2018年10月20日土曜日

國分功一郎 (2017) 『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)



 昨年から話題の國分功一郎先生の『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院) (第16回 小林秀雄賞)は、やはりものすごい本でした。こういうのを「哲学」というのだなと思わされ、「英語教育の哲学的探究」などという看板を掲げている私は恥ずかしく、いたたまれなくなります。ですが、そういった自己憐憫には耽溺せずに自分の分野で自分がやれることをやるだけだと開き直るしかないとも思っています。

 私はまだ一読しただけですが、とりあえず現時点での「お勉強ノート」をまとめ、今後の再読解への仮設的理解にします。これから何度も読んで、私の思考法を刷新したいと思っています。

 以下のまとめのページ数は本書のページ数です。まとめには私の表現・誤解などがかなり入っていますので、この本の論点に興味をお持ちの方は必ずご自身でこの本を読んでください。※印以下の文は補足です。まとめでは敬称略となっていることを予めお詫び申し上げます。


*****



■ 能動態と中動態の対立 (バンヴェニスト)

 能動態では、動詞は主語から出発し主語の外で完遂する過程を指し示す。これに対立する中動態では、動詞は主語が過程の内部にある過程を指し示す(バンヴェニスト (1966) による定義)。 (p. 81)   言い換えるなら、能動と中動の対立は、主語が過程の外にあるか内にあるかである。 (p. 88)

 ※『週刊読書人ウェブ』の特集での國分の説明はわかりやすいので、ここに引用する。

 たとえば「曲げる」というのはこの対立[=中動態と能動態の対立]で言うと、能動に対応します。「曲げる」という過程は主語の外で完結するからです。それに対し、たとえば「反省する」というのは主語の内で起こる過程ですね。「惚れる」とかもそうです。中動態は僕らが知っている能動/受動の対立ではうまく説明できない事態をうまく説明してくれます。「惚れる」というのは能動でも受動でもない。単に誰かを好きになってしまう過程あるいは出来事が主語の中で起こっているだけです。中動態はこういう事態を実にうまく説明してくれる。

 能動と受動の対立では、自分が自発的・積極的・主体的にやるのか、それとも単に事態を受け入れているのか、やらされているのか、そういうことが問題になります。つまり「する」と「される」の対立であって、そのどちらかでしかない。しかし「惚れる」は「する」ことでも「される」ことでもないのです。それはいわば「起こる」ことです。僕らの言葉はこれをうまく説明できない。しかし、かつては能動態と中動態の区別があったわけで、これを簡単に説明できたのです。

特集「中動態の世界」 第二部 「失われた「態」を求めて」國分功一郎講演(荻窪・Title)
https://dokushojin.com/article.html?i=1581

 ※二枝 (2009) によるならば、中動態 (middle voice) を考察に入れることで、"be born, be excited" といった「行為を受ける」という概念と結びつきにくい受動態表現や、"enjoy oneself, improve oneself" などの他動性の高くない再帰構文や、 "The door opened easily"といった中間構文の理解も容易になる。ちなみに現代英語で中動態的な意味を表す表現の中心的なものは「身体などの手入れ」(wash, shave, bath, get dressed)、「位置変化を起こさない動作」 (bow, turn around)、「身体の姿勢の変化」 (sit down, stand up) などである。
 二枝美津子 (2009) 「中動態と他動性」『京都教育大学紀要』 No. 114, 2009. (pp. 105-119)
http://lib1.kyokyo-u.ac.jp/kiyou/kiyoupdf/no114/bkue11409.pdf



■ 出来事を私有化する言語によって描かれる行為

 私の身体で「歩く」という過程が実現されるにせよ、実に多くの要素が協働しなければならない。ところが、能動と受動を対立させる言語は、もっぱらこの出来事を、<私の>行為として、<私に帰属するもの>として記述し、いわば<出来事を私有化>する。 (p. 176) 。

 ※例えば、私はカメラを首から下げて歩いている時、しばしば思いがけず、気がついたらカメラを握ってある花の方に歩み始めていることがある。この歩行はその行為に先立つ私の「意志」によって説明するより、たまたま視界に花が入ったこと、その花が思いがけず可憐だったこと、近くに車が通っていなく危険がなかったこと、そもそも私がその時カメラを持っていたこと、その日はそれほど時間に追われていなかったからカメラを手にしていたこと、数日前から仕事に疲れ美的経験を欲していたこと、などなどの諸要素の縁が結実して起きたことと考える方がいいのではないだろうか。もちろん私の身体内部での実に様々な部位の協働に対して私が意志および意識を持ち合わせていないことは言うまでもない。(自由)意志という意識による行為の説明は、仔細に検討すると多くの問題をはらんでいる。

 

■ 意志という概念の設定 (アレント)

 私たちは常に過去からの帰結である選択に常に迫られているが、行為に責任を問うためには、どこかで過去からのつながりを切り裂き、その行為の選択が新たに開始されたとする地点を設定しなければならない。そこで設定されたのが意志という概念であるとアレント(『精神の生活』)は主張する。 (p. 132) 

 だが、これは「無からの創造」を求めるような定義であり、この定義は定義対象の存在の可能性を自ら切り崩してしまっている。 (p. 138)

 ※ 「自由意志」に関しては、リベットの古典的な実験以来、神経科学の分野でも疑義がもたれていることは周知の通り。
関連記事
"MIND TIME" by Benjamin Libet (and some thoughts of mine)
http://yosukeyanase.blogspot.com/2010/08/mind-time-by-benjamin-libet-and-some.html

 アレントによる「意志」の定義は、意志の虚構性をうまく説明しているのかもしれない。とはいえ、この虚構は、近代社会ではーーあるいは能動態と受動態の対立で物事を考える言語社会ではーー社会的・法的にとても有用とされてきたものである。しかし、この本で國分が述べるように、依存症(およびそこからの回復)といった現象を考えると、この対立はむしろ有害かもしれず、私たちは中動態による思考を(も)復活させた方がよいのかもしれない。



■ 権力の関係を能動性と中動性の対立で定義する (フーコー)

  また、アレントの「意志」概念は、上司からの非暴力的なパワハラで、ある行為をやらざるを得なかった部下といった場合をうまく説明できない。例えば狡猾な圧力を受けた部下が、公的文書に虚偽の記載をするといった背任行為をした場合、それはあくまでも部下の意志による能動的行為であり、その行為の責任は部下にしかない、と糾弾するのはどこか直感的に受け入れがたい。かといって部下は、自分の意志をまったく奪われていたというような意味で受動的であるわけでもない。

 フーコーは次のように説明する。

 その人が本当はやりたくない行為を、暴力を使わずに不承不承やらせる非自発的同意をもたらす権力の行使、つまり少なくとも外見上はその人が自分の能動性を発揮してその行為をしたように見せることにおいて、その人は能動的でもあるし受動的でもある。逆に言うなら、能動的でもないし受動的でもない。

 この矛盾は、権力の関係を能動性と受動性の対立ではなく、能動性と中動性の対立によって定義すると解消される。つまり、権力の行使者は行為の過程の外におり能動的である。他方、権力を行使されて行為を行った者は行為の内におり中動的である。 (p. 151) 

 言い換えるなら、部下は虚偽記載の報告書を書きそれに署名したという点である行為を中動態的に行ったが、同時に、パワハラ上司も、巧みな行動誘導という行為で自分以外の対象(部下)にある結果をもたらしたという点で能動的な行為を行った。

 フーコーは「中動態」という用語なしで中動の様態を思考することができたといえる。 (p. 163)

 ちなみにこのフーコーの権力観はアレントの権力観と異なる。 (p. 154)

 ※パワハラに長けた権力者は、部下に何かを力ずくでさせることは決してしないが、部下が不承不承にあることをせざるを得ないような状況に部下を心理的に追い込むことを非常に得意とする。その巧みな権力行使が問題視されても、そういった権力者は、「私はそんなことをやれと言ったことは一つもない」と述べ、部下がその行為を権力に「やらされた」という受動性--つまりは陰の行為者は権力者自身であることーーを否定し、例えば「あくまでもあれは部下が勝手にやったことだ」と部下の能動性を主張する。たしかに部下は完全な受動性において行為を「やらされた」のではなく、中動性においてある行為を行った。だが私たちは、その行為にその部下の能動性を認めるべきではないだろう。能動的であったのは、その行為の外にいて心理的な圧力をかけ続けた権力者に求めるべきではないだろうか。
 


■ 自動詞表現と受動態はどちらも中動態に由来する(細江逸記)

 英文学者でありながら、フランス語・イタリア語・スペイン語・ロシア語・ロシア語・スカンジナビア諸語の現代ヨーロッパ語、および朝鮮語・アイヌ語・琉球語など日本語に比較的近い言語、さらにはサンスクリット語・ギリシャ語・ラテン語の知識をもった細江 (1928) は、インド=ヨーロッパ語においてはもともと受動態と能動態の対立はなく、受動態はあくまでも二次的に発展したことを示した。

 そこからみちびかれる結論は、自動詞表現と受動態はどちらも中動態に由来するもので両者は兄弟のような関係にあることである。 (pp. 178-179)  細江は能動態(「過向性能相」)を「動作が甲より出て乙に過向し、その乙を処分すること」、中動態(「不過向性能相」ないし「反照性能相」)を「動作が行為者を去らずその影響は何らかの形式において行為者自身に反照する性質のもの」と定義した。これはバンヴェニストの30年以上も前に、細江がバンヴェニストの中動態の定義に到達していたことを示す。 (p. 180)

 細江はまた中動態の意味の根底には「自然の勢い」があるとも述べた。 (p. 186)

※ この細江の研究を國分は、「いまでも通用するというより、いまではもうほとんど見られなくなってしまった真の碩学が残した高密度の議論と言うべきであろう」 (p. 178) と評しているが、まったくそのとおり。「言語教育を研究しています」と述べながら、日本語以外には英語と(わずかばかりの)ドイツ語しか知らない私としては真剣に反省しなければならない。
 ちなみに國分はこの本を書くために、東京神田のアテネフランセでギリシャ語を学び始め、スピノザの『エチカ』のラテン語原文をノートに写しながらキーフレーズの暗記を始めたという(「あとがき」)。彼はこうも述べている。

ラテン語原文を何度も読むことで、それまでどうしてもうまく理解できなかった論点を突破することが可能になった。翻訳で読んでいたならば、ラテン語の動詞の態のことなど気づかなかっただろう。やはり、「読めよ。さらば救われん」こそが研究における真理である。 (p. 333)

 人文・社会系の人間の一人として、肝に銘じておきたいことばである。



■ ある仮説としての言語史(「動詞の憶測的期限」)

 名詞表現 
→名詞から発展した非人称動詞
→その動詞が中動態の意味を獲得 
→中動態は自らに対立する能動態をその派生体として生み出す
→中動態はさらに受動態という派生体も生み出す
→やがて中動態は受動態にその地位を奪われる
→中動態と能動態の対立は、能動態と受動態の対立にとってかわられる
→中動態はその存在すら忘れられるが、それが担っていた意味は分割され、自動詞、再帰表現、使役動詞などなどの諸表現に相続された。 (p. 191)

 動詞の原始的な形態は「起こる」こと(出来事)であり、「する」と「される」の対立とは無縁であった。 (p. 198)

 ※これは憶測に過ぎないと、國分は何度も述べているが、この仮説により見通しが一気に得られることは確か。ちなみに、私は英語話者をファシリテーターとした "Writing Group" にここ二年近く参加しているが、いつも思うのは「英語話者は、<Agent + Action> という図式で語るのが、本当に好きだなぁ」ということ。英語話者からすれば「海が見える」なんていう日本語表現は本当に奇妙なのだろうと思う。
   とりあえず「英語話者に受け入れられやすい英語を書く」ことを当座の目標としている私は、最近できるだけ<Agent + Action>という図式で英語を書くようにしているが、日本文学の英訳などでは、もっとこの図式から外れるが日本語の感覚に近い英語表現を多用するべきなのかもしれない。



■ スピノザによる中動態的な思考

 『ヘブライ語文法綱要』という文法書も執筆したスピノザは「言語を言語として意識していた」 (p. 235) 哲学者であるが、彼はヘブライ語の不定詞について、ヘブライ人たちは「行為する者と行為を受ける者が一つの同じ人物である場合」を新しい第七番目の種類の不定法としてつくる必要があると考えた、としている。 (p. 234) これは「内在原因」 (causa immanens) を表現するような不定法である。 (p. 235)

 スピノザは『エチカ』の第1部定理18において「神はあらゆるものの内在原因であって、超越原因ではない」 (Deus est omnium rerun causa immanens, non vero transiens.) と定義したが、ここでの "transiens" は「他動詞の」とも翻訳できる。つまり超越原因=他動詞的原因とはその作用が自分以外の他に及ぶ原因であり、「神=自然」というスピノザのテーゼに反する。このような神は内在原因として説明されなければならない。この超越原因=他動詞的原因と内在原因の対立は、能動態と中動態の対立を思い起こさせる。 (p. 237)

 スピノザは「中動態」という用語を用いたことはないが、彼の思想の中には中動態に通じる概念が明確に存在している。 (p. 236)

 ちなみにアガンペンは、ジル・ドゥルーズがスピノザ研究で論じた「表現」の概念に注目し、「内在原因という関係は、それを構成する能動的な要素が原因となって第二の要素を引き起こすのではなく、むしろ、それが第二の要素のなかで自らを表現するということを含意している」と述べた。

※ 上には書かなかったが、國分はスピノザの「コナトゥス」 (conatus) 概念についても言及している。先日、ダマシオの最新刊のまとめを書いた時も、私はダマシオがこの概念について言及していたことをまとめから省いたが、この概念についてはやはりもう少し勉強したほうがいいのかもしれない。

ダマシオがスピノザのコナトゥス概念について述べている箇所は以下の通り。

The continuous attempt at achieving a state of positively regulated life is a defining part of our existence--the first reality of our existence, as Spinoza would say when he described the relentless endeavor of each being to preserve itself. A blend of striving, endeavor, and tendency comes close to rendering the Latin conatus, as used by Spinoza in propositions 6, 7, and 8 of the Ethics, part 3. In Spinoza’s own words, “Each thing, as far as it can be its own power, strives to persevere in its being,” and “The striving by which each thing strives to persevere in its being is nothing but the actual essence of the thing.” Interpreted with the advantage of current hindsight, Spinoza says that the living organism is constructed so as to maintain the coherence of its structures and functions, for as long as possible, against the odds that threaten it. It

Damasio, Antonio. The Strange Order of Things: Life, Feeling, and the Making of Cultures (Kindle の位置No.610-616). Knopf Doubleday Publishing Group. Kindle 版.

関連記事
Damasio (2018) "The Strange Order of Things: Life, Feeling, and the Making of Cultures”
http://yosukeyanase.blogspot.com/2018/10/damasio-2018-strange-order-of-things.html
Wikipedia: Conatus in Spinoza
https://en.wikipedia.org/wiki/Conatus#In_Spinoza



■ スピノザにおける能動と受動

 スピノザによる能動と受動の概念は、私たちの現在の常識では少しわかりにくい。(少なくとも文法形式による能動態・受動態の区別で定義される能動と受動とは異なる)。

 スピノザによるならば、私たちの変状が私たちの本質を十分に表現しているとき、私たちは能動である。逆に、私たちの変状が外部からの刺激によって圧倒され私たちの本質を本質というよりも外部の刺激の本質を多く表現しているとき、私たちは受動である。  (pp. 256-257) (『エチカ』第3部定義2を参照せよ)

※ この論点を、きわめて安直に英語教育の現場に適用するなら、一見生徒が英語をたくさんしゃべっているクラスでも、生徒は(スピノザ的な意味で)能動的ではなく、受動的である--すなわち、教科書などの模範文や教師からの影響を受けて口を動かしているだけ--ことはしばしば観察される。

 ちなみに "speak English" と "speak in English" の違いは、単に形態的に能動性(他動詞的)と中動性の違いに対応しているだけでなく、意味的にも能動性と中動性の違いに対応しているのだろうか。つまり、"speak English" とは「とにかく何でもいいから、英語という言語形式を産出せよ(=自らの外に出せ)」ということを含意しかねないが、 "speak in English" はどちらかというならば、「ある者があることを英語で語り、自らの心理的・社会的状況を変化させた」といった含意をもつとはいえないだろうか(安直な発想による素朴な疑問)。

補記(2018/10/21)

 上の記述はあまりに雑なので、少し補っておきます。

 英語母語話者が教師として英語を教えている日本の教室を考えてみましょう。教師がある生徒に発言することを求めます。ですが、その生徒はもごもごと日本語で発言を始めました。教師は(笑顔であるいはしかめっ面で) "Speak English, please" と言うでしょう。しかしこの状況で "Speak in English, please" と言う可能性は前者の可能性よりも低いように私には思えます(私の直感なので間違っているかもしれませんが)。

 今度はその授業で、生徒が少グループごとに英語で話し合う場面があったとします。教師は教室の中を歩き回りながら、それぞれのグループでどのような英語での話し合いがなされているかを観察します。ところがあるグループでは日本語で話し合っていました。教師は "Speak English, please" と言うかもしれませんが、この場合は "Speak in English, please" とも言いそうです。少なくともこの状況におけるこの二種類の発言の許容度は同じぐらい高いのではないでしょうか。

 以上は私が想定した状況で私の直感に基づいた判断をしているだけなので、これをもとにきちんとした議論を組み立てることは本来できません。しかし、とりあえず話を進めるために、以上の想定・判断が正しいと仮定させてください。

 第一の事例は、一人の生徒が他のすべての人々(教師と残りの生徒)に対して語りかける行為でした。これは "speak" という動詞が「主語から出発し主語の外で完遂する過程を指し示す」行為と思われます。この行為は、話者(指名された生徒)が、彼以外の他者(教師と他の生徒)に対して「英語」と認識される言語形式を聞かせること、です。だからこそ "Speak English, please" という(バンヴェニストが定義したような意味での)能動的な表現が好まれるとは考えられないでしょうか。

 これに対して第二の事例は、ある少グループの生徒が内部で語り合っている事例でした。ここで彼ら・彼女らに求められているのは、「自分たちが語って自分たちに影響を与える」という行為であり、ここでの動詞 "speak" は「主語が過程の内部にある過程を指し示す」とも捉えられるので中動態的な "Speak in English, please" も容認されるのではないでしょうか。もちろん、ここで求められている行為は、グループの生徒たちが、そのグループの外にいる教師に対して英語と認識される言語形式が聞こえるようにすること、とも捉えられます。ですから "Speak English, please" も容認されるように思えます。

 直感的判断に基づく生煮えの思考ですので、間違っているかもしれませんが、とりあえずは仮説を出して考えるという方略に基づき、ここに仮説を出してみる次第です。ご意見のある方は何らかの方法でお知らせくださったら幸いです(ただしこのブログのコメント欄は、ロボット投稿があまりに多いので閉鎖しています。私のメールアドレスは広島大学のホームページで検索していただけたら出てきます)。




■ スピノザにおける自由

 自己の本性の必然性に基づいて行動する者は自由である。 (『エチカ』第1部定義7)。つまりスピノザの考えに従うなら、自由と対立するのは必然性ではなく強制である。 (p. 262)

※ とっぴな例に思えるが、合気道はこのスピノザ的な意味での自由を理想としているとは言えないだろうか。つまり本来の自分を表現することを理想とし、たとえ外敵に襲われ自分らしさを損なわれそうになったとしても、自分らしさ(具体的には自分がもっとも動きやすい姿勢・体勢)を保つ。さらには、相手を対象 (Object) として分離して考え他動詞的に制圧してしまうのではなく、自分が自分らしく立ち続ける中で(自分の行為を自分自身の内に働かせる中で)、結果的に相手の攻撃を無効にするということである。そしてそれは自己の表現であると同時に自分よりもはるかに大きなもの(スピノザ的に言うなら神)の表現である、という考え方である(これまた安直なアナロジー 笑)。



■ 中動態の世界を生きるということ

 「私たちは中動態を生きており、ときおり、自由に近づき、ときおり、強制に近づく。」 (pp. 293-294)

 だが、私たちはそのことになかなか気がつけない。法も中動態の世界を前提としていない。私たちは自分たち自身を思考する際の様式を根本的に改める必要があるだろう。 (p. 294)

 ※私たちの日常的な行為は、(学校文法的な意味での)能動態的に<私は+私の行為を+行う>という構図で捉えるよりも、中動態的に「いつのまにか(ついつい)ある行為をしているという出来事が私に生じていた>という構図で捉えた方がいいのではないだろうか。

 以前に書いたこのブログのある記事では、次のようにある論文の一部を翻訳した。

 私たちの言語の文法の基盤は、「行為者(主語)が何か(目的語)に対して行為する(動詞)」である。たとえば「ジャニーがリーディングの試験を落とした」である。 (The grammar of our language is built on a pattern of ACTOR (Subject) ACTS (VERB) on SOMETHING (Object) as in "Janie failed the reading test.") (p.77)

 社会文化状況的な見解によれば、上記の文法は誤っている。結果や成果は、複数の行為者の間での相互作用および相互作用の歴史の中から生じてくるのだ (flows from)。行為者が存在している状況。従事している活動。状況や活動およびそれらに含まれているすべての事柄についての解釈。その他の行為者による相互作用や参加。状況で利用された媒介的な手立て(対象物、道具、テクノロジー)。相互作用が生じた時間と空間。これらの混沌は「システム」と呼ぶことができる。「活動システム」 (activity system) や「行為者-行為体ネットワーク」 (actor-actant network) と呼ぶ者もいる。したがって私たちの教育研究と教育評価の文法は「行為者(主語)が何か(目的語)に対して行為する(動詞)」 (ACTOR ACTS on SOMETHING) ではなく、「結果XがシステムYから生じる」 (RESULT x FLOWED from SYSTEM) といったものであるべきだ。 (pp.77-78).

関連記事
On Qualitative and Quantitative Reasoning in Validity (質的研究と量的研究における妥当性の考え方)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2017/09/on-qualitative-and-quantitative.html


 しばしば「やる気」も、"How can I motivate my students?"と、教師が能動性を発揮し、他者化された学習者をどう教師が望むように学習させるか、という権力的な関係の話になってしまうが、元々、 "be motivated"とは中動態的な事態であり、誰か他の者の能動により受動的に引き起こされる事態ではないのではないだろうか?

 教師はよく "How can I motivate my students?" と能動態の文で考えるが、そもそも私が他人を "motivate" するということは自然なことなのだろうか?"motivation (motive)" や "motivate" あるいはそれらの訳語と考えられる「動機」や「動機づけ」という語を当たり前に使っている現代日本人は、「誰かが誰か他の人に動機を与える」や「誰かが誰か他の人を動機づける」といった表現を何の問題もなく受け入れるが、それらの表現は私たちをうまく表現しているだろうか?

 もし「動機」ということばをそれよりも昔から日本で使われてきたと思われる「やる気」に換えるなら、「誰かが誰か他の人にやる気を与える」や「誰かが誰か他の人にやる気づけられる」といった表現は奇異というか胡散臭くなるように私は思える(まるで妙な自己啓発セミナーに出席したみたいで)。私の個人的な感覚では「やる気」は自分の中に湧くか湧かないかのものであって、他人に制御されるものではない(というよりも自分でも制御できるものではない)。

 英語の表現に戻るなら、私は "to motivate someone else" だけでなく、 "to motivate oneself" という表現も私は不自然であるように思える。もちろん現在の英語では "be motivated" という表現があるから、それをもとにした「文法的創造性」で"motivate someone else" や "motivate oneself"  といった表現も生み出すことができる。だがこれらはいわば文法的創造性によるやや過剰な派生であり、私たちの心のあり方を逸脱した事態を表現しているとはいえないだろうか。そしてその表現が、やがては私たちの現実としてみなされてしまうようになっているのではないだろうか?

 少なくとも私は誰か他人を目的語(対象)にもつことができる「動機づけ(る)」という表現よりも、あくまで自分に生じるか生じないかの出来事の表現である「やる気が出る」の方がずっと自然に思える。だから私は某教育センターで学習意欲に関する研修講師として三年間関与しているが、そこで私は基本的には「動機(づけ)」ということばは使わず、「やる気(が出る・出ない)」ということばを使っている。

 ここで脱線して変な例を出すが、日本語を母語にしている私にとって「腹減った」(あえて直訳調に英語にするなら "The stomach is empty")というのは、とても即物的(客観的)であると同時に心理的(主観的)でもある便利な表現であるように思える。これが英語の "I am hungry"となると、屁理屈が好きな私は「なぜ<私>という抽象的な概念をここでわざわざ出す必要がるのだろうか」と思ってしまう。さらにドイツ語で "Ich habe Hunger" となると、私はそれを「<私>ナル存在者ハ、<空腹>ナル対象ヲ、<所有>スルトイフ行為ヲナス>」と翻訳してしまい、「このような言語を使っていたら、抽象的な哲学が好きになるはずだ」と苦笑してしまう。

 この話は笑い話にせよ、「動機づけ」という問題は教育において重要である。

私たちが教育を語ることばの文法についても、もっと自覚が必要なのではないか。

すくなくとも言語教育者であるならば。




追記

この本のどの章も面白いですが、メルヴィルの『ビリー・バット』を題材にした第9章は非常に具体的で英語教育関係の人間にも読みやすい章となっているかと思います。この章を題材に、英文学者、英語学者(言語学者)、哲学者を招いてシンポジウムが開けたら英語教育の学会も多少は面白くなるでしょう。


追追記

以下の『週刊読書人ウェブ』の記事は非常に読み応えがあります。

特集「中動態の世界」 第一部 國分功一郎×大澤真幸「中動態と自由」(代官山蔦屋書店)
https://dokushojin.com/article.html?i=1580
特集「中動態の世界」 第二部 「失われた「態」を求めて」國分功一郎講演(荻窪・Title)
https://dokushojin.com/article.html?i=1581

また、以下の現代ビジネス所収のエッセイを読んだ上で新潮社サイトの動画を見ると、國分先生が中動態の議論を通じておっしゃりたいことがさらによくわかるように思えます。

現代ビジネス:私たちがこれまで決して知ることのなかった「中動態の世界」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/51348
新潮社:第16回 小林秀雄賞
https://www.shinchosha.co.jp/prizes/kobayashisho/16/



 







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