2018年10月15日月曜日

マジョリティの当事者研究


たまたまツイッターで知った、岩永直子 (BuzzFeed News Editor, Japan)氏による熊谷晋一郎氏への連続インタビューは非常に面白いものでした。その第三回目で、熊谷氏は、杉田俊介氏のことばを引用しながら、「マジョリティの当事者研究」について語っています。


不要とされる不安が広がる日本 熊谷晋一郎氏インタビュー(3)


詳しくは上のインタビュー記事を読んでほしいのですが、その趣旨を私なりにまとめますと、以下のようになります。


(1) マジョリティの言語的貧困:マジョリティである多数は男性は、社会的にあまりにも優遇されてきたので、自らを表現することばが貧しい。

(2) 身体には嘘はつけない:自分のことばを内省する場合は自意識の問題だからいくらでも言い訳が効く。だが、自分の身体の声を聞くのは怖い。

(3) 苦しさを表現できずに衰弱するマジョリティ:マジョリティ側の人間が「虐げられ傷ついている」「幸福ではない」といった言語化しにくい被害者意識をもったとき、彼ら・彼女らは、マジョリティであるがゆえに表面化することができず、自分が衰弱していくように感じる。

(4) マジョリティの自責・他責:日常言語でうまく言い表すことができない見えにくい困難をもつマジョリティは、自分を責めたり、暴力的で露悪的な言動を取るようになりかねない。ひいては排外的・排他的な集団に急速に取り込まれてしまう。

(5) 現在の対立軸:対立軸は「リベラルvs反リベラル」や「マイノリティvsマジョリティ」ではなく「見えやすい困難vs見えにくい困難」ではないか。

(6) マジョリティの困難:マジョリティも見えにくい困難を抱え込んでおり、罪悪感や被害者意識、見えやすいマイノリティ性への複雑な感情を募らせているのかもしれない。

(7) マジョリティの当事者研究:マジョリティにも自分たちの困難を正直に見つめことばにしてゆく当事者研究が必要なのかもしれない。


これらに、私の解釈(蛇足)を付け加えます。

(1) の「マジョリティの言語的貧困」とは、別段、マジョリティが知っている語彙が少ないということではありません。私見にすぎませんが、マジョリティの語彙はしばしば、形式的あるいは定型的に語られる「使い古されたことば」 (ハイデガーの "Gerede" ???) に過ぎず、聞いていてどこかしっくりきません。上滑りというか、キャンキャン騒ぎ立てられるだけで、聞こうとしている私の身にしみわたってきません。聞いていてどうも集中できませんーーもちろんこれには聞き手である私の問題も絡んでいるのでしょうが、そのことはここで割愛しますーー。

これに対して、たとえば先日の当事者研究全国交流集会名古屋大会での発話者ーーほとんどすべてがマイノリティーーが自らの困難を語ることばは豊かでした。力があり、中に血が通っている実感があります。ことばにその人の存在が込められています。ことばの意味とことばの息遣いにまったく齟齬がありません。ことばが迫ってきます。

関連記事
第15回当事者研究全国交流集会名古屋大会に参加して
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/10/15.html

私が敬愛してやまないある中学校英語教師は、かつて「家庭などで苦しい思いをしている子どもこそ深いことばをもっている。私はそのことばを英語にする手伝いをしたい」とおっしゃっていましたが、この観察もこの (1) の論点につながるようにも思えます。

マジョリティのことばは貧しく、しかし、それが世間に流通しているだけに、マジョリティは時にそのような空々しいことばを過剰にわめきちらしてしまうのかもしれないーーちょうど、問題行動を引き起こして自分でもどう自分を表現すればよいかわからずに沈黙する子どもに対して滔々と説教する教師のようにーーという可能性について私たちはきちんと考えるべきかと思います。


(2) の「身体には嘘はつけない」については、身体を騙したり身体に無理強いをさせ続けた末に、症状の形で身体からの逆襲的なメッセージを受け取った人は納得できるのではないでしょうか(私も何度もそのように身体からの強烈なメッセージを受けました)。日頃から身体の声を聴き取って、その声にしたがって生きてゆけばいいのでしょうが、自分の身体を否定するような意識に絡め取られてしまった人は、身体の声を聞くのを怖がります。

熊谷氏はインタビュー (2) で、そのような人々を精神科医のローウェンの説を引きながら「仮面と現実の自分を区別することが難しく、身体を自分の意思の従属物とみなしており、『こうあるべき』という強靱な意志によって、みずからの身体的な感覚や感情さえもその仮面の下に抑えこむ傾向」をもつ「ナルシスト」と称しています。


 

ともあれ、身体の声を聞くことを拒み続けることによってかろうじてマジョリティに属している人々は少なくないように思います。マジョリティからマイノリティに「転落」した人々は、時に解放的な笑いで自分を表現しますが、その笑いの自然な響きをマジョリh地の人はすこし身体で感じるべきなのかしれません。


(3) の「苦しさを表現できずに衰弱するマジョリティ」の少なくとも一部は、そんなナルシストなのかもしれません。現代社会で暮らす自分に苦しさを覚えつつも、現代社会のタテマエからするとそれを「苦しさ」と認めることができずに、外面ではマジョリティを名乗りつつも、内面では苦しさを増大させ、自分は実は被害者なのではという思いを抑圧的に抱いてしまいます。


(4) の「マジョリティの自責・他責」は、そんなマジョリティが「こんな自分では駄目だ」と自分を責めたり、仕事とは関係のないところで思わず攻撃的になったり、あるいは鬱積する否定的な感情のはけ口をある一定の人々に見出し、排他的な集団に強烈に同調してしまいます。

トランプ大統領を支持したのは貧しい白人層、というのがこれまでの通説でしたが、最近は、実は収入や地位にかかわらず、息苦しさや停滞感を感じている白人がトランプを支持しているのではないかという論説も出始めました。

Charles M. Blow: White Male Victimization Anxiety
https://www.nytimes.com/2018/10/10/opinion/trump-white-male-victimization.html
Charles M. Blow: The Trump Circus
https://www.nytimes.com/2018/10/03/opinion/the-trump-circus.html
Paul Krugman: The Angry White Male Caucus
https://www.nytimes.com/2018/10/01/opinion/kavanaugh-white-male-privilege.html

私は、日本でも似たような現象が起こっているのではないかと思っています。もちろん政治を単一要因だけで分析するのは愚かなことでしょうが、「マジョリティの鬱積」という論点は今後重要になってくるのではないでしょうか。


(5) 「現在の対立軸」とは、そうなると「リベラルvs反リベラル」や「マイノリティvsマジョリティ」ではなく、「見えやすい困難vs見えにくい困難」つまり、自らの苦しさを表現できる人々と表現できない人々の間の対立ではないかという熊谷氏の指摘には私は大きくうなずきました。両者はそれぞれの、比較できないし、比較しても意味がない自分が所有する苦しみを負っているという点で共感し連帯もできるはずなのですが、見えやすい困難をもったマイノリティが自分の苦労を語るのを、見えにくい困難を内に秘めたマジョリティは、羨望の思いで見ているのかもしれません。さらにはその羨望を自分でも認めずに抑圧するがゆえに、それらのマジョリティの人々は自分でも制御できないぐらいの暗い情動を発現させてしまうのかもしれません。


それが、(6) の「マジョリティの困難」なのでしょう。ひょっとしたらマイノリティと共に現代社会の歪みや矛盾と戦うこともできるはずなのに、社会的タテマエから現代社会を肯定せざるをえない。仮に、そのタテマエから抜け出て、自分を語ろうとしても、現代社会に流通している語彙は、その苦しみを十分に表現できない。だから「使い古されたことば」で自分や仲間をごまかしたり、マイノリティを罵倒したりして、自らの苦しみに向き合えないーーこれがマジョリティの困難なのかもしれません。


そうなると (7) でいう「マジョリティの当事者研究」も必要なのかもしれません。先日の記事で、私は、英語教師志望学生を対象とした当事者研究で、今年は以下の原則を立ててみようかと考えているということを述べました。


(1) 身体のメッセージをもっと大切にしよう

語る人の表情や姿勢、聞く自分の身体の情動の様子をもっと観察しよう。それらが表現しようとしていることばにならない想いを大切にしよう。

(2) おざなりなことばを控えよう

沈黙を埋めるためにおざなりのことばを安直に発することなく、ことばが身体から湧き上がってくるのを待とう。頭の中だけで考えたような薄っぺらなことばで自分たちの真実をごまかさないようにしよう。

(3) 自らの表現を当事者研究の原則に照らし合わせよう

身体で表現してしまった自分の情動も、ついつい発してしまった自分のことばも、それが互いの可能性を豊かにするためになっているかどうかを、当事者研究の原則に照らし合わせてみよう。

関連記事(再掲)
第15回当事者研究全国交流集会名古屋大会に参加して
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/10/15.html


表面的に考えたら、これらの原則は学生さんの発言を少なくしてしまうのではないかとも思いますが、そうやって使い古されおざなりになったことばを捨てることが、「マジョリティ」の人々に必要なのかもしれません。そうして沈黙に耐え、自分の身体の情動が、それが身振りであれことばであれ、何かの形をとって現れてくるのを辛抱強く待つべきではないでしょうか。

関連記事
7/15(日)の公開研究集会:外国語教師の身体作法(京都外国語大学)は予定通り開催します + 柳瀬の当日発表資料公開
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/07/715.html

7/22の公開研究集会「外国語教師の身体作法」での柳瀬発表の後の質疑応答
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/07/722_17.html


共同研究者とはまだ廊下で立ち話をしただけで、きちんと話し合っていませんが、いろいろと考えてゆきたいと思います。

ともあれ、非常に考えさせる熊谷氏のインタビューでした。


さまざまな弊害が指摘されるようになったSNSですが、このような出会いができるのは本当にありがたいです。




杉田水脈議員の言葉がもつ差別的効果 熊谷晋一郎氏インタビュー(1)
https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/kumagaya-sugitamio-1

「生産性」とは何か? 杉田議員の語ることと、障害者運動の求めてきたこと 熊谷晋一郎氏インタビュー(2)
https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/kumagaya-sugitamio-2

不要とされる不安が広がる日本 熊谷晋一郎氏インタビュー(3)
https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/kumagaya-sugitamio-3

偏見を強める動きに抵抗するために 熊谷晋一郎氏インタビュー(4)
https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/kumagaya-sugitamio-4


追記
上の (2) のインタビューで、熊谷氏は、優生思想を以下のような理路で超克しようとしています。

・優生思想は、人が生産する財やサービスの価値で人間の価値を測ろうとする。

・しかし財やサービスに価値が宿るのは、そもそもそれらが人間に必要とされるからである。

・そうなれば、価値の源泉は人間が何かを必要とすることではないか。

・人間が何かを必要としているということには、無条件に価値が宿っているのではないか。

・優生思想は、その根源的な価値を見落としているのではないか。

この思想についてもしばらく考えたいと思います。私が専門とする(言語)教育も根源的には価値に基づくものですから。




関連記事(英語教育関係)

パネルディスカッション『今日叫ばれる"英語教育の危機"とは? ―そのとき教育現場は?―』 発題者:柳瀬陽介・樫葉みつ子・山本玲子 指定討論者:卯城祐司
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2014/05/blog-post_31.html

柳瀬陽介 (2014) 「人間と言語の全体性を回復するための実践研究」(『言語文化教育研究』第12巻. pp. 14-28)
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2014/12/2014-12-pp-14-28.html

「優れた英語教師教育者における感受性の働き―情動共鳴によるコミュニケーションの自己生成―」(『中国地区英語教育学会研究紀要』 No. 48 (2018). pp.11-22)
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/05/no-48-2018-pp11-22_88.html


関連記事(当事者研究関係)

浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」』(2005年,医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2005.html

浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』(2002年、医学書院)
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当事者が語るということ
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/blog-post_4103.html

「べてるの家」関連図書5冊
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/11/5.html

綾屋紗月さんの世界
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/12/blog-post.html

熊谷晋一郎 (2009) 『リハビリの夜』 (医学書店)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/04/2009.html

英語教師の当事者研究
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/09/blog-post_8.html

熊谷晋一郎(編) (2017) 『みんなの当事者研究』 金剛出版
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/08/2017.html

樫葉・中川・柳瀬 (2018) 「卒業直前の英語科教員志望学生の当事者研究--コミュニケーションの学び直しの観点から--」
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/08/2018.html

8/25(土)14:00から第8室で発表:中川・樫葉・柳瀬「英語科教員志望学生の被援助志向性とレジリエンスの変化--当事者研究での個別分析を通じて--」(投影資料・配布資料の公開)
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/08/82514008.html

第15回当事者研究全国交流集会名古屋大会に参加して
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関連記事(オープン・ダイアローグ関連)

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ヤーコ・セイックラ、トム・アーンキル、高橋睦子、竹端寛、高木俊介 (2016) 『オープンダイアローグを実践する』日本評論社
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