2016年10月11日火曜日

アレント『暗い時代の人々』より -- 特に人格や意味や物語について--


以下は、11月26日(土)に明海大学浦安キャンパスで行われます「第19回応用言語学セミナー 応用言語学を考える」に登壇するための基礎資料の一つとして作成したものです。


明海大学 応用言語学セミナー



セミナーにご参加希望の方は、プログラムをご覧の上、11月18日までに同セミナー運営委員会まで申込のメールを送ってください。


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以下は、Hannah Arendt (1968) Men In DarkTimes (Florida: Harcourt Brace & Company) の一部の抜粋、およびその部分の私なりの翻訳と解説です。この本は『暗い時代の人々』として2005年にちくま学芸文庫から阿部齊氏のすばらしい翻訳で出版されています。私はこの翻訳本を大いに参考にしましたが、下の翻訳は私が自分自身のための勉強も兼ねて訳出したものです。

 私はこの本の重要性を、対馬美千子氏の『ハンナ・アーレント 世界との和解のこころみ』から学びました(この本は素晴らしい本でした)。『暗い時代の人々』とは、いかにも陰鬱な題名なので、私はそれをいいことに不勉強のままでいましたが、この本は「暗い時代」 --その定義はで出てきます-- の中で希望の灯火を掲げた人についてアレントが語った本です。読んでいて希望の出る本でした。

人物の具体的な記述には、アレントが『活動的生』(『人間の条件』)で展開した理論の柱があります。また、短い説明ではありますが、意味や物語についてもとても深い洞察を語っているように思えましたので、このまとめを作成しました。

以下、「暗い時代」、最終的な答えの不在という喜び、主観性と人格の違い、行為の意味、意味を定義することと物語の中で明らかにすること、の五つの点についてまとめます。特に最後の三点は、言語教育を考える上で非常に重要な論点かと私は考えています。




■ 「暗い時代」とは、公共性が失われた時代である

・原文
History knows many periods of dark times in which the public realm has been obscured and the world become so dubious that people have ceased to ask any more of politics than that it show due consideration for their vital interests and personal liberty. (p.11邦訳は26頁を参照)

・拙訳
暗い時代は歴史の中で何度も登場した。そういった時代においては、公共的な領域が不明確になり、世界が疑わしくなり、人々は自分たちが生きるための利益と個人的な自由以上のことを政治に求めることがなくなってしまった。

・解説
1980年代以降の新自由主義の隆盛に伴い、 “privatization”がさまざまな領域で進行している。このことばはしばしば「民営化」と訳されているが、「私事化」と訳すべき場合も多い。教育の“privatization”とは、教育を社会全体のための公共的な営みと考えることを止め、個々人とその家庭が「私事」(わたくしごと)として行うことだと考えることだ。そういった教育の私事化が、格差の解消ではなく拡大へと向かい、社会全体の幸福感や安心感、ひいてはそういった感情に基づいた成熟を損ねると私は考える。そういった私事化が進行している現在も、「暗い時代」の一つだと言えるだろう。

・訳注
特になし。ただ、この箇所の “personal” は、ほぼ “individual”と同義として訳した。その語に続く “liberty” は「規制緩和」とも訳そうかとも思ったが、とりあえず「自由」といった穏健な訳語にとどめておいた。




■ 最終的な答えが出ないことは、人間世界においては喜ぶべきことである。

・原文
Lessing’s greatness does not merely consist in a theoretical insight that there cannot be one single truth within the human world but in his gladness that it does not exist and that, therefore, the unending discourse among men will never cease so long as there are men at all. (p.27 邦訳は50頁を参照)

・拙訳
レッシングの偉大さは、人間の世界においては唯一の真理というのはありえないのだということを単に理論的に洞察しただけでなく、唯一の真理が不在であるがゆえに、人間がいる限り、果てしない語り合いが止むことは決してないことを喜んだことにある。

・解説
最近は目標管理の合理主義が信奉され、話し合いにおいても何らかの結論が、しかもできるだけ迅速に出されることが求められるが、複合性に充ちたこの世界の何らかの対象において、唯一の正解が出されることはほとんどない(というより、ある見解が、唯一の正解と称されるようになった時の危険性を私たちはいいかげんに知るべきであろう)。そうなると、私たちの語り合いには、暫定的な決がとられることはあっても、最終的な結論が出ることはなく、私たちの語り合いは果てしなく続く。だがそれは次々と新たな観点や視点からの見解が共有されるということであり、それは人間世界にとっては喜ばしいことである(もしあなたが独裁的な人物でないならばの話だが)。

・訳注
ここの “discourse”も、他の箇所の “speech”同様、一人で生み出すものではないと考えて「語り合い」と訳したが、それだと“discourse” “speech” の差異を訳出できていないので、この訳語については必ずしも満足していない。




■ 主観性と人格は異なる。主観性は主観によって対象化できるものであるが、人格は公共的空間の中でのみ現れ、主観が把握も制御もできないものである。この人格こそを古代ローマ人もカントもヤスパースも讃えた。

・原文
The personal element is beyond the control of the subject and is therefore the precise opposite of mere subjectivity. But it is that very subjectivity that is “objectively” much easier to grasp and much more readily at the disposal of the subject. (By self-control, for example, we mean simply that we are able to lay hold of this purely subjective element in ourselves in order to use it as we like.)
Personality is an entirely different matter. It is very hard to grasp and perhaps most closely resembles the Greek daimon, the guardian spirit which accompanies every man throughout his life, but is always only looking over his shoulder, with the result that it is more easily recognized by everyone a man meets that by himself. This daimon -- which has nothing demonic about it -- this personal element in a man, can only appear where a public space exists; that is the deeper significance of the public realm, which extends far beyond what we ordinarily mean by political life. To the extent that this public space is also a spiritual realm, there is manifest in it what the Romans called humanitas. By that they meant something that was the very height of humanness because it was valid without being objective. It is precisely what Kant and then Jaspers mean by Humanität, the valid personality which, once acquired, never leaves a man, even though all other gifts of body and mind may succumb to the destructiveness of time. Humanitas is never acquired in solitude and very by giving one’s work to the public. It can be achieved only by one who has thrown his life and his person into the “venture into the public realm” -- in the course of which he risks revealing something which is not “subjective” and which for that very reason he can neither recognize nor control. Thus the “venture into the public realm,” in which humanitas is acquired, becomes a gift to mankind. (pp.73-74. 邦訳は118頁を参照)

・拙訳
人格的な要素を主観は管理できない。したがって、人格的要素は単なる主観性の対極にある。しかし、「客観的(対象的)」に把握しやすく主観の思い通りにしやすいのは、[人格的要素ではなく]まさにその主観性なのである。(例えば、自制ということばによって私たちが意味しているのは、私たちは、自分自身の中のこの純粋に主観的な要素を思い通りに利用するため掌握することである)。
人格は[そのような主観性とは]まったく異なる。自分の人格を把握することはまことに困難であり、人格はおそらくは古代ギリシャ語の「ダイモン」にもっとも近いものといえるかもしれない。「ダイモン」とは生涯を通じて人に寄り添う守護神であるが、それは常にその人の肩越しに物を見ているので、それに気づくのはその人自身であるよりはその人に出会う人々の方である。この「ダイモン」--ちなみにここに悪魔的な要素はまったくない--という人間の人格的要素は、公共的空間が存在する限りにおいて現れてくる。これが公共的領域の深い意義であり、これは通常私たちが政治的生活ということばで意味している意義よりも深い。この公共的空間が精神的領域である限りにおいて、ここには古代ローマ人が「フマニタス」と呼んだものが現れている。「フマニタス」ということばで古代ローマ人は人間であることの高みを意味したのだが、それは「フマニタス」こそは客観的(対象的)でないにもかかわらず確かなものであるからだ。「フマニタス」は、カントやヤスパースの言う「フマニテート」そのものである。人の身体と精神に与えられた賜物は時と共に破壊され消滅されるが、「フマニタス」は一度獲得されたら、二度とその人から離れることのない確かな人格である。「フマニタス」は人が孤立した状態で獲得されることはないし、人が公共空間の人々に自らの作品を差し出すことによって獲得されることもない。「フマニタス」を獲得できるのは、自らの人生と人格を「公共的領域での冒険」に差し出した者だけである。その者はその冒険の中で、「主観的」でないがゆえに自らは認識も制御もできない何か[つまりは人格]を露わにしてしまうという賭けをしなければならない。だからこそ「フマニタス」が獲得される「公共的領域での冒険」は、人類にとっての賜物となるのである。

・解説
主観性-神経科学のダマシオの言い方を借りるなら、その人が自覚・意識できている自分の感情は、その自覚・意識において対象化(客観化)されているものであり、その限りにおいてその人が把握し制御をすることもできる。それに対して、人格とは、その人よりもその人を見る周りの人々の方が認識できるものであり、それは公共的空間が存在する限りにおいて現れてくるものである。これを古代ローマ人は「フマニタス」と呼んだが、これは物体のように対象化できるものでないにもかかわらず、人々にとっては確かに存在するものであり、それはその人自身の死によっても消えることがない。人格は、ある者が自分の人生をかけて「公共的領域での冒険」を行うことにより始めて露わになる。この冒険は一種の賭けであるが、それだけにその賭けから優れた人格が現れてきた場合には、それは人類全体にとっての賜物となる。

・訳注
ここでの "person(al)" には一貫して「人格(的)」という訳語を充てた。 "Objective"には「客観的」以外にも「対象的」という訳語を補ったが、さらに「物体的」という訳語を補うことも可能だったかもしれない。"Public realm""public space"にはそれぞれ「公共的領域」と「公共的空間」という訳語を充てたが、これら二つの違いについては今後の勉強が必要である。




■ ある行為の意味は、物語として繰り返し語られることにより明らかになる。

・原文
The tragic impact of this repetition in lamentation affects one of the key elements of all action; it establishes its meaning and that permanent significance which then enters into history. In contradistinction to other elements peculiar to action -- above all to the preconceived goals, the impelling motives, and the guiding principles, all of which become visible in the course of action -- the meaning of a committed act is revealed only when the action itself has come to an end and become a story susceptible to narration. Insofar as any “mastering” of the past is possible, it consists in relating what has happened; but such narration, too, which shapes history, solves no problems and assuages no suffering; it does not master anything once and for all. Rather, as long as the meaning of the events remains alive -- and this meaning can persist for very long periods of time -- “mastering of the past” can take the form of ever-recurrent narration. The poet in a very general sense and the historian in a very special sense have the task of setting this process of narration in motion and of involving us in it. And we who for the most part are neither poets nor historians are familiar with the nature of this process from our own experience with life, for we too have the need to recall the significant events in our own lives by relating them to ourselves and others. Thus we are constantly preparing the way for “poetry,” in the broadest sense, as a human potentiality; we are, so to speak, constantly expecting it to erupt in some human being. (p.21邦訳は41頁を参照)

・拙訳
このように[詩によって]嘆きを繰り返すことの悲劇的な力は、あらゆる行為に共通する一つの重要な要素に影響を与える。この繰り返しにより、行為の意味が確かなものになり、歴史に組み込まれる行為の永遠の意義も確かなものになるのだ。行為に特有のその他の要素 --とりわけ予め想定された目標や、人々を動かす誘因や、導く原則などのように、行為の中で可視化されるもの--と異なり、なされた行いの意味は、行為そのものが終息し、語られうる物語となった時にのみ明らかになる。何らかの形での過去の「克服」が可能である限りにおいての話だが、過去の「克服」とは、起こった事々を関係づけることである。そのような語りは同時に歴史を形成するものの、その語りが問題を解決することも苦しみを静めることもない。過去の「克服」とは一度に一気になされるものではない。そうではなく、出来事の意味が生きている限り --そしてこの意味は非常に長い間その命を保つものである-- 「過去の克服」は何度も繰り返される語りの形を取る。非常に広義の詩人と、非常に狭義の歴史家は、この語りの過程を作動させ私たちをそれに組み込むという課題を担っている。そしてたいていの場合は詩人でも歴史家でもない私たちでも、自分の人生経験からこの過程のことをよく知っている。私たちも、人生の中での意義ある出来事を自分自身と他人とに関係づけることによって想起する必要を感じているからだ。かくして私たちは常に、人間の可能性の一つとしての、もっとも広義の「詩」を作ろうとしている。私たちはいわば、詩が人間存在の中のどこかから噴出することを常に待ち望んでいるのだ。

・解釈
 詩は繰り返し語られることにより、ある出来事の意味を確かなものにしている。私たちの行為にしても、その行為に関する目標や誘因や原則などは、時には行為が始まる以前に明示されるが、その行為の意味は、その行為が終わりを告げて出来事となってから、その出来事について私たちが語り始めてからようやく明らかになり始める。
 意味とは、私たちとは独立して存在する固定的な対象として捉えるべきものではなく、私たちの語り合いの過程の中に生じる出来事として捉えるべきかもしれない。私たちが何かについて語り合う限りにおいて、その何かは意味を(さまざまに変化しながらも)保ち続ける。私たちが何かについて語り合いを止めた時、その何かは意味を失う。
 行為や出来事の意味は、語りが続く限りその生命をもつし、逆に、意味に生命がある限り私たちはその行為や出来事について語り続ける。こうやって私たちは過去に意味を与え過去と和解するが、これこそは広義の詩人の仕事であり、私たちは一人ひとりがそれぞれの人生でそのような詩人としての仕事をしている。

・訳注
“Act” “action” は、それぞれ「行い」、「行為」と訳した。 “Human being” は抽象的意味をもたせた表現ではないかと解釈し「人間存在」と訳した。




■ 意味は定義されるものではなく、物語を語ることによって明らかにされるもの

・原文
It is true that storytelling reveals meaning without committing the error of defining it. (p.105 邦訳は168頁を参照)

・拙訳
物語を語ることによって、私たちは意味を定義するという過ちを犯さずに意味を明らかにすることができる。

・解釈
 私たちは何かの意味を定義できるものと考えがちだが、そもそも意味を定義できると考えること自体が間違いではないのか。何かの意味は、それについて私たちが語る限りにおいて明らかになるものではないか。意味は、私たちの語り合いに伴い存在するものである。
 ルーマンは、意味を意識(心理的システム)とコミュニケーション(社会的システム)の素材あるいは要素だとし、それは現れては消える出来事であると述べたが、その意味概念とこの意味概念も通底しているように思える。

・訳注
“Reveal” をここでは「明らかにする」と訳しているが、上では「露わにする」と訳している場合もある。



まとめは以上です。もっときちんとアレントを読まなければと思わされました。





 


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