2019年1月7日月曜日

当事者の弱さや苦労を他人が代わりに解決することについて -- ユング『分析心理学』再読から当事者研究について考える --



前の記事(当事者研究のファシリテーター役をやってみての反省)でも書いたことですが、「たとえ善意からでも、周りの人間は、あることで苦しむ当事者の苦労を奪ってしまってはいけない」という命題は、私にとって重い問いかけとなりました。そうやって考えているうちに、直観的に「ユングを再読してみればいいのでは」と思い、英語で書かれ、かつ入門書的な本であるという二重の意味でユングには珍しい『分析心理学入門』 (Analytical Psychology) を再読しました。

関連記事:C.G.ユング著、小川捷之訳 (1968/1976) 『分析心理学』 みすず書房
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/01/cg-19681976.html

ここではその再読から学んだことを、(1) 弱さや苦労の意味、 (2) 弱さや苦労を他人が代わりに解決するべきではない、(3) 改めて当事者研究について考える、の三点からまとめてみたいと思います。ちなみに再読は、まず翻訳書を読み、重要な箇所に線を引き直し、線を引いた箇所を原著でも読むという方法を取りました。このように翻訳書には大変お世話になりましたが、以下の訳出は私が訳したものです。なお原著は、ドイツ語話者のユングが講演で語った英語をそのまま書き起こしたものなので、完全に母語話者が言うような文法文になっていない箇所もあることをお断りしておきます。


(1) 弱さや苦労の意味

ユングは、人間の心がもつ態度を、自分の関心が自分の外の出来事に向かう「外向型」と内の出来事に向かう「内向型」の二つのタイプに大別しましたが、心がもつ機能については思考・感情・感覚・直観の四つに分けました。私なりに簡単にまとめるなら、「思考」は法則に即して体系的に推論を進めること、「感情」はあることの価値 (value) を認識すること、「感覚」とは実在物の様子を知ること、「直観」とは物事の全体的な見通しを瞬時に得ることと言えましょうか。

さらにこの四つの機能は、法則や価値で「割り切れる」という意味で思考と感情が「合理的」であり、ただ実在したり一気に直覚したりできるだけであり法則や価値では「割り切れない」という意味で感覚と直観が「非合理的」(あるいは合理外的)であるとも言われます。

人間はしばしば四つの機能のどれか一つを自ら得意とする主要機能としますが、そのことによって、その機能ではない同種の機能が不得手な機能になります。例えば思考機能に長けた人は、それと同種の合理的機能である感情機能が劣ることが多く、抽象的な理屈をどんどん展開することができても、物事の価値を細やかに認識することを苦手としたりします。

主要機能とは別種の機能にも得手不得手はしばしばあり、例えば上記の人は、(思考ほどではないにせよ)直観に優れる一方感覚に劣り、突然に物事の見通しを得たりするものの、物事の実情には無頓着なままであったりします。この場合は、直観が補助機能となります。

参考記事:C.G.ユング著、林道義訳 (1987) 『タイプ論』 みすず書房
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2014/05/cg-1987.html

ユング自身はおそらく内向型で直観や思考を得意とする人だったと思われますが、ユング自身はそれらのタイプを人間の多様性としてとらえ、それら自身に優越を見出していません。ただ、ある特定の個人においては、ある態度や機能において心がよく働き、その逆の態度や機能において心が不器用にしか動かないというだけです。ですからその劣位機能がその人の弱さとなり苦労のもととなります。

拙訳:
私が四つの機能[思考・感情・感覚・直観]のうちのどれかに重きをおいているという印象を与えていたのでなければよいがと思っています。ある個人の中で支配的な機能というのは常に、もっとも分化した[=細かく使い分けられている]機能であり、どの機能でも支配的な機能になりうるのです。機能の特性だけから、この機能やあの機能こそがもっとも優れたものであるなどと言える基準などありません。私たちが言えるのは、ある個人の中でもっとも分化した機能が、その人が人生に適応するための最上の機能であり、その優位機能によってもっとも排除された機能が、ないがしろにされているという意味で劣位機能であるということだけです。

原文:
I hope I did not give you the impression that I was giving a preference to any of the functions. The dominating function in a given individual is always the most differentiated function, and that can by any function. We have absolutely no criterion by which we can say this or that function in itself is the best. We can only say that the differentiated function in the individual is the best for adapting, and that the one that is most excluded by the superior function is inferior on account of being neglected. (p. 62)


一般に人間の成長は劣位の態度や機能をも発達させることだと考えられますが(ストー (1992) 『人格の成熟』岩波書店)、ユングは人間がすべての面において完璧になり劣位の態度や機能をもたなくなることはないと考えます。

さらに重要なのは、人間は劣位の機能 -- 下でユングは態度のことについては語ってはいません -- という弱さをもち、それによって苦労することによって無意識とつながることができることです。人間は、強みである優位な機能を意識的に使いこなして人生に適応しますが、他方で弱みである劣位機能に振り回されて -- たとえば感情が劣位機能である人は、ある価値を突然狂信したりします -- 辛労を重ね、自らがまだ意識化していない無意識の力にさらされます。ユングにしたがえば、人間の無意識には個人的無意識と普遍的(集団的)無意識がありますから、劣位機能で苦労をするということは、その人の無自覚な側面だけでなく人間一般とつながることになります。

拙訳:
四つの機能をすべて同じように分化させて細かに使い分けるというのは人間には不可能だと私は考えています。もしそんなことができるとしたら私たちは神のように完璧な存在ということになるでしょう。そんなことはできるわけありません。どんな水晶にも必ず傷があるものです。私たちが完璧になることはありません。さらに、もし私たちが四つの機能を同等に分化させることが仮にできたとしても、それは私たちが四つの機能を意識的に操作できる機能にしたということにすぎません。しかし、そうなってしまえば、私たちは、必ず自分たちの弱点となっている劣位機能を通じて無意識とつながることができるという貴重な結びつきを失ってしまうことになります。弱々しさや能力不足を通じてのみ私たちは無意識とつながることができます。それは本能という[意識からすれば]低次の世界とつながることでもありますし、私たちの仲間とつながるということでもあります。私たちの強みは、私たちを独立した存在にするだけです。独立した私たちは他人を必要としなくなり、私たちは王様になります。しかし私たちは劣位機能によって本能の世界だけでなく人間一般と結びつくのです。

原文:
 I do not believe that it is humanly possible to differentiate all four functions alike, otherwise we would be perfect like God, and that surely will not happen. There will always be a flaw in the crystal. We can never reach perfection. Moreover, if we could differentiate the four functions equally we should only make them into consciously disposable functions. Then we would lose the most precious connection with the unconscious through the inferior function, which is invariably the weakest; only through our feebleness and incapacity are we linked up with the unconscious, with the lower world of the instincts and with our fellow beings. Our virtues only enable us to be independent. There we do not need anybody, there we are kings; but in our inferiority we are linked up with mankind as well as with the world of our instincts. (p. 109)


劣位機能を通じての無意識の力は、周りからすれば奇異な言動だけではなく、夜に見る夢や、はなはだしい場合は神経症といった形で出現するとユングは考えます。そうなると神経症といった苦労も、実はそれまでその人によって疎んじられていた無意識が発現しようとする自己実現の試みの一部、あるいは少なくとも、主要機能ばかりが使われることに対する補償の試みであると考えられます。これこそがユング的解釈による「弱さや苦労の意味」とは言えませんでしょうか?

拙訳:
ヘンリー・ディックス博士
ユング教授、それならばあなたは、神経症の発症は自己治癒の試みであり、劣位機能を前面に出すことによって[人間の全体性を]補償していると考えていると、私たちは考えてよろしいのでしょうか?

ユング教授
まったくその通りです。

ディックス博士
そうなりますと、神経症という病が発症することは、人間の成長からすれば、好ましいことであるとなりますが、この理解で正しいですか?

ユング教授
そうです。あなたがその考えを出してくれたことを私はありがたく思っています。それこそが私の考え方なのです。私は神経症について全面的に悲観しているのではありません。多くの場合、私たちは「神に感謝だ。彼は神経症になる決断をしてくれた」と言わなければならないほどです。神経症はまさに自己治癒の試みなのです。これは身体の病気が少なくともその一部において自己治癒の試みであることとまったく同じです。(中略)神経症は自己制御的な心的システムがバランスを回復する試みなのです。神経症は夢の機能となんら異なるものではありません--ただ神経症の方が夢よりも強力で過激なだけです。

原文:

Dr Henry V. Dicks: 
I think we can assume then, Professor Jung, that you regard the outbreak of a neurosis as an attempt at self-cure, as an attempt at compensation by bringing out the inferior function?

Professor Jung:
Absolutely.

Dr Dick:
I understand, then, that the outbreak of a neurotic illness, from the point of view of man's development, is something favourable?

Professor Jung:
That is so, and I am glad you bring up that idea. That is really my point of view. I am not altogether pessimistic about neurosis. In many cases we have to say: 'Thank heaven he could make up his mind to be neurotic'. Neurosis is really an attempt at self-cure, just as any physical disease is partly an attempt at self-cure. (p. 189) ... It [=neurosis] is an attempt of the self-regulating psychic system to restore the balance, in no way different from the function of dreams -- only rather more forceful and drastic. (190)


 (2) 弱さや苦労を他人が代わりに解決するべきではない

もし自分の弱さを通じて苦労することが、その人の自己治癒 -- さらに拡張して言うならホメオスタシスやオートポイエーシス -- の営みであるとするなら、その苦労の当事者はその苦労を徹底的に経験して自分の弱さを自覚することが必要であるとなるでしょう。もちろん、命を落としかねないような状況には直接的介入が必要です。しかしそれほどの目に見えての危険性がないのなら、周りの人間は、その当事者の自己治癒の試みを注意深く見守るべきなのかもしれません。周りの者がたとえ善意からとはいえ、当事者の苦労を一方的に取り上げてしまうように解決・解消してしまうことは、長期的に見ればその当事者の可能性を奪ってしまうことになるかもしれないという自覚が必要なのかもしれません。

拙訳:
当然のことながら、私は患者のために最善を尽くします。しかし心理学[精神医学]において非常に重要なことは、医者はなんとしてでも患者を治そうとするべきではないということなのです。自分の意志や革新を患者に押し付けないように細心の注意を払わなければなりません。患者にはある程度の自由を与えなければなりません。人をその人の運命から引き離してしまうことなどできません。これは今死すべきと自然が定めた患者を医者が治療することができないのと同じことです。時にこれは、あなたには、患者がさらに成長するためにくぐり抜けなければならない運命から患者をすくい上げることが許されているのかという問いになります。ある種の人々の気質の中にひどく馬鹿げたことが刻み込まれている場合、それらの人々がその馬鹿げたことを犯してしまうことを止めることはできません。もし私がその馬鹿げたことをそれらの人々から取り上げてしまったら、それらの人々には長所がなくなってしまいます。ありのままの自分を受け入れ、私たちに委託された人生を真剣に生きることによってのみ、私たちは自らの長所を獲得し心理的に成長することができます。私たちの罪、過ち、間違いは私たちにとって必要なものなのです。これらがなければ私たちは成長へのもっとも貴重なきっかけを失ってしまいます。

原文:
I naturally try to do my best for my patients, but in psychology it is very important that the doctor should not strive to heal at all costs. One has to be exceedingly careful not to impose one's own will and conviction on the patient. We have to give him a certain amount of freedom. You can't wrest people away from their fate, just as in medicine you cannot cure a patient if nature means him to die. Sometimes it is really a question whether you  are allowed to rescue a man from the fate he must undergo for the sake of his further development. You cannot save certain people from committing terrible nonsense because it is in their grain. If I take it away they have no merit. We only gain merit and psychological development by accepting ourselves as we are and by being serious enough to live the lives we are trusted with. Our sins and errors and mistakes are necessary to us, otherwise we are deprived of the most precious incentives to development. (p. 147)


こういったユングの方針は、冷たくも思えます。しかし、周りの者(特に権力者)が当事者の意思にお構いなくいわば父権主義的に当事者を自分の苦労から引き離してしまうことこそが、実は当事者にとっては冷たい自己満足的な行為なのかもしれません。一知半解のユング読解から単純な結論を引き出すことは危険ですが、治療者や教育者が自らの「善意」に対する懐疑をもつこと、そして当事者の人生に対する敬意を忘れないことは、重要なことではないかと私は考え始めました。

拙訳:
どんな人の中にも、自分にとって正しいものを選ぶことを手助けしてくれる意志があるのだと私は信じています。ある人を治療している時、私はその人を私の見解や私の性格で打ちのめしてしまわないように細心の注意を払わなければなりません。なぜならその人はその人の生涯を通じて一人で戦い続けなければならないからです。ひょっとしたら、その人の鎧は不完全きわまりなく、目的も欠点だらけかもしれません。私がそこで「それは駄目だ。もっといいものにしなければ」と言ってしまえば、私はその人から勇気を奪ってしまうことになります。その人は自分の畑を耕すのに、ひょっとしたら駄目な鍬しかもっていないのかもしれません。私の鍬の方がよいものなのかもしれません。しかしその人にとってそれが何だというのでしょう?その人は私の鍬をもっているわけではないのです。それをもっているのは私であり、その人は私の鍬を借りることはできないのです。その人はその人自身のおそらくは不完全きわまりない道具を使わなければならず、それがどんなものであれ自分が受け継いだ才能でもって働かなければならないのです。もちろん私は手助けします。例えば私はこう言うかもしれません。「あなたの考え方はまったくもってよいものです。でもひょっとすれば別の観点からすれば、あなたにはまだ進歩の余地があるのかもしれません」。しかしもしその人がこのことばに耳を傾けようとしないなら、私はこの助言にこだわりません。その人が自分の運命から逸れてゆくことを私は望まないからです。

原文:
I trust that there is a will to live in everybody which will help them to choose the thing that is right for them. When I am treating a man I must be exceedingly careful not to knock him down with my views or my personality, because he has to fight his lonely fight through life and he must be able to trust in his perhaps very incomplete armour and in his own perhaps very imperfect aim. When I say, 'That is not good and should be better', I deprive him of courage. He must plough his field with a plough that is not good perhaps; mine may be better, but what good is it to him? He has not got my plough, I have it and he cannot borrow it; he must use his own perhaps very incomplete tools and has to work with his own inherited capacities, whatever they are. I help him of course, I may say for instance: 'Your thinking is perfectly good, but perhaps in another respect you could improve'. If he does not want to hear it, I shall not insist because I do not want to make him deviate. (p. 148)


(3) 改めて当事者研究について考える

今回のユング『分析心理学』再読が、自分が当事者研究のファシリテーターをしてからの反省に端を発するものであることは冒頭で述べたとおりですが、今回の読書を通じて、当事者研究の15の原則のうち、「自分自身で、共に」、「"治す"よりも"活かす"」、「初心対等」、「主観・反転・"非"常識」などについて考え直す機会を得たと思っています。

特に「自分自身で、共に」については、当事者自身の人生について、当事者自身(狭義の当事者)が主体性を保ち、周囲の者(広義の当事者)がその人生への敬意を忘れないことが大切であるように思います。

「"治す"よりも"活かす"」については、人間の「正常化」 (normalization) よりも、「個性化」 (individuation) を大切にすることに重きを置く価値観について考えさせられました。ひょっとすると教育や治療といった営みは、人間の「正常化」と「個性化」という対立軸で考えると面白いかもしれません。

ただ「正常化」も「個性化」も大きな概念です。「正常化」についてはフーコーや(ノート作成が途中で止まってしまっている)ローズの論考を参考に考えてゆきたいですし、「個性化」についてはそれこそユングの重要概念ですから、これからよく勉強せねばなりません。

Introduction of The End of Average by Todd Rose (2017)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2018/03/introduction-of-end-of-average-by-todd.html
平均の発明 Ch.1 of The End of Average by Todd Rose (2017)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2018/03/ch1-of-end-of-average-by-todd-rose-2017.html
いかにして私たちの世界は標準化されてしまったのか Ch.2 of The End of Average by Todd Rose
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/04/ch2-of-end-of-average-by-todd-rose.html

「初心対等」については経験を積んだものが謙虚になる意識的な努力の重要性、「主観・反転・"非"常識」については支配的な世間の価値観に呑み込まれてしまわないことの重要性について考えさせられました。


追記
以下のユングのことばは、内向型直観-思考タイプの私にとって非常に共感できるものですので、ここに引用しておきます(笑)。

拙訳:
しかしどうなったら私が神経症的になってしまうかについては私はよくわかっています。自分自身に基づかないことを語ったり信じたりすると私は神経症的になってしまうのです。私は自分で見て理解したことを語ります。誰かがそれに同意してくれれば嬉しく思いますが、もし誰もそれに同意しなくても別にかまいません。

原文:
But I know exactly how I could make myself neurotic: if I said or believed something that is not myself. I say what I see, and if somebody agrees with me it pleases me and if nobody agrees it is indifferent to me. (p. 141)


同じようなことばは、以前、ジャズミュージシャンのパット・メセニーが言っていたことも思い出します。

こういった傾向は、内向型の特徴の一つでしょうから、私としてもこういった自分の傾向を自覚した上で、外向型の態度を少しずつ学ばねばと思います。






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C.G.ユング著、小川捷之訳 (1976) 『分析心理学』 みすず書房
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小川洋子・河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』新潮社
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河合隼雄 (2009) 『ユング心理学入門』岩波現代文庫
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