2018年12月19日水曜日

当事者研究のファシリテーター役をやってみての反省



 英語教師志望者による当事者研究を促進するため、先日私は、ファシリテーターとして当事者研究に参加し、その様子を学生さんに見てもらいました。当事者研究のあり方を具体的に理解してもらうことが目的でした。ですが、自分自身で振り返ってみたり、学生さんからのフィードバックを受けてみたりすると、今回はあるべき当事者研究の姿から少し離れた当事者研究になっていたように思えます。昨年度の私は問題を抱える当事者として当事者研究に参加しましたが、その経験と比較すると、私にとってはファシリテーターである方が、自分の弱みを公開するよりもはるかに難しいことでした。

 以下、このような失敗を繰り返さないために、研究・当事者の主体性・物理的条件・パフォーマンス・エゴ・複数性という6つの視点から分析的に反省したいと思います。


(1) 研究

 私が今回ファシリテーターとして参加するにあたって、一番気にしていたのが、語り合いを「研究」にしなければならない、ということでした。私はこれまで学生さんとの個人面談をおそらく数百回行い、実際、先日も当事者研究を行う前にある人との個人面談を行っていました。特にその個人面談では、問題が大きかったため、私はその問題の様子を共感的に聞くことがほとんどでした。一つ二つは、「もし問題が悪化した場合は○○の方法を取ることも考えた方がよいかもしれない」といった助言はしましたが、基本的には共感的傾聴を行い、それが他の個人面談でも原則となっていると私は考えています。(ここでは詳細は割愛しますが、私も以前は助言が多かったのですが、ある時期を境に聞くことの方が多くなりました)。

 ですから私は個人面談についてはある程度の経験をもっています。しかし、私の認識では、個人面談と(当事者)研究は異なります。今書きながら洞察を得たのですが、研究に関する私の信念は、「ある明確な理解を得なければならない」、「そのためにはさまざまな仮説を次々に出して、それを一つ一つ検討することが有効である」といったもののようです。そのため、私は今回の当事者研究でファシリテーターとして次々に「それはこういうことだろうか?」、「一般的にはこのようなケースがよくあるが、それが当てはまるとは言えないだろうか?」、「この解釈はどうだろうか」といった仮説を提示しました。

 最終的にはそのように私が仮説的に提示した「病名」が問題を抱える当事者にもそれなりに受け入れられましたが、後の振り返りでは、当事者から「あまりに多くの仮説を出されて、それが外れていると、『この人は自分の話を聞いてくれていないのではないか』とすら思えてきた」という指摘がありました。これは今回の私の試みでもっとも反省すべき点だと思います。

 当事者研究は「研究」とはいえ、合理的に仮説生成・検証を繰り返すばかりの営みではないでしょう。当事者研究において重要なのは、ファシリテーターや聞き手が「仲間」になること、つまり、当事者の主観をしっかりと受け入れて、自分が本来は無力であるという謙虚な態度になることだと考えます。

 これは私が前の週に説明しただけでなく、先日の当事者研究の直前にも述べていたことでしたが、私は今回それを十分に体現できていなかったことになります。

 言い訳めいたことを述べるなら、私が日頃一人で行っている「研究」の習慣が、無意識のうちに当事者研究にも過剰に入り込んでいたのかもしれません。しかし当事者研究は、何らかの苦しみを抱えている「当事者」と共に行う営みですから、私は当事者の苦しみや気持ちにもっとよりそうべきだったのかもしれません。

 実は、当事者研究の最初に、当事者からの問題が提示されたとき、私の中では、(a) 当事者の「苦しい」というのはどのような状況であるかをもっと聞き出そうかという選択肢と、(b) 当事者のこの問題と類比的(アナロジカル)であるはずの別の問題との対比から考えてみるという選択肢の二つが私の心の中に去来していました。私は主知的に (b) を選びましたが、それが今回の当事者研究の流れを大きく決めてしまったのかもしれません。もっと情感的な (a) を選んでいたら多少は流れも変わっていたのかもしれません。

 ここで改めて向谷地生良先生による当事者研究のまとめを読み直すと、私の「研究」の理解が原因追求の方に傾き、問題への対処の方に向いていないことに気づきました。


当事者研究とは-当事者研究の理念と構成- (向谷地生良)


 これを読み返してみると、当事者研究とは「ジレンマや葛藤を、自分の”大切な苦労”と捉える」ものであり「自分らしいユニークな発想で、その人に合った“自助-自分の助け方”や理解を創造していくプロセスを重んじ」、当事者が「「苦労の主人公」になること」を大切にしているといった表現が改めて目に入ってきます。どんな当事者も「自分の専門家」であるから、他の人間はむやみにその人から苦労を奪ってしまってはいけない(それはその人からその人の人生を奪うことなのかもしれない)とも思えてきます。向谷地先生は、当事者研究の最大のポイントは「当事者自身が、自らのかかえるさまざまな生きづらさに対して、周囲の過剰な保護や管理から脱して、自律的、研究的に担い、対処をしていこうとする前向きな動機を育て、持ち続けることにある」とも言います。

 そんな向谷地先生は、当事者研究の進め方を5段階にまとめています。私なりに言い換えますと次のようになります。


(a) 「問題」の理解:繰り返し生じる出来事のパターンを記述し、そこで起きている「問題」の意味(そのことが示しているかもしれない可能性)を探る。

(b) 従来の対処法の確認:これまで自分がその「問題」にどのように対処してきたかを確認する。

(c) 従来の対処法の評価:従来の対処法に満足しているかを確かめ、満足していなければ次のステップに進む。

(d) 新たな対処法の創造:新たな対処法を具体的に考案し、必要な場合はその練習をしてみる。

(e) 新たな対処法の検討:新たな対処法にも満足ゆかなければ、(a) に戻る。


図示したら次のようになりましょうか。



 こうしてまとめてみると、当事者研究とはきわめて実際的な研究であり、根本原因の究明などよりも、まずは自分をどうやって助けるかを考案する実務的な研究であるように思えます。ある意味、ブッダの「毒矢のたとえ」を思い起こさせます。


 例えば、ある人が毒矢に射られたとしよう。その人の友人や家族は医者に見せて早く矢を抜き取ろうとする。しかしその本人が『矢を射た人はどんな身分か、何という名前か、どういう苗字か、背が高いか低いか中くらいか、肌は何色か、どこに住んでいるのか、それが分からないうちは矢を抜くな』と言ったらどうなるか。

あるいは、『どんな弓か、弦は何でできているのか、矢はどんなもので付いている羽はどの鳥の羽か、それが分からないうちはこの矢を抜かない』と言ったなら、どうなると思うか。その人はそれを知らないうちに死んでしまうだろう。
http://www.mahayogi.org/tokyo/yoga/cula-malunkyaputta-sutta/


 かといって、当事者研究は、単なる問題解決だけを目指しているわけでもありません。(a) における「問題」の意味の理解が重要です。すなわち、世間的には「困った」とされる「問題」が当事者に提示しているかもしれない潜在的な可能性を探究することが当事者研究を、他の問題解決モデルとは異なるものにしていると思われます。

 ずいぶん長くなりました。次のポイントに移りましょう。


(2) 当事者の主体性

 上には私が自分の個人研究スタイルを当事者研究に持ち込んでしまったことについて書きましたが、さらに私が反省すべきことを新たに第二点としてまとめますなら、私は、次々に仮説を出すことで、当事者の主体性を奪ってしまっていたのかもしれません。(内容は少し上とかぶってしまうところもありますが、そこはご容赦ください)。

 当事者研究において大切なことは、to think "with" the person in focusであり、to think "for" the person in focusではありません。当事者と「共に」 考えるのであって、当事者の「代わりに」考えてしまってはいけません。

 もちろん当事者は自分自身の苦労の中で困惑して様々なものが見えにくくなっているわけですから、仲間が助け舟を出すことは重要です。しかしそれも程度問題で、やはり基本的な原則は、「当事者の苦労は当事者のものであり、他人がその苦労の解決を横取りしてはならない」というものではないでしょうか。

 この点で、仲間は当事者に代わって考えてしまうことに対しては抑制的であるべきかとも思えます。当事者の主体性が伸長するような環境を皆でつくりあげることが当事者研究の基盤であるように思えます。

 ここで当事者研究を超えて、教育指導について話を脱線させてしまうことをお許しください。私は個人で研究をしている以外に、学生さんの論文執筆についての教育指導をしています。論文はもちろん、学生さんが書くものですが、論文執筆に慣れない学生さんはしばしば(というよりほとんどの場合)どのようなストーリーで論文をまとめるかという筋道を見つけることがなかなかできません。

 私は学生さんの論文構想を聞きながらコメントをします。大人数での指導(大学院で「特研」と呼ばれる合同ゼミ)では個別の疑問点や一般的指針を述べるぐらいのコメントにとどまりますが、一対一の個人指導では、私はしばしば学生さんの代わりにストーリーを考えます。学生さんはそれを吟味し納得したら、それを学生さんが自分の論文のストーリーとして論文を執筆することがしばしばあります。

 研究の着想(ストーリー)を指導教官が示すことは、研究倫理上は問題ないと考えています。研究として大切なのは着想の後の論証であり実証であるからです。しかし学生さんの底力を上げるには、この方法はよくないとは実は私は長年自覚はしています。私は自らのストーリーを一切提示することなく、学生さんに大いに苦しんでもらうことの方が実は学生さんに対して親切なのではないかとも思っています。とはいえ、修学年数は限られていますし、留年するコストは非常に高いわけですから、私は締切優先で、自らのストーリーを学生さんに提示してしまっています。ですが、この私のやり方についても再検討が必要なのかもしれません。ストーリーの考案については、「すべてを学生さん(当事者)に委ねる」ぐらいに考えた方がいいのかもしれません。

 ただ、「すべてを委ねる」というのを理想化してもいけないと思います。武術の例で考えることをお許しください。武術において天才的な開祖は、弟子にほとんど何も教えず模範演技を示すだけのことが多くあります。しかしそれでは多くの人間が技を体得できないままになりますので、しばしば二代目は技を体系化したり言語化したりして教えます。そうでなければ、開祖の見事な技は継承されず、下手をすれば似て非なる猿真似ばかりが蔓延するからです。

 二代目による技の体系化・言語化により少なくとも一定数の弟子は開祖の技をそれなりに継承できます。ところが三代目・四代目・・・と、その「教える」文化が進むと、弟子はその体系化・言語化された内容を受け身で学ぶだけになります。そうなるとそれなりの技術は多くの人に習得されるようになるのですが、天才が出なくなります。技の革新がなくなり武術全体が停滞してしまいます。こうなるとやはり「教える」こと、すなわち弟子(当事者)が苦しんで考えながら発見する代わりに効率よくヒントや答えを与えてしまうことの弊害が出てくるように思えます。

 教師からの教示と学習者の自得のバランスには再考が必要だと思います。

 別の例で考えます。既に長くなりすぎたので、短くしか述べませんが、一見したら「教えない」授業をしている福島哲也先生も、実は実に細かく学習者に即した課題の開発と提示を行っています。実際、福島先生が生徒を観察しながらずっと行っているのは、生徒の思考などの分析とそれに基づく教材観察です。「教えない」ようでいて、学習者を放任してしまうのではなく、仲間との『学び合い』の力の中に巻き込むことで、個々の学習者の力を伸ばしています。(福島先生の実践については、これから少しずつ私なりに考察を進めてゆきたいと思っています)。

 また西岡常一氏に代表されるような宮大工の徒弟制度でも、師匠は模範を示すだけで、後は「自分でやれ」と突き放し、一切教えることはしません。しかし、その背後では、弟子の生活を保証する、まずは徹底的に「見習い」をさせて弟子の意欲(「師匠のようになりたい」という想い)を育む、弟子一人ひとりの個性を見極める、やらせる課題にも配慮がある、などなどの工夫があります。

 教師・師匠はすべてを教え込んでしまってはいけませんが、ただ何もしなくていいわけではありません。一見何もしないでいるようでいて、実は教師・弟子が行っていることの解明が重要だと思います。

 再び当事者研究の話に戻しますなら、当事者の代わりに仲間が解決案を考えてしまうような当事者研究は、当事者に一時的な問題対処の方法は与えても、当事者の潜在的な力を長期的には伸ばし損ねる怖れがあります。極端なことをいうなら、当事者を解決策を示してくれる仲間に依存させてしまう恐れすらあります。やはり当事者の主体性を最優先することを忘れてはならないでしょう。それでは当事者の主体性を育むためにはどうするべきか、というのが次の点につながります。


(3) エゴ

 「当事者の主体性を尊重する」と口で言うのは簡単ですが、当事者の独自の可能性に対する畏怖がなければ、このことを実行するのは容易ではないように思えます。もしファシリテーターや仲間に、少しでも「苦しんでいない私には、苦しんでいる当事者よりも当事者のことがよく見えているはずだ」、「当事者も私が示唆するような方法を取れば多少は苦しみから逃れられるだろう」といった思いがあれば、それは当事者が、当事者自身も含めて誰も予知できなかったような独自の個性的な発展をする可能性を否定してしまうことになります。当事者が、苦しみも喜びもすべて経験することによって自らの人生を開花させる主体性を奪ってしまうことになります。

 当事者の主体性を尊重するためには、ファシリテーターや仲間がエゴをできるだけ捨て去ることが重要であるように思えます。(これは私がエゴが強いから特に感じていることかもしれません)。エゴを捨て去ることは、当事者研究の15の原則(注)から言いますと、「前向きな無力さ」や「初心対等」などで示されているように私は理解しています。

 エゴ(自己中心性、過剰な自意識、自負、うぬぼれ)というのはやっかいなもので、私などは下手に研究職にいるものですから「自分は分析ができる!」と思い込み、上に述べたように、当事者の声にもっと寄り添い、ペースに合わせ、聞き出すよりも聞き入ることが疎かになってしまいました。反省です。

 また少し脱線になりますが、上でも少し述べた『学び合い』の福島先生のお話を聞いたりワークショップに参加したりして強く感じたことは、福島先生が授業からエゴをできるだけ消そうとしていることです。それは福島先生の「指導の軸足を自分ではなく、生徒におく」ということばからもうかがえますし、先生が生徒の「学びに向かう力」を喚起するのに必要な「人間(的な)関係」として上げている以下の4つの原則からもうかがうことができます。

i)    「コントロールしない」(子どもを思い通りに動かせる対象とは考えない)
ii)   「対等な関係」(子どもも教師も人間としては平等であるから互いに敬意を払い、悪かったら素直に謝る)
iii)  「疑わない」(「この子はどうせ○○なのではないか」と予断をもって裁かない)。
iv)  「多様性を認める」(教師が思い込んでいる人間のあり方以外にもいろんな人間のあり方があることを積極的に受け入れる)。


福島哲也先生(数学)の『学び合い』あるいは「教えない授業」


 この4つの原則を見ていると、これらはすべて当事者研究においてもファシリテーターや仲間が心得ておくべき大切な原則であるように思えます。

 あるいは先日たまたま見たツイートも思い起こされます。



 もしくは「対話」において重要なことの一つは「決めつけないこと」 (to suspend) であるとしたボームの対話論も想起されます。


感受性、真理、決めつけないこと -- ボームの対話論から


 安直な一般化には気をつけるべきかもしれませんが、当事者研究も授業も技芸伝承も対話もすべてコミュニケーションだとしてまとめるなら、そこで大切なことの一つは、各人が互いを尊重し合うために、それぞれのエゴの暴走を抑制することなのかもしれません。

 しかしそのように「コミュニケーション」を総括してしまうと、なんだか砂糖でまぶされた、単なる「いい話」になってしまいそうです。二度目の脱線はここで終えて、私がファシリテーターとして参加した当事者研究の具体的な反省に戻りましょう。


(4) 物理的条件

 当事者研究のデモンストレーションの前に、私はその日の朝たまたま読んだ新聞記事から次の一節を紹介して、当事者研究のように対話を活かした実践が世界各地にあることを示しました。



These Men Are Waiting to Share Some Feelings With You. NYT. Dec.8, 2018

 そこには "sitting and listening intently"とありますが、私が参加したデモンストレーションは立ったまま行うものでした。これは教室全体に声を届けるにはよい方法だったのかもしれませんが、そのことにより傾聴することが少しおろそかになったのかもしれません。あるいは声を張る様式では伝えられないこともあるとも言うべきでしょうか。マイクを使ってささやいたりつぶやいたりすることも容易にして、対話を座って行ったとしたら、少しは落ち着いた雰囲気で当事者研究ができたのかもしれません。

 また当日は黒板に話の流れを書き込む係も一名入れたのですが、当事者とファシリテーターはほぼ常に黒板と書き込み係を背にしていたので、うまく黒板を使うことができなかったのも失敗でした。

 当事者研究の物理的な環境が「こうでなくてはならない」とまで厳格に定められる必要はないと思いますし、当事者研究を立って行うことも「あり」だとは思いますが--実際、私が浦河で見学した当事者研究では当事者とファシリテーターは立っていました--、心身ともに無駄な力を抜いて行えるような配慮は必要だと反省しました(少なくともマイクの利用は積極的に考えた方がいいのかもしれません)。


(5) パフォーマンス

 物理的環境以上に反省すべきは、今回の当事者研究が具体例提示ということもあり、必要以上に「パフォーマンス」になってしまったのではないかということです。当事者と話し合うこと以上に、話し合いの成果を示すことに力点がおかれてしまったことです。
 
 最初の失敗は、上の立ち方とも絡みますが、当事者が最初にファシリテーターである私の方ではなく、オーディエンスである学生さんの方を向いて話を始めたことを、ファシリテーターである私がそのままにしてしまったことかと思います。今回の当事者は教師であるため、自然といつものように学生さんの方を向いて語り始めたのかもしれません。もちろん、当事者とファシリテーターの時折のアイコンタクトはありましたが、下手をすると私ですら当事者ではなくオーディエンスの方を向いて発言していたかもしれません(特に、自らの仮説を開陳する時など)。

 くわしいことはビデオ録画を見てみないとわかりませんが、今、書きながらも、私は自らが語っている内容に関してオーディエンスの同意を求めるためにオーディエンスとアイコンタクトを取っていたことを思い出します。これには、「当事者研究の効果を学生さんにも実感してもらわなければならない」といった焦りが背後にあったと思います。

 焦りという点では、「この時間内に、何らか結論めいたものを示さなければならない」という焦りもありました。私が当事者の人となりと知的能力をよく知っていたというのもありましたが、私が短時間の間にさまざまな仮説や解釈を当事者に投げかけてしまった一端にはこの焦りがあったはずです。


(6) 複数性

 最後にこれは最初からわかっていたことではありますが、今回の当事者研究デモンストレーションは、当事者・ファシリテーター・書き込み係が一名ずつという体制でやってしまい、複数の聞き手(「仲間」)という存在を欠いてしまったということも反省すべき点です。

 もし複数の「仲間」が参加していたら、それぞれがそれぞれの見解を表明することで、認識の多様性も自然と担保されるでしょうし、特定の一人(今回はファシリテーター)が張り切りすぎることも防げたかと思います。

 私が昨年度の英語教師志望学生への当事者研究実践から学んだことの一つは、学生さんは複数の聞き手がいる当事者研究では、私との個人面談とは異なる顔を見せるということでした。昨年度の学生さんは私がチューターをしていたため、私は彼ら・彼女らをそれなりに理解していると自負していたのですが、複数の聞き手が関わる当事者研究では私の知らない学生さんの姿が何度も出てきました。これには、「聞き手が教師でなく学生である」ということも関連しているでしょうが、それ以上に、「当事者が、複数の人間による多様な認識枠組みで捉えられている」ということが大きかったのではないかと私は考えています。

関連記事
人間の複数性について: アレント『活動的生』より



 以上が私の反省です。別の角度から私の反省をまとめて学生さんに伝えたスライドのPDFもついでながら掲載しておきます。



 当事者研究についてわかっていたようで、実はわかっていなかったことが今回の収穫でした。これからも当事者研究について学んでゆこうと思います。


(注)当事者研究の15の原則

1: 「弱さ」の情報公開
2: 「自分自身で、ともに」
3: 経験は宝
4: "治す"よりも"活かす"
5: 「笑い」の力 -- ユーモアの大切さ
6: いつでも、どこでも、いつまでも
7: 自分の苦労をみんなの苦労に
8: 前向きな無力さ
9: 「見つめる」から「眺める」へ
10: 言葉を帰る、振る舞いを変える
11: 研究は頭でしない、身体でする
12: 自分を助ける、仲間を助ける
13: 初心対等
14: 主観・反転・"非"常識
15: 「人」と「こと(問題)」をわける

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浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」』(2005年,医学書院)
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浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』(2002年、医学書院)
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当事者が語るということ
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「べてるの家」関連図書5冊
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綾屋紗月さんの世界
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熊谷晋一郎 (2009) 『リハビリの夜』 (医学書店)
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英語教師の当事者研究
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熊谷晋一郎(編) (2017) 『みんなの当事者研究』 金剛出版
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樫葉・中川・柳瀬 (2018) 「卒業直前の英語科教員志望学生の当事者研究--コミュニケーションの学び直しの観点から--」
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8/25(土)14:00から第8室で発表:中川・樫葉・柳瀬「英語科教員志望学生の被援助志向性とレジリエンスの変化--当事者研究での個別分析を通じて--」(投影資料・配布資料の公開)
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第15回当事者研究全国交流集会名古屋大会に参加して
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当事者研究のファシリテーター役をやってみての反省
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