネイティブの英語」と思い込み、学習者の英語使用と、他言語学習を抑圧することは反教育的とすら言える。言語教育はいつか完結、集結するものでなく、生涯を通じて広がり深まり続けるものであると認識することが重要である。

人間形成について
人間は知性的で理性的な存在であるが、誰も一人の知性と理性だけでは十分でない。むしろ理性と知性が孤立した場合の危険性をテクノロジーに満ちた現代人は自覚するべきであろう。人は、他の異なる人々と共に複数で存在し、かつその複数の他者とコミュニケーションで接続できる限りにおいて人間になりうる。そこでは合意は目指されるが前提とはされない。前提とされるのは差異であり、差異に促されるコミュニケーションは終結地点(end)を持たない。多種多様な他者とコミュニケーションを接続でき、その度毎に新たな自分と他者を見出し、社会を更新できることが現代社会の人間形成とはいえまいか。もちろんコミュニケーションにも銃弾と爆弾の応酬という最悪の形から、非暴力的な言語コミュニケーション、さらには創造的・創発的なコミュニケーションという優れた形の様々なものがある。コミュニケーションは「よりよい」ものを目指さなければならない(とはいえこの「よりよい」という概念にも私たち一人一人は、それぞれに入り込み、私たちはこの概念においても合意よりも差異を期待するべきなのではあるが)。孤立せずに、複数の他者との間で、理性的であり知性的であり、「よく」あろうとすることができるコミュニケーションを図れる人間が私たちの目指すべき人間形成だと私は考える。


現代社会における英語教育の人間形成について
現代社会における英語教育の人間形成とは、地球規模で広がる多種多様なコミュニケーションの網の目をより密にするために、その手段の一つとして英語を、他の様々の言語や媒体と共々に使い分け、自らと他者の差異を前提として、よりよい社会を目指して、自分の立場から自分なりにコミュニケーションを続けることができる人間を育てることである。

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