この度、「優れた英語教師教育者における感受性の働き―情動共鳴によるコミュニケーションの自己生成―」を『中国地区英語教育学会研究紀要』 の No. 48 (2018). pp.11-22 に掲載していただきました。
国際的な慣行に基づき、ここではその論文の草稿を掲載します。正式な論文については同誌か遠くないうちに公開されるはずの各種学術レポジトリをご参照ください。
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優れた英語教師教育者における感受性の働き
―情動共鳴によるコミュニケーションの自己生成―
広島大学 柳瀬陽介
1 序論: 知性主導の英語教育
数値目標による測定と管理がやや無批判的に推進されている現代日本の英語教育(柳瀬・小泉 2015)は、感性・知性・理性というカントの三分法 ―詳しくは後述― でいうなら、知性中心となっている。その結果、外国語教育や言語教育の目的といった理念的考察がないがしろにされている。また、割り切れる「合理性」 (rationality) (1) を優先するあまり、割り切れない「非合理性」を軽視する西洋近代(クロスビー 2003)の伝統も手伝って、多くの研究者は非分析的な感性を軽視しがちである。だが、現場実践に関わる者なら誰でも熟知しているように、感性は優れた実践のために不可欠な側面である。実践の感性的側面についての研究が必要である。
とはいえ、きちんとした定義がないままに感性的な側面について感傷的にことばを重ねていっても、分析や思考の深まりはおろか相互理解すらおぼつかない。ユング(1987)も言うように、人間に関する研究では概念の定義がことさらに重要である。そこで本論文では、感性に関する諸概念用語の定義を整理した上で、その定義に基づいた分析を優れた英語教師教育者を対象にして行い、英語教育実践の感性的側面の理解を深めることを研究課題とする。(2)
2 定義:感性に関する諸概念の整理
ここでは感性に関する諸概念の用語の定義を示す。本来は、基盤となる理論、翻訳語の適切性、概念の実例などについて詳しい説明が必要だが、それは別の機会に任せ、限られた紙幅しか許されていない本論では定義だけを端的に示す。また関連概念としての「意味」の定義も重要だが、それは現在投稿中の別論文で詳しく論じる。
2.1 カント、ダマシオ、ボームによる諸概念
近代の思考の基本的枠組を定めたカント(2010)、現代の神経科学において神経哲学的な見通しを示すダマシオ(Damasio, 2011)、対話論において現代における文理融合の知恵を示した物理学者のボーム(Bohm, 2013)の三者は感性に関する諸概念について極めて整合的な用語を使っている。それらの用語の関係を予め図1に示し、続いてそれぞれの用語の定義を示す。
図1:カント、ダマシオ、ボームの用語の関係性の整理
2.1.1 カントの用語
感性 (Sinnlichkeit, sensibility):何かの対象に接した際に、そこから前-分析的な直感(=意味の端緒)を得る働き。
知性 (Verstand, understanding):感性からの直感を思考により概念(=具体的で分析的な意味)を得る働き。
理性 (Vernunft, reason):知性のさまざまな概念をまとめて理念(=抽象的で包括的な意味)を得る働き。
2.1.2 ダマシオの用語
情動 (emotion):生命体の維持や発達に関わる身体内のすべての生化学的・神経学的・生理学的な活動あるいは動き (motion)。(3)
感情 (feeling):自覚された情動、つまり「今・ここ」の自らの身体の状態の知覚。
中核意識 (core consciousness): 感情という身体論的な用語を、意識論的に言い換えた用語。「今・ここ」の自分が感じている基礎的な意識。
拡張意識 (extended consciousness):中核意識の「今・ここ」の限定を超えて、さまざまな過去・未来・想像世界を舞台にして展開される意識。たいていの場合、言語などの記号体系の使用を伴う。
「からだ」、「こころ」、「あたま」:わかりやすさを優先するため今後は、情動を「からだ」、感情・中核意識を「こころ」、拡張意識を「あたま」と適宜言い換える(柳瀬・小泉 2015)。これらは鍵括弧付きのひらがな表記で示されるため、 “身体” や “心” や “頭” といった表記は、ダマシオの用語の意味ではなく通常の意味で使われる。
想い (image):「からだ」「こころ」「あたま」のすべての段階で利用される媒体(神経的=心的パターン)。(4)
言語 (language):想いが、文法的・意味論的に構造化されて成立した形式。
2.1.3 ボーム
感受性 (sensitivity):自分の内外で起こっていることを感覚でとらえて、その意味をまとめあげる働き。「からだ」「こころ」「あたま」のどの段階でも発揮される。
2.2 オープンダイアローグの情動共鳴
オープンダイアローグは、フィンランドで始まった対話を主とする精神療法であるが(齋藤 2015)、これは極めて困難な状況でのコミュニケーションのあり方とその力を示している貴重な実践である。そこでは、クライアントやその家族だけでなく、従来は権威的で「中立的」でなければならないとされた医師も情動の発露を抑制せず、参加者の情動が同期することが非常に重要であることが知られている(Seikkula & Trimble, 2005)。
情動共鳴 (emotional attunement):コミュニケーションの参加者それぞれが自らの自然な情動の発露を抑圧せずにいることによって、参加者の情動の変化が共感的に同期・同調すること。
2.3 ルーマンによる自己生成概念
授業という営みもコミュニケーションに他ならないとするなら、コミュニケーションに関する概念の定義も必要である。理論的社会学者のルーマンは、コミュニケーションは自己生成すると説く。(Luhmann, 1995)
自己生成 (autopoiesis):あるシステムが自らを維持・発展するために、システム外の要素ではなく、システム内の自らの要素を組み替えて自己組織化し新たな自己を生み出すこと。たとえば、コミュニケーション(社会的システム)は、たしかに参加者個々人の意識(心的システム)の存在と働きを前提とはしているが、実際にコミュニケーションを構成するのは参加者がコミュニケーションとして取り扱っている言動だけである。(5) いくら私秘的 (private) な意識の中で動きがあったとしても、それはコミュニケーションという社会的システム外の出来事であり、それは直接的にコミュニケーションを構成する要素とはならない。コミュニケーションは、コミュニケーションが自らの要素によって自己生成する。
3 方法:観察とインタビューからの解釈
以上の概念を用いて実践を分析するが、ここではその方法について簡単にまとめる。
3.1 研究協力者
研究対象となることに同意してくれた三名の研究協力者は、優れた実践が多くの人々に認められ、自ら英語を教えるだけでなく、英語教師に英語教育について指導する英語教師教育者でもある。もちろん優れた英語教師教育者はこの三名の他にもたくさんいるが、この三名は筆者が直接的に知る中で特にその卓越した実力を認めた者である。(6) この三名を匿名化することも考えたが、この分析の妥当性検証の機会を多くの英語教育関係者に開くためにも、当人の事前の許可を得て以下では実名を用いる。
田尻悟郎氏(関西大学・教授)は、公立中学校で26年間勤務し実践を熟成させる中でその素晴らしさが世人の知るところとなり、多くのメディアでも取り上げられた末、現在は大学で英語教育を教えている英語教師教育者である。学外でもさまざまな研修会などで教師教育に積極的に携わり、多くの授業観察や飛び込み授業も欠かさない。また、平成24-25年度はNHKの「テレビで基礎英語」の講師も勤めた。
池亀葉子氏(NPO法人グラスルーツ・理事長)は、民間の自由な立場から教育の理想を追求し、学校内外の英語教師を支援する法人の理事兼代表講師として、さまざまな研修会で講師を行う英語教師教育者である。その教師教育の核は、自身が数々の現場で英語教師として実践を創造しその結果を自己検証していることにある。
小口真澄氏(東京芸術学校マーブルズ・主宰-代表講師)は、英語講師を経験した後に渡米し演劇を本格的に学び、自らの英語教育をさらに磨き上げ、マーブルズを立ち上げ現在に至っている。受講生は子どもから企業人まで多岐にわたるが、最近はさまざまな機会に英語教師を対象とした研修会も行っている。
3.2 データとその解釈
筆者は、田尻氏に関しては、十数年にわたって観察を続け、科研チームも作りその分析成果の一部を横溝・柳瀬・大津 (2010) として公表もした。今回はそれらの公的・私的記録をデータとした。池亀氏については、その実践を知ったのはおよそ三年前であるが、その実力に魅了され彼女が主催する研修会に多く参加し観察とインタビューを重ねた私的記録をデータとした。(7) 小口氏の実践を知ったのは約1年半前で、彼女の研修会を観察・参加したのは四回だけであるが、そのうち二回は謝辞に掲載している科研予算を執行してのワークショップとシンポジウム(二日間に渡り開催)であり、その映像・音声および提出された参加者の感想はすべて記録してデータとした。
データの解釈としては、上で定義した諸概念をアブダクション (abduction) 的に利用し、諸概念の整合性を失わないままに三名のデータをうまく解釈できるか検討することにより解釈の恣意性をできるだけ排除した。また研究協力者三名にはこの論文原稿を予め読んでいただき、納得のいかない部分などを指摘し記述を修正する機会と権利を付与した。(8) とはいえ今回の分析と解釈は、三人の数々の実践を総括的にまとめるものであるので、以下の記述は十分に具体的ではない。具体的な記述のためには、一人の一つの実践に対してでさえおそらくは一つの論文ぐらいの分量が必要となるので、本研究は感受性などの観点からの分析の概観を示すのみに留めざるを得ない。
4 結果:情動共鳴からのコミュニケーションの自己生成
最初に総括的な記述をするなら、データの分析と解釈により、三名は、(1) それぞれに高い感受性を通じて、(2) 参加者の情動が共鳴するように仕向け、(3) その情動共鳴によりコミュニケーションを自己生成させ、(4) コミュニケーションによる変化と創造を授業実践の喜びとしていた、とまとめられる。以下、これら四点について述べる。
4.1 高い感受性
三名は、感性・知性・理性のどの水準においても高い感受性を有している。特に鋭敏なのは感性における感受性で、三名とも観察力に優れ、学習者および自分の変化への感知が迅速かつ繊細である。
田尻氏は、たとえば、英語および日本語(標準語および各種方言)の音声に関する感性的気づきに長けているだけでなく、それらの気づきを独自に知性的に分析することで高い感受性を発揮している(他人が作った分析概念を学習するだけなら特に高い感受性は必要とされないが、独自の分析を行う場合は、高い感受性で自らの分析の妥当性を検討することが必要である)。また田尻氏は、学習者の表情を観察して、学習者の言動を自ら再現することにも長けている。この再現は、単なる真似だけにとどまらず、学習者の情動・感情に関する「からだ」を通じてのシミュレーションともなっており、その結果、田尻氏は学習者の「こころ」と「あたま」を実感的に理解している。これらの観察とシミュレーションにより田尻氏は学習者の思考パターンを分析しているが、その分析の集大成が「テレビで基礎英語」などで公開された数々の見事に整理された教授法となっている。このような感性と知性の水準での感受性に加えて、田尻氏は大所高所からの理性的考察にも感受性を発揮している。たとえば「変化を拒む頑なな教師を相手にどう教師教育を進めるか」というのは教師教育者が常に悩むところであるが、田尻氏はそのような教員を対象とする場合、その教員の教師行動の是非については直接的な言及を避け、その優れた感性的感受性で気づいた個々の学習者の多くの反応を詳細に記録し整理した上で、その教員に語るという。つまり、「教員のどの教師行動をどのように変えるか」という具体的で知的な戦術から一歩引いて、「学習者の反応を知らせることによって、その教員の自身の気づきや洞察を待つ。必ずしも教師教育者が望む変化だけではなく、教員自身が変わらなければならないと思う変化を促す」という大局的で理性的な戦略を採択する。感性・知性・理性のどの水準でも高い感受性を働かせ、かつそれらの水準での意味を連動させているのが田尻氏である。
池亀氏は、特に説明の際に、子どもがよくわかるようなエピソードを用い、子どもたちに想像を促すことで知的理解を感性の働きからもたらしている。たとえば可算名詞と不可算名詞の違いを小学生に教える実践であるが、池亀氏はこの違いを説明する際に、「あたま」の水準の説明言語を暗記すべき公式として提示することはせず、<ある物体を入れた容器が突然消滅する>という破天荒な(しかし子どもが「からだ」から想像できる)エピソードを使う。ある物体がリンゴ(可算名詞)の場合、容器(カゴ)の消滅と共にリンゴはコロコロと転がり、子どもはそれを拾い集める際に「1個、2個・・・」と数える(池亀氏は子どもに「ほら、ちゃんと全部拾えたかな?」などと発言して巧みに誘導する)。だがこれが牛乳(不可算名詞)の場合、容器(瓶)が消滅した後、牛乳は床を濡らすだけであり、こぼれた牛乳を数えるなどまったく不可能である。池亀氏はこれを子どもにシミュレーション的に実演させる。リンゴを容器に入れる際には「1個目はどんな色のリンゴかな?酸っぱそうかな?」などと子どもの想像力を活性化させ、牛乳を入れていた容器が消滅する直前には「おや、瓶を友だちの頭の上にもっているイタズラっ子もいるぞ」と子どもの発展的想像力を評価したりした上で、消滅した直後には「びしゃびーしゃ!びしゃびーしゃ!」とわざと騒ぎ立てて当該名詞の不可算性を実感させた上で、「不可算性」という知的概念を、「びしゃびーしゃ」という「からだ」的なオノマトペによって「こころ」の水準での想いとして納得させている。このように池亀氏は、高い感受性を働かせて考案した実践によって、子どもに感性と知性の間を往復させ子どもの理解を深めている。またそのように職人的な実践への細かなこだわりを示す一方、英語科という枠組を超えてコミュニケーションを通じて学校教育をどう変えるかという理念に基づく実践書も公刊したり(菊池・池亀・NPO法人グラスルーツ, 2015)、落語や即興演劇やリフレクションの可能性に注目して専門家を招聘したりと、理性的な考察により感性的実践と知性的分析をさらに発展させている。
小口氏は、演劇的手法を用いる点で、特に身体的に感受性を働かせている。彼女はその高い感受性で、参加者の「からだ」のメッセージを読み取り、その場その場で当意即妙に参加者を指名して演技させたり発言させたりする。しかし、参加者の多くは演劇経験をもっておらず、小口氏のワークショップに参加することに不安や気恥ずかしさなどの否定的な「こころ」を抱いている。とりわけ最初は他の参加者のほとんどを知らない状況で行われるためその否定的な感情は最高潮に達する。だが小口氏はそんな約60名の参加者を、約5分で自発的な笑いが相次ぐ共同体に変える。この変化をもたらす小口氏の言動は、大まかな予定こそ決まっていたもの、ほとんどが瞬間的で即興的なものである。感性的な感受性に基づいて瞬間的に判断され選択された言動だが、それはそれまでの彼女の経験から知的に分析された数多くの言動のレパートリーの中から選ばれ組み合わせられ行われている。また、小口氏は演劇における感情表現について、「感情はわき起こってくるもの」と考え、「○○な感情を込めて」といった指示はしない。「感情ではなく、演技行為の目的を追う」とも彼女は語る。彼女は演技の目的を、身体の動きを通じて感性的に、台詞を通じて知性的に、ドラマの背景などを通じて理性的に理解させ、その想いを感受性でもって実感させた上で(9)、参加者に情動(身体内部の動き)が生じ、それが自発的な身振り(身体外部の動き)になるのを彼女は待つ。そうしてはじめて台詞という言語使用を想いに載せる小口氏の言語観はダマシオの言語観にそのまま重なる。このように一見、「感性の人」とも見える小口氏であるが、シンポジウムでは「感覚を研ぎ澄ませてその子を見つめる。しかしその子を「安全地帯」[=成長を必要としない段階]に置き去りにしない」などといった教育に対する理念を事も無げに語るなど、小口氏においても感受性は感性・知性・理性において連動している。
4.2 情動共鳴への誘導
三名とも、学習者・参加者の情動が共鳴し、まずは「からだ」(情動)の水準で互いが連動している共同体を構成し、「こころ」(感情・中核意識)の水準でも一体感が醸成されるように絶えず心がけている。
田尻氏は、教師と学習者間、および学習者相互の相対的位置関係に鋭敏である。典型的には机間巡視で学力が低い子に接する時には、しゃがみこんで視線を水平な(あるいは教師の方がやや低い)関係に保ってことばを待つ。(10) 言うまでもなく、立っている教師から座っている学習者への「上から目線」では、学力の低い学習者は本能的な圧迫感を感じ、発言も滞りがちである。田尻氏はこういった「からだ」の想いを高い感受性で鋭敏に理解した上で、そういった情動をもった学習者と気持ちを共鳴させるような言動を瞬時に選択して行っている。学習者が困難な課題に成功した時には満面の笑みを浮かべ握手や「ハイタッチ」 (hi five) を行うといった直接的な情動共鳴誘導も行い、恥ずかしがり屋の学習者もやがては喜びの自然な発露を学び、情動が共鳴する共同体の一員となってゆく。
池亀氏も、教師と学習者がまず「からだ」と「こころ」の水準で共鳴できるように工夫を凝らしている。その一つは、授業冒頭に「みんなの今日の体の調子を教えてくれる?よかったらパー、まあまあだったらチョキ、よくなかったらグーを出してね」と指示し、次に「心の調子」についても同様に尋ねることである。どちらの問いへの答えに対しても池亀氏は「ダメじゃない!」や「もっと頑張って!」などと価値判断をすることなく、そのまま受け入れる。少し具体的に尋ねることが適切という直感を得たらもう少し詳しく尋ねる。そうやって現時点での子どもの状態 ― 子どもの状態は時々刻々と変わる ― を、教師と子ども同士が受け入れることを授業冒頭に行うことは、授業中の情動共鳴を起こすための基礎準備といえるだろう。
小口氏も、自らの価値判断で参加者を裁くことなく、参加者のためらいや矛盾する気持ちといった、さまざまな情動・感情をそのまま受け止める。その上で、小口氏も自分の情動・感情を表現し、正直 (genuine) な情動共鳴が起きやすいようにしている。こういった方針を演劇活動一般に拡張して、小口氏は「演劇は相手主義」とも表現する。演劇では自らが表現をした後は、その表現への反応を共演者に委ねるしかない。相手の反応を「よかった」「悪かった」と自分勝手に裁けば、演技の流れが滞ることを表現してのことばである。これを教育にあてはめて小口氏は「教師は学習者と戦ってはいけない」とも言う。「勉強をしない」「思ったように理解していない」「望ましい反応をしない」というのは学習者の自然な情動・感情の発露の結果であり、それを否定し強制的に変えようとすれば、学習者がやる気を出すことはないからである(ちなみにダマシオの理論の中ではやる気・意欲 (motivation) は情動の水準での概念とされている。(11) やる気・意欲が拡張意識の水準のものではなく、情動の水準のものであることは「やる気を出せ!」という命令を受けてやる気が出る者がほとんどいないことからも裏づけされるだろう)。小口氏は演劇においても英語教育においても、参加者の情動が自然と共鳴することを大切にしている。
4.3 コミュニケーションの自己生成
情動共鳴の準備を整えておいた上で、三名ともに学習者・参加者間の即興的相互作用(つまりはコミュニケーション)の中から自然とコミュニケーションが発生(自己生成)するように仕向けることを基本方針としている。つまり、教師は大まかな方向性を示して、後は情動共鳴により「力」 (Macht, power) (12) を得た学習者が言動を自発し、その自発が他の学習者の自発を生み出すことを促進することを教師の仕事の基本としている。もちろん、必ずしも完全に学習者に任せるわけではなく、三名も教師行動の定番ともいえる「拾う・応じる・つなげる」も行う。すなわち、「学習者の小さなつぶやきなどのかすかな兆しをクラスに伝える」、「それらを肯定的に受け止めた上で教師自らの反応を加える」、「それらと関連する他の学習者や教材の部分を示す」、という三つの行為である。いずれにせよ、三名の基本方針は、教師が自らの計画にしたがってコミュニケーションを管理してその計画にそった発言だけを引き出すのではなく、学習者の言動が他の学習者の言動を招き、それが学びにつながるコミュニケーションになることを支援することである。
田尻氏は、このような方針でもって、数多くの飛び込み授業で初対面の学習者とのクラスでも豊かなコミュニケーションを成立させているが、そんな田尻氏でも意図した方向性でのコミュニケーションがほとんど生じなかった飛び込み授業があった。その時の田尻氏は、予定していた計画から一旦離れて、その学習者たちが数年後に直面する経済問題について淡々と語り始めた。学習者の「こころ」をまずは教師に向けて、学習者が「あたま」の話に「からだ」で共感し、学習者の「からだ・こころ・あたま」が統合することを優先したわけである。田尻氏は、「あたま」の水準だけでの知識伝達ではなく、「からだ」と「こころ」から生じるコミュニケーションで「あたま」での理解にいたる授業を重視している。
池亀氏は、学習者の言動に自らが「応じる」時に、子どもが思わず笑いという自発的な情動の発露をせざるを得ないようなユーモアにあふれる反応をしばしば行う。笑いという「からだ」の解放につられて子どもはそれまで意図していなかった反応も自然に行うようになり、それがコミュニケーションの流れへとつながってゆく。
小口氏は、即興演技を行わせる際の声掛けとして、 “Don’t control.” “Accept each other.” “Keep going.”といった指示をしばしば発する。これを理論的に翻訳するなら、「自分の意識(=心理的システム)の中だけで考えていることという、コミュニケーション(=社会的システム)にとっての外部によって、コミュニケーションを支配しようとするな。コミュニケーションの要素である、表現されたコミュニケーション的行為をすべて受け入れ、それらに反応することこそがコミュニケーションである」ともなる。このように教師が支配的にコミュニケーションを産出させようとするのではなく、コミュニケーションがコミュニケーションを生み出す(自己生成する)ようにしているからこそ、小口実践からは「あざとくもなく、予定調和的でもない感動」(シンポジウムパネリストの山本玲子(京都外国語大学)の発言)が生まれるのであろう。
4.4 授業実践の喜び
三名共に、学びのコミュニケーションから生じる予想外の創造を何よりの喜びとしている。授業というコミュニケーションからの参加者の自己生成こそが、外的報酬とは交換不可能な内的なやりがい、マルクスの用語を使うなら「真価」 (worth) である。田尻氏は、授業中に学習者から「おおっ」といった感嘆詞が上がることが嬉しいと言う。「生徒の創造力はすごいですよ。私が思いつかなかったこともどんどん出てきますから」とも語る。池亀氏は、「子どもの中で変化が起きた時や、子ども自身がその変化を自覚したり眺めたりするのを見る時が一番幸せな瞬間」と言う。小口氏も「エネルギーの源はセッションから。生徒から受けている「愛」に気づけることが生きがい」と述べる。三名共に、コミュニケーションによって、新たな発見や新たな学習者が生まれ、その自己成長を学習者が喜ぶことを、生徒からの贈り物あるいは「愛」として受け止め、授業実践の労苦に日々向かっているとまとめられる。
5 結語
知性に傾斜しがちな現代の英語教育において、本論文は感性に関する諸概念(感性、知性、理性、「からだ」(情動)、「こころ」(感情・中核意識)、「あたま」(拡張意識)、想い、言語、感受性、情動共鳴、自己生成)を理論的に整理し、優れた教師教育者の言動をそれらの概念から総括的に分析した。「4 結果」の冒頭の概括をより詳しく述べ直すなら次のようになる。 (1)’ 本研究が対象とした三名の優れた教師教育者は、それぞれに高い感受性を有していたが、それは感性のみならず知性や理性に対しても働く感受性であった。 (2)’ 三名は、「からだ」(情動)の水準での学習者への働きかけを重視し、そこから生じる情動共鳴で学習者の「こころ」(感情・中核意識)を学びに集中させ、それぞれの学習者にそれぞれの想いを育ませていた。 (3)’ 情動共鳴をおこす学習者は想いを表明し互いの想いに反応する中で、コミュニケーションを自己生成させた。自己生成するコミュニケーションは、時に誰もが予想しなかった発展をとげた。 (4)’ 三名はそういったコミュニケーションの創造性がもたらす思いがけない学習者の成長を実践の喜びとしていた。
今後はこの理論的総括を仮説として、さらなる事例の具体的分析を通じて理論的一般化を進めながら、読者に「利用者としての一般化」 (user generalizability) を可能にする論文をさらに執筆することが研究の一つのあり方だと考える。
注
1 “Ratio” は「比」を表すので、“rationality” を「有比性」「可割性」と、 “irrationality” を「無比性」「不割性」と翻訳することができる。さらには “rationalism” を「割り切る流儀」、 “irrationalism” を「割り切らない流儀」と翻訳することも可能であろう。
2 英語教育の理性的な側面に関する考察は別の機会において行いたい。
3 語源的には、 “emotion” の e-はex-すなわち外への方向性を示すものであるので、“emotion” は「やがては外にも表出する身体内の動き」と解釈することができる。
4 ダマシオは以前は神経的 (neurological) な水準と心的 (psychological) は水準の二つを分けて議論していたが、近年はスピノザの一元論に基づいた上での観点的二元論 (aspect dualism) の立場を明確にし、両者の水準の議論は実は同一の事態を指していると考えている。
5 これは、「コミュニケーションを行う者は、自らが生み出す刺激が相手に何らかの変化をもたらす意図でもって生み出されたものであることを相手に対して明白にしなければならない」という関連性理論 (Relevance Theory) の顕示的-推論的コミュニケーション (ostensive-inferential communication) の考え方と同じである。
6 もちろんこの認識には、筆者の感受性や感性という観点が不可避的に混入している。その点で、この研究は質的研究の理論的一般化 (theoretical generalization, Eisenhart, 2008) の考え方に従い、これらの観点をさらに洗練させる(あるいは否定しうる)ような理論的に重要な事例の分析を続けることが大切である。
7 池亀氏と知己を得る中で、筆者自身も何度も氏の主催する研究会などで講師を勤め、大学が規定する額に準ずる講演謝金・交通費を得たが、それ以上の利益関係はない。
8 英語教育の発展のため、多忙な中にそのような作業に協力していただき、積極的に自らの実践を公開しているこの三名に対してはここで改めて最大限の謝意と敬意を評しておきたい。学会規約によりこの三名を、本論文の共著者とすることができなかったことを著者は個人的に残念なことと思っている。
9 この他にも小口氏は、参加者それぞれの個人的な想いを引き出すことで参加者の感受性を引き出すこともする。演劇を通じた小口氏の英語教育実践については、意味および心理的・社会的成熟といった観点から後日改めて論を展開したい。
10 この身体的作法の重要性は、ケアにおける「ユマニチュード」(<人間らしさ>と翻訳できる)の実践(ジネスト・マレスコッティ, 2016)においても強調されている。
11 さらに述べるなら、やる気・意欲は、恒常性や痛みや快への反応や衝動と並ぶ低次の情動である。それよりもやや高次な情動は典型的情動と呼ばれるが、それは漠然とした気分などの背景的情動、恐れ・怒り・嫌気・驚き・悲しみ・幸福感などの基本的情動、共感・困惑・恥・罪悪感・嫉妬などの社会的情動の三種類に分けられる。
12 しばしば「権力」とも訳される「力」 (Macht, power) は、開かれた空間の中での行為 (Handeln, action) から生じるというアレント (2015) の考え方は、他の人々との情動共鳴により人は力を得る、と読み替えることができるかもしれない。
引用文献
Bohm, D. (2013). On
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Damasio, A. (2011). Self
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Eisenhart, M. (2008). Generalization from Qualitative Inquiry. In K.
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Seikkula J & Trimble D. (2005). Healing elements
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アレント, H.(著)、森一郎(訳)(2015). 『活動的生』東京:みすず書房.
カント, I.(著)、中山元(訳)(2010). 『純粋理性批判 1-7』東京:光文社.
菊池省三・池亀葉子・NPO法人グラスルーツ (2015) 『「話し合い力」を育てる』
東京:中村堂
クロスビー, A.W.著、小沢千恵子訳 (2003) 『数量化革命』東京:紀伊國屋書店
齋藤環(著・訳) (2015). 『オープンダイアローグとは何か』東京:医学書院.
ジネスト, Y.・マレスコッティ,R. (著)本田美和子(監修)(2016). 『「ユマニチュ
ード」という革命』東京:誠文堂新光社.
柳瀬陽介・小泉清裕 (2015) 『小学校からの英語教育をどうするか』東京:岩波
書店.
横溝紳一郎・柳瀬陽介・大津由紀雄(著)、田尻悟郎(監修) (2010). 『生徒の心
に火をつける』 東京:教育出版.
ユング, C.(著)、林道義(訳)(1987). 『タイプ論』東京:みすず書房.
謝辞
本論文は、科研基盤C「教師教育者・メンターの成長に関する研究―熟達者と新人の情感性と身体性に着目して―」(課題番号15K02787)の成果の一部である。
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