柄谷から始まったこれの系譜はある一点で共通しています。それは彼/彼女らがマルクスに根源的な影響を受けているということです。マルクスを理解せずに、彼/彼女らを理解することは不可能かもしれません。しかし私はマルクスに関してきちんとした勉強をせずにここまでやってきました。
私が大学に入った1982年当時は、かろうじて「大学生なら『資本論』ぐらい読んでおこう」という空気が残っておりました。しかし私も他の学生と同じく第一巻の始めあたりで挫折しました。その後、廣松渉先生の著作を読む度にマルクスは気になっていましたが、80年代の妙な明るさは、私からマルクスを遠ざけました。89年のベルリンの壁崩壊や91年ソビエト連邦の解体に私も他の人々同様、何が起こったのだろうと、うろたえるだけでした。90年代前半、私たちは「平成不況」という言葉で現実認識を誤魔化していました。95年の阪神・淡路大震災、オウム真理教事件、96年の薬害エイズ事件、97年の神戸連続児童殺傷事件、98年の山一證券の自主廃業、大蔵官僚のノーパンしゃぶしゃぶ接待、等の一連の出来事で、私たちは日本の何かが根本的に変わってしまったように思いましたが、その正体はわからずじまいでした。やがて2001年に「自民党をぶっ壊す」と小泉内閣が誕生し、その流れは堀江貴文氏、竹中平蔵氏といった「時代の寵児」を生み出しました。小泉氏の退陣後の安倍内閣は教育基本法および「教育改革関連三法」の改正、「国民投票法」の成立など矢継ぎ早に法律を通過させましたが、07年の参議院選挙惨敗を経て、安倍氏は急に失速したように辞任し、福田内閣の誕生へとつながり、現在に至っています。
そうしてある意味、落ち着いてきたら、私たちが日本に見出したのは、「格差社会」の到来でした。戦前の経済や文化、そして政治の状況が急にリアリティを持ち始めました。小林多喜二の『蟹工船』が売れているというニュースさえ聞かれるようになりました。
かくして人々は「そうだ、マルクスは何と言っていたのだろう」とマルクスのことを思い出しました。
私にしても無論、教条的な「マルクス主義」なるものを信奉したくて興味を持ち始めたのではありません。ソビエトや北朝鮮、あるいは中国を崇拝したくて勉強したくなったというのでもありません。ただ人類の偉大なる知的遺産の一つとしてのマルクスの考え方をクールに学んでおきたいと思うようになったのです。マルクスは上に述べた私の知的関心からも、現在に私が感じている時代の閉塞感からもとても重要な人物に思えてきたのです。
そのような中、本屋で偶然に見つけたのが的場昭弘先生の『超訳「資本論」』(祥伝社新書)でした。的場先生のことを全く知らず、「超訳」というタイトルの言葉に違和感を感じ、おそるおそる手にした同書でしたが、「はしがき」から的場先生の言葉は私をとらえ、私は同書を購入し、出張先のホテルで一気に面白く読み終えました。
その後、別の本屋で同じく的場先生による『マルクスを再読する -- <帝国>とどう闘うか』(五月書房)を見つけたのでこれも買い、これまたその晩に一気に読みました。
面白い。マルクスの思想は、一度それなりにきちんと学んでおく必要があると思いました。私はこれら二つの本を皮切りに、少しずつ余暇の時間にマルクスを学んでおこうと思います(特に『資本論』は丁寧に論理を追っておきたいと思いました)。そうして一時代前の「マルクス主義」に復古的に同調するのではなく、現代を「マルクス的に考えるなら、どうとらえられるだろう」という自分の知的枠組みの一つとして使いこなせるようになりたいとも思いました。安易な言葉で言うならマルクスの哲学を批判的に継承したいということです(我ながら青臭いこと言うなぁ 苦笑)。
以下、『マルクスを再読する -- <帝国>とどう闘うか』から印象的だった箇所を何カ所か引用します。
私は [ ソ連は ] 端的に国家資本主義であり、それも労働者国家の形態を採った国家独占資本主義の究極の形態であったと考えています。
独占資本主義が国家と癒着したのが国家独占資本主義ですが、共産党を中心とする支配階級が国有企業のオーナーとして、搾取と収奪を国家を通じて、労働者国家の名の下に行うのですから、国家独占資本主義を最も効率的に機能させたのと同じだと思います(116-117ページ)
所有が私的であるか、公的であるかは、所有する主体の問題です。所有する主体が、たとえ全国民であろうともそれが私的な要素をもっていれば、それは私的所有ということになります。逆に私的要素がなければ、私的な所有でも公的になります。(134ページ)
収奪される労働者にブルジョア的要求を実現できる可能性はない。実は資本主義のほうが大所有によって個人的所有を制限している。これは所有の収奪と言えば言えないことはない。だからマルクスはここでパラドックスを展開する。
共産主義者は所有を廃止していると言っているが、実は所有をさせないのはブルジョアのほうなんだ。むしろ逆に共産主義こそ所有を与えると。事実そうなんです。共産主義は資本家たちによってとことん零落していったプロレタリアートを解放して、プロレタリアートにそれなりの生活を保障する。プロレタリアートに実は所有を与えるのです。所有を奪うことはない。
ただしこれは資本主義のような排他的所有ではない。むしろ集団的所有なんですね。この集団的所有というのは、アソシエーションという言葉です。だから所有概念が変わる。そう意味では所有は実現しますが、内容が変わる。(212ページ:強調は引用者)
アソシエーション運動は、労働者たちが自分たちの賃金を上げることだけに熱心になるのではなくて、自分たちの企業を自治すること、社会を運営する運動です。(198ページ)
この文章 [ =フォイエルバッハ11番目のテーゼ:哲学者たちは世界をさまざまに解釈しただけであるが、重要なことは世界を変革することである(岩波文庫訳『ドイツ・イデオロギー』240ページ ] は二つに分かれているのではありません。哲学者の解釈と変革は一つの行為として続いているわけです。つまりこうです。「哲学者は世界を解釈するだけで、解釈しえたと思ってきたが、それは間違いである。哲学者が解釈したと言えるとすれば、それは哲学者が世界を変革するという実践的行為を行ったときである。だから哲学者は実践的変革をすることによって世界をよりよく解釈できるはずである」と。(152ページ)
マルクス思想の根本には労働に通じた共同の概念があります。これは、もちろん労働に尽きるものではありません。消費に至るまで共同であるという原則があります。ここでは人間が類として考えられているからです。類としての動物は、進化論的自然淘汰の洗礼を受けますが、これはけっして過当競争による類の消滅を意図していない。むしろ利己的な遺伝子が、逆に類を発展させるために個人という個体に競争を強いているのであって、逆ではないのです。
マルクスの思想には、人間集団を一つとして考え、そこに所属する一人一人の能力の差を認めながら、それを排除しないで包括する論理がある。秀でた個人がいてもよい。無能な人がいてもよい。もちろん秀でた人が得をするでしょう。しかし、優れた人はそうでない人を救うようにできている。その共同体では再配分ができている。(328ページ)
「現代は高度資本主義社会だ」と私もよく言います。しかし突き詰めて考えれば「資本主義」とは何なのか。さらには「所有」とは何なのか、「私的」とは、「公的」とは何なのか?私がネットの知的資産を活用し、自分でも少しでもこのネットの豊かさを増すように努力し、同時に「著作権」とは何であり、どうあるべきかなどということを考えていると、こういった概念の再精査は現実的に非常に重要なことであるように思えます。
また私は教育という公的性格の強い業種に属し、さらには独立法人化したとはいえ一応「国立」の機関に勤めています。ですから、私という職業人は教育をどのように考えるべきなのか、「国立」大学は、個々人に知識を結局は排他的に所有させることを目指しているのか、それとも社会に知識が普及しそれが豊かに相互作用を引き起こせるような状態を作り出そうとしているのか、といったことも私の毎日にとって、重要な問いかけとなります。
「格差社会」において私たちがなすべきことは、いかに「負け組」の人々に「勝ち組」にはい上がる方法を教えることなのか。それとも「勝ち組/負け組」とは異なる枠組みで社会を考えることを学ぶことなのか。
「知行合一」という陽明学の知恵は、現代の知識人にきちんと理解されているのか。
私はアレントやハイエクに影響され個人という単位を重視していますが、それでも大きなレベルで言えば地球規模の環境破壊から、小さなレベルで言えば家庭での老人介護のことなどを考えるならば、個人という単位で物事を考え続けることは合理的なことなのか、それともイデオロギーなのか。私たちには個人という概念も類という概念も同時に必要なのではないか・・・
マルクスを通じて、いろいろな問いかけが生まれてきそうです。
内田樹氏も最近のエッセイでマルクスについて触れ、「マルクスは私たちの思考に『キックを入れる』」と評しています。
「そういえば、こんな話を思い出した」
マルクスを読んでいるうちに、私たちはいろいろな話を思い出す。
それを読んだことがきっかけになって、私たちが「生まれてはじめて思い出した話」を思い出すような書物は繰り返し読まれるに値する。
マルクスはそのような稀有のテクストの書き手である。
http://blog.tatsuru.com/2008/05/23_1649.php
稀有のテクスト、すなわち古典に学ぶことにより、現代を考え直すことは、古今東西において正統な学びとされているかと思います。人類の古典の一つとしてのマルクスの作品に学びたいと思います。
⇒的場昭弘『超訳「資本論」』(祥伝社新書)
⇒的場昭弘『マルクスを再読する -- <帝国>とどう闘うか』(五月書房)
7 件のコメント:
質的な英語を考えたものです。知行合一で検索しました。ヘーゲルの概念理解から、知行合一を考えることができると思います。知とは例えば道徳的な理念や認識だと考えます。これは行為との関係で言うと普遍です、また行為をも知の一部だと考えると行為は特殊になります。だから全面的な知識とは認識と実践の統一です。逆に認識は認識行為でもあるとすればそれは普遍的な行為であると考える。これは基礎と応用、理論と実践にも言えることで、実践だけ、あるいは知識だけを学ばせるような教育は一面的な教育に終わると考えられる。また哲学に関しても哲学的な知を蓄えるだけではいつまでも一面的な知に留まることになる。
続きです。知行合一は老子の弱さと強さの話とつながるかもしれません。
水のような柔らかいものが、硬い強いものに勝るというのです。
この水と硬いもの、は液体と固体の関係にあると思います。だから
弱さと強さは普遍と特殊の関係にあり弱さの中に強さがあると考えられます。
聖書にも弱さの中に神の力が宿るとありますね。この弱いものが柔軟に硬い強いもの
にあわせて形を変えることで強いものに打ち勝つ 可能性 があるのです。
理論と切り離された実践は、ほんとうに一部の状況にしか適合できず、
理論のみでは何もできないが、理論の中に実践があれば、ある実践に適合しながら理論を
通して別の実践へも開いています。これが弱さと強さの統一だと考えます
全ての能力を鍛えるにはどうすればよいかを考えてみます。
まだ未熟な部分もありますが、はじめます。
まず、個々の能力は別の領域に応用できるという点で
特殊な能力です。たとえばタイピング能力を身に着けると
ピアノ演奏に指使いが生かせると思います。
能力の基礎が身体にあるとすると、身体の各部分を使う能力を全身ぶんだけ
一つ一つ身に着けると、その人は身に着けた能力だけでなく、他の全ての体を使う
能力に関する才能を身につけたことになる。
具体例としてはシュタイナーは身体を三つにわける。頭部と胸部に四肢である。
この三つに対応する楽器がある。頭部は管楽器、胸部は弦楽器、四肢は打楽器である。
なのでこの三つの楽器をある程度マスターした人は、身体を使う全ての能力の才能をも
蓄えたことになると考えられる。だから特定の領域に全人間を見出してそれらをマスター
することで知らずに全方位の能力に向かって努力していたことになる
実践の過程を考えてみました。
それは目的を原因とした人間はどう動くのかの考察です
それを料理つくりの考察から始めてみます
この考察により、論理的なものがなさそうに見える料理の過程
からも論理的なものがあると思えるかもしれません。
味噌汁を作るという目的を持つ。そこで①材料を並べて、包丁で一個の材料の結びつき
を分離する、②その間に鍋と水を結びつけて、その結びついた鍋をコンロと結びつけておく
③この二つを①の結果を②の鍋の中に入れるという形で①と②を結びつける。
ここから見出せる論理は、まず人間を含む外界の内容は互いに個別的であるということ。
ここに個別的なものを結びつけた完成図である目的概念が現れる。これにより、その
目的概念の中で、一つの個別と一つの個別を結びつけたり分離したりして、それを
さらに別の個別と個別が結びついたものと結びつける。 結びつきとは関係である。
こうして最後には互いに外的でありながらまるで一つに結びついたものが完成する。
言語をこれで考えると、思考するという目的により
個々の文字が意味によって結びつけられて単語になり、個々の単語が結び付けられて
一つの文になると考えられる。
人間の計画とその実行についてもこれが成り立つかはまだ考えていません
少なくとも移動目的ならこの結びつきの論理が適応できるかもしれません
バイクにのってある家にまで行こうとする。
まずバイクと自分を結びつける。今度はその空間と自分とバイクとの関係を分離して、
自分とバイクを目的地に結びつける等 移動に関することなので戦争の論理の一部として
応用が利くかもしれませんね
ちなみに結びつこうとしたり分離しようとしたりする「関係の変化」は「動き」により実行されます
目的概念は世界の個々のものを結びつける。
これは車の各部分の部品が結び付けられて一つの機能を有する全体となり、
そのパーツと別のパーツを車の骨格に結び付けて完成するとか
プラモデルの肩のパーツを完成させ、足のパーツを完成させ、
それを骨格に結び付けて完成させるというようなイメージができる。人々がある地点に集まり乗り物に乗り、目的の場所に移動し、それと同時に別の地点に集まった人が乗り物に乗り目的の場所に移動するという集団動作も目的概念の中で互いに結び付けられる
教育において全人を育成するという目的を抱くと、時空の中にあるどんな対象と生徒を結びつけて経験させるかが問題になる。
それは人間の本質的な構成要素の各部分を一つ一つ育成できるような計画だろう
それをシュタイナー教育は実践しているように思われる
長々とすみません。
今日はこれで最後にします
対象と生徒との結びつきによる経験の繰り返しにより、
同じ分野の個々の経験が記憶の中で一つに結び合わされて本質が取り出され
能力になると考えておきます。つまり個々の経験に共通する本質的要素、
すなわち経験における普遍を取り出したということでしょう
この経験における普遍が基礎となり実生活に応用されるのでしょう
そしていろんな分野の経験を積むことで能力は複数になります
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