2018年10月14日日曜日

第15回当事者研究全国交流集会名古屋大会に参加して



2018年10月7日(日)に愛知淑徳大学で開催されました第15回当事者研究全国交流集会名古屋大会に参加しました。ここではその感想を私なりにまとめておきたいと思います。



■ ことばの力

開会式に続く10:20-12:00の登壇発表では、なんと17組の当事者研究の取り組みが報告されました。私は最初「このスケジュールではまともな発表は無理だろう」と思っていましたが、若干時間オーバーした組もあれど、どの発表も6分という枠組みの中で独自の世界を示したのは驚きでした。短い時間の発表でも、安直なまとめやおざなりなことばが出ずに、自らの身体から出てくることばが連続しました。私はいっときも集中を欠くことなく、ずっと聞き続け、時に大笑いしながら、ぐっと胸の奥で発表者の想いをかみしめていました。

それぞれの当事者が抱える問題(=「苦労」)はさまざまでしたが、どの発表からもことばの力を感じました。複数の障害をかかえるある発表者は、達観したというよりは突き抜けたような明るさで自らの苦労を語り続け、聴衆の方が圧倒されていました。この明るさは、彼女が自らを客体化することばを豊かにもっていることから生じているように思えます。アルコール依存症のある当事者は--その方によれば彼はアル中ではない、なぜなら「アル中とは料理酒まで飲んでしまうやつだから」とのこと(苦笑)ーーは、仲間からもらうことばの力によってその方なりのペースでの生き方を獲得しているように思えました。ある性的マイノリティの方も、自分の声を受け止めてくれるたくさんの仲間がいたからこそ、カミングアウトをすることができ、それにより自分の性別認識に関する自分と周りの人のギャップという問題を減らすことができたとおっしゃっていました。

これらのことばの力は、当事者研究のことばの使い方・作法によっても生じているように思えます。下手をしたら愁嘆場の嘆きや屈辱感にまみれた告白になりかねない自らの問題を、当事者研究はあくまでも「研究」として、当事者が、自分を、いや自分の問題を対象化して語ります--抄録集に掲げられた「当事者研究の理念」の最後は「『人』と『こと(問題)』をわける」です--。私の周りにいたある聴衆からは「まるで修士論文の発表みたいだね」という声があがっていましたが、今回の抄録集も「苦労のプロフィール」「研究の動機・目的」「研究の方法」「研究の経過と内容」「考察(わかったことや課題)」「まとめ・感想(研究してよかったこと、苦労したこと、さらによくする点など)」という形式で統一されていました。

ただ、当事者研究の発表は通常の論文発表とはいろいろな点で大きく違います。その一つはユーモアです。「当事者研究の理念」にも「『笑い』の力ーーユーモアの大切さ」が掲げられています。

・当事者研究という場には、不思議と笑いとユーモアが溢れています。
・「ユーモアとは、にもかかわらず笑うこと」と言われるように、ユーモアには、苦しい現実から距離をとり、苦労に打ちひしがれないために人間に供えられた力であり、究極の”生きる勇気”だとも言われています。(抄録集 p. 10)

上の説明の「不思議と」という表現に私は共感します。どの発表者も、笑いをとろうとはしていません。語っているうちに、思わず自分でも笑ってしまうような表現法になり、それにつられて聴衆も、世間の常識・良識からすれば「笑ってはいけない」ところなのについつい笑ってしまっているようです。このユーモアの共有によって、全員が苦労に対するある態度を確立しているようです。考えてみれば、ユーモアを共有する共同体には、どこにも生きる覚悟と品のある知性を感じることができます。この生きる態度が当事者研究の特徴の一つかもしれません。

先程とは別のアルコール依存症の方は、みずからを「くま」と喩え、アルコールを「エサ」と呼び、どのように自分が「サボローくん」に乗っ取られ「冬眠」してしまうかという「苦労」を、それまでの人生で蓄積されてしまっていた「裏切る/裏切られる」という二分法的思考の観点から分析していました。その方の当事者研究を聞いていても、ユーモアに溢れた語り方は、自己分析にとってなにか本質的な役割を果たしているのではないかと思えます。

複数の発表者が自分の苦労について「なにかいいネーミング(病名)があれば教えてください」と聴衆に訴えていましたが、このことから考えても、ユーモアをもって自己分析することは、高度な知性(=対象との距離のとり方と対象の捉え方)を必要とするものだということがわかります。「病名」とは、それがうまく決まれば、研究の焦点がぴたりと定まるようなもの--学術論文の研究課題 (Research Question) に匹敵するようなもの--であることがうかがえます。ユーモアをもって自らを語るという言語使用については今後きちんと考えたいと思いました。

ユーモアの延長上にはあるのでしょうが、それとは少し異なる語り方として「エンターテイメント」としての語りがあるかと思います。ある発表者(ケアする立場の方)は、自分の苦労を正面から語れずに、どうしても「エーカッコシー」 --A(C) --になってしまうことが自分の問題だと語っていました(笑)。別の方は「本当に伝えたい素直でかっこ悪いことば」が語れず「ホップ・ステップ・スリップ」して、当事者研究ではしばしば「爆発」と称される問題行動しまうと語っていました。この方の「爆発」を「エンターテイメント」と呼ぶのは適切ではないかもしれませんが、お二人を見ていると、いわゆる「エンターテイメント」的な表現というものも、「自分に直面することができない自分」を守りながら表現する、ある意味で正直な表現方法ではないかとも思えてきました。

ここにあげたのは、私ができたメモを基に再構成できたエピソードだけですが、当事者研究の語り方、コミュニケーションのあり方については、まがりなりにも言語教育に携わっている私としてはきちんと考察しなければと思わされるものでした。



■ 自律性

登壇発表を見ていてもう一つ強く感じたのは、「自律性」  (autonomy) についてです。弱い立場におかれ社会的烙印を押されていた多くの従来の当事者は、医者などの専門家から病名を宣告されそれを自らのアイデンティティとして生きざるをえないような立場に追い込まれていました。しかし当事者研究は、その病名宣告という言語行為を簒奪というか奪い取り (appropriate) 、自分が自分の「病名」というアイデンティティを自分で決定するという言語行為を作り出しました。かつてJames Brownは  "I'm black and I'm proud" と歌いましたが、当事者研究はそのようにことばの意味の反転をするだけでなく、新たな病名ということばを創造することすらやっています。奪われかけたことばの力を奪い返すだけでなく、それに新しい力を加えています。

さらに、当事者研究は、当事者の生き方を専門家からの「処方」に委ねてそれに従うだけ(従わなければ叱責される)という生き方を、当事者が自らの意志で自分の問題に対して向かい合い、周りからの支援を得ながら自分の助け方を自分で決めるという生き方に転換させているように思えます。だからといって当事者研究は医者などの専門家の働きを否定しているわけではありません。そうではなく、自分が抱える問題をあくまでも自分の問題として、自分が主体的に対応することを選び、専門家も含めた周りの人々の知恵を借りながら、「自分の苦労を自分の苦労として味わう」のが当事者研究だと私は理解しました。

「当事者」をどう英訳するかについては、私はずっと考え続けていることですが、この観点からすると「当事者」は "owners of problems" とも訳せるのではとも考え始めました。「苦労」を自らの苦労として引き受けて、それと共に生きる術を自ら、周りと共に探究していくのが当事者研究と言えるかと思います--当事者研究の理念の一つは「自分自身で、ともに」です--。

「これが自律性でなかったら、何が自律性なのだろう」というのが当事者研究についての私の思いです。



■ 当事者研究の源流

登壇発表の後には、向谷地生良先生と熊谷晋一郎先生の話がありました。


向谷地先生は、約40年前の浦河赤十字病院精神科病棟の写真をスクリーンに示しながらお話を始めましたが、そこには「精神科への入通院の経験を生き抜いた若者の生きようとする知恵の集積が当事者研究の源流です」と書かれていました。向谷地先生は次に昔の集合写真を見せながら、静かで落ち着いた語り口で「この人は・・・、この人は・・・」とご自身が関わった方々(すでに物故)の思い出も語りました。その方々は「人の苦悩が最大化した状態」としての精神疾患を生き抜いた方々です。「単純な『いい/悪い』を超えた意味の世界を見つけたい」、「『和解』が当事者研究が目指すものだ」とも向谷地先生は語っておられました。

このお話は、「英語教師の当事者研究」といった形で当事者研究を見よう見まねでやっているような私にとって、非常に重いものでした。

関連記事
樫葉・中川・柳瀬 (2018) 「卒業直前の英語科教員志望学生の当事者研究--コミュニケーションの学び直しの観点から--」
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/08/2018.html
英語教師の当事者研究
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2016/09/blog-post_8.html

しばしば「当事者研究には決まった方法はない」とも言われます。今回の大会でも「当事者研究には正しいメソッドはないのだから、感じるままにやることが大切」といった発言もありました。しかし、たとえ形は融通無碍・変幻自在に行うとしても、その精神(魂)だけは受け継がねばならないのではないかと私は自戒しました。私はこれからも当事者研究に学び続けてゆこうと思っていますが、当事者研究の源流だけは肝に銘じておかねばと思っています。



■ 「語りを公開する」という革命

続く熊谷先生は、向谷地先生のお話を「過去を振り返ることで未来を切り開くもの」として受け止めたと述べた上で、「当事者」と共通点の多い身体障害者のことについて語りました。自ら身体障害者である熊谷先生は、「障害は私たちの身体の内にではなく、外にある」として社会の変革を志向した障害者運動を高く評価しつつも、それが障害者の自立-- "independence" と私は翻訳しました--を目指すあまりに、障害者の孤立を招いたのではないかという問題提起をされました。

その点、当事者研究は、仲間を必要としている依存症の自助グループなどを参考にしたこともあり、当事者が孤立してしまうことが構造的に防がれていると熊谷先生はおっしゃいました。(英語で言うなら、当事者研究などの自助グループが目指しているのは "interdependence" と言えるかもしれません)。

ウィキペディア:アルコホーリクス・アノニマス


近年、日本でも注目されているオープン・ダイアローグも、問題を抱える者が孤立しないチーム体制を組んでいます。しかし、そこで語られる内容は、原則として非公開です。ですが、当事者研究はその語りを公開するという途を選んでいます。これは革命的なことではないかと熊谷先生はコメントされていました。

ウィキペディア:オープン・ダイアローグ


もちろん語りを公開しない方がよい場合もあるでしょう。ですから「当事者研究の方がオープン・ダイアローグよりもすごいのだ!」などという幼稚なことをここで言っているわけではありません(笑)。ただ、当事者の語りを公共空間にもたらすという言語行為が拓く世界の可能性については、しっかりと考えてゆくべきでしょう。

「当事者研究では情けなさや弱さがキラキラしている」とも熊谷先生はおっしゃっていました。熊谷先生といった方が当事者研究を研究しているということは本当に大きなことかと思います。

東京大学先端科学技術研究センター 当事者研究Lab
http://touken.org/



■ 一人称的あるいは二人称的な当事者経験

当事者研究発表会は、通常の学会のようでいて通常の学会とは明らかに異なる会でしたが、相違点の一つは(当たり前のことではありますが)、当事者研究では当事者の苦労から切り離された第三者的な語り方が決してされないということです。これは発表者の発言からだけでなく、質疑応答や発表の間の雑談でも感じられたことでした。当事者研究発表会で語る人々は、発表者ならもちろん第一人称的に当事者経験をしている者として、質問をする人なら「同じでもなく違うでもなく」その当事者と正面から向き合う第二人称的な当事者経験をしている者としてことばを発しているように思えました。もし当事者研究の場に、活字から知っただけのような専門用語を振り回す人がいたとしたら、その人のことばはどこか場から浮いてしまって、そのことばは力を得ないのではないかと想像します。これが通常の学会と異なることの一つでしょう。

当事者研究とは、それが発表者であれ聴衆であれ、まずは自らの身で感じることが必要であるように思えます。当事者研究の理念の一つである「研究は頭でしない、身体でする」というのは、実際の行動の変容、そしてそれに伴う認識の変容を大切にしようという意味だと私は理解していますが、これを私なりに大幅に言い換えるなら、「当事者研究を活字に閉じ込めてはいけない。当事者研究は自分で生きるもの」となるかもしれません。



■ 感性と理性、あるいは身体のメッセージと歴史の知恵を大切にしよう

ここから学校教育という、元々の当事者研究とは異なる文脈で当事者研究を行う私の関心に引き寄せた考えを書きます。

学校教育に関する私の懸念の一つは、学校で使われることばが、知性先行のものばかりになっており、感性と理性から乖離しつつあるのではないかということです。ここでの感性・知性・理性の三分法はカント以来の常識的なものですが、それなりの定義は以下のとおりです。

感性 (Sinnlichkeit, sensibility):何かの対象に接した際に、そこから前-分析的な直感(=意味の端緒)を得る働き。
知性 (Verstand, understanding):感性からの直感を思考により概念(=具体的で分析的な意味)を得る働き。
理性 (Vernunft, reason):知性のさまざまな概念をまとめて理念(=抽象的で包括的な意味)を得る働き。

「優れた英語教師教育者における感受性の働き―情動共鳴によるコミュニケーションの自己生成―」(『中国地区英語教育学会研究紀要』 No. 48 (2018). pp.11-22)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/05/no-48-2018-pp11-22_88.html


ことばという概念に基づく表現は、本来、うまくまとまらないままに身体で感じられる直感に基づくものですが、近代教育では学習内容が膨大になり記号化されて教えられるため、ことばが自らの身体感覚に基づかないまま、操作されるべき記号として扱われてしまうことはデューイが100年前から指摘していることでもあります。

Education as a Necessity of Life (Chapter 1 of Democracy and Education)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2013/09/education-as-necessity-of-life-chapter.html

このような問題意識から、私は学校で使われることばを、できるだけ自らの身体で感じることができるものにしなければならないと考えています。その意味で私は英語教育は小学校「から」変えなくてはならないと論じました。




とはいえ、知性の操作だけで語られるようなことばが横行してしまっている学校現場では、下手をすれば教師も学習者も、うわべの話はしても本質的な話は決してしないことになりかねません。教師は、職員室でプロ野球やカフェの話はしても授業の苦しみを語らない(語れない)ようであったり、学習者はSNSではつながっても自分の正直な気持ちは語らない(語れない)ようであったりすることは珍しくないと思います。

そんな中で学校教育現場に、下手に当事者研究をもちこんでも、それは上滑りのまがい物になったり、せいぜい言って上述のような悩みのエンターテイメント化になるだけなのかもしれません。これまで私と共同研究者は卒業直前の教師志望学生に当事者研究を導入し、今の所、それなりの手応えを感じていますが、ひょっとしたらそれは、彼ら・彼女らが本来もつことばの力を十分に活かせていない実践なのかもしれません。

今年の私たちなりの当事者研究の試みは12月から始まりますが、今の所私が考えているのは、以下の原則を導入することです。


(1) 身体のメッセージをもっと大切にしよう

語る人の表情や姿勢、聞く自分の身体の情動の様子をもっと観察しよう。それらが表現しようとしていることばにならない想いを大切にしよう。

(2) おざなりなことばを控えよう

沈黙を埋めるためにおざなりのことばを安直に発することなく、ことばが身体から湧き上がってくるのを待とう。頭の中だけで考えたような薄っぺらなことばで自分たちの真実をごまかさないようにしよう。

(3) 自らの表現を当事者研究の原則に照らし合わせよう

身体で表現してしまった自分の情動も、ついつい発してしまった自分のことばも、それが互いの可能性を豊かにするためになっているかどうかを、当事者研究の原則に照らし合わせてみよう。


(1) ~ (3) はそれぞれ、感性、知性、理性に対応させているつもりです。基本的な考えは、感性の蠢きを大切にし、感性と切り離された知性の濫用を止め、理性で感性と知性の動きを反省しようということです。具体的には、沈黙の間に流れる気持ちを大切にし、それに薄っぺらのことばではない確かなことばを与え、互いの弱さについてユーモアをもって探究しよう、より安心できる生き方を探そう、ということになりますでしょうか。

もちろん、これらの原則を強調することにより、参加者の発言が抑制的になりすぎて、重苦しい雰囲気になってしまうかもしれません。その重苦しい空気の中で発せられることばこそが貴重なものだとしても、お手軽なことばだけを使い続けてきたような学生さんにとっては、このような場は苦しいものになってしまうかもしれません。

今年度の私たちの当事者研究実践にはまだ時間がありますから、これらの点については共同研究者とよく考えてゆきたいと思います。


と、最後は自分たちの研究の話になってしまいましたが、非常に実りの多い当事者研究の大会でした。上のまとめでその会で学んだことをすべて表現したとはとても思えません。今後共、当事者研究の営みから学び、言語教育研究者のはしくれとしてことばとコミュニケーションについて考え続けたいと思います。




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熊谷晋一郎(編) (2017) 『みんなの当事者研究』 金剛出版
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樫葉・中川・柳瀬 (2018) 「卒業直前の英語科教員志望学生の当事者研究--コミュニケーションの学び直しの観点から--」
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8/25(土)14:00から第8室で発表:中川・樫葉・柳瀬「英語科教員志望学生の被援助志向性とレジリエンスの変化--当事者研究での個別分析を通じて--」(投影資料・配布資料の公開)
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第15回当事者研究全国交流集会名古屋大会に参加して
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