2019年1月30日水曜日

向谷地生良・浦河べてるの家 (2018) 『新 安心して絶望できる人生』(一麦出版社)



この本は2006年にNHK出版から発刊された書籍に巻末インタビューを加えて再刊された本ですが、今読み返してみると、2001年に始まった当事者研究の比較的初期のあり方というか原点を確認できるようで、とても勉強になりました。

ここでは私がこの本の(再)読解から学んだ、(1) 「研究」というモードに入ることによる変化、 (2) 当事者研究と似て非なるもの、 (3) ソーシャルワーカーのあり方、という三点についてまとめてみたいと思います。


(1) 「研究」というモードに入ることによる変化

当事者は、それぞれの悩みで苦しみ、その悩みあるいは弱さが引き起こす問題で周りに迷惑をかけたり自分を嫌いになってしまったりします。そんな当事者は、周りの人たちや自分自身とのコミュニケーションもうまくゆかなくなることが多いものです。しかし、そのコミュニケーションを「研究」というモードのコミュニケーションにすることにより、さまざまな変化が生じます。ここでは五つの変化について書いてみます。引用は同書(一麦社版)からのものです。


(1.1)  当事者研究共同体での直接のつながり

まず当事者は、同じように自分の問題について当事者研究を行っている仲間とのつながりを得ることができます。これまで隠していた自分の悩み・弱さを認め言語化して他人に開示することにより、その当事者は同じように自分の悩み・弱さを開示している仲間とつながります。そのつながりによって、当事者は仲間から何らかの支援を得ることができる可能性を得ます。それだけでなく、その仲間も「自分もその当事者を支援することができる」という可能性を得ます。孤立していれば無力感に苛まされていた人たちが、当事者研究でつながることにより、助け・助けられるという相互関係に入ります。当事者の共同体は、その関係性の中に「力」 (power) (少なくともその可能性)を感じることができます。

SOSをさえ出す力があれば、十分に生きていけると私たちは考えています。(中略)「問題」を起こさないことよりも、相談する力を身につけることと、浦河流の言い方をすると「弱さの情報公開」が、地域の中で、生き抜く大切な条件になるのです。 (p. 25)

この直接の研究共同体的つながりは、これまでの当事者研究の歴史に支えられていますから、「これまでもいろんな問題があったが、なんとかしのげてきたのだから、この問題についても何とかなるだろう」というほのかな希望を生み出します。当事者は、繰り返し問題を引き起こしてしまうという絶望的な状況の中で、まさに「安心して絶望できる」わけです。


(1.2) 時代・社会のテーマに向き合っているという価値とのつながり

当事者研究は仲間という生身の人間とのつながりを作り出すだけはありません。当事者研究は、当事者が問題で苦しむ悩みを、人が人生において背負うべき苦労へと転換し、さらにはそれを自分たちが生きている時代・社会のテーマへと変化させてゆきます。当事者は、一人孤独に悩む存在という自己認識から、「弱さの情報公開」を通じて同じようにそれぞれの問題に苦しむ人たちと出会うことによって、「自分は生きる上でそれぞれの人がそれぞれのやり方で出会う苦労を経験しているのだ」というように自己認識を変えてゆきます。さらに研究を通じて、当事者の苦労の背後には、時代や社会の病ともいうべき諸要因があることに気づくと、自分がこの苦労を経験していることは、「自分はこの時代や社会がテーマとして抱えざるをえない問題を明らかにし、その改善を試みているのだ」と認識が変わります。「自分は先陣を切ってこの時代・社会のテーマに取り組んでいるのだ、この取り組みは同種の悩みを抱えている他の多くの人のためになるのだ」というようにも考えが変わります。

当事者研究とは、まさしく悩みを苦労に変え、苦労をテーマに変えていく作用をもっています。単純に病気だけを治したり、悩みを無くしたりするのではなく、生きづらさをかかえたときに、人とのつながりの中で意味をもってくる、病気そのものは無くならないかもしれないが、その苦労が意味をもって、まったく違った価値をもってくるという可能性が「当事者研究」という活動の中にあるようなきがします。 (p. 35)

自分が、直接に出会う人を超えて、まだ見ぬ同種の悩みを抱えている人たちにつながり、その人たちのためにもなるように時代・社会の抱える問題をテーマとして研究するのだという認識は、当事者をさらに力づけます。


(1.3) 「観察者」という「ヒト」と自分の悩みという「コト」の分化

「研究」というモードがもたらす変化はつながりだけに限りません。当事者の悩みを虚心坦懐に観察しようとする仲間の視線や態度はやがて当事者自身にも乗り移ってゆきます。悩みの中で何が何やらわからない状況にあった当事者も、自分の悩みを対象化できるようになります。その対象化と共に生じるのが、その対象を観察する観察者としての自分です。当事者研究の原則の一つに「ヒトとコトを分ける」というものがありますが、当事者は仲間と共に研究というコミュニケーション・モードに入ることで、当事者の悩みという「コト」とそれを抱えている当事者という「ヒト」を分化させることを学んでいると言えるかもしれません。

一人だけでかかえる孤独な作業が「研究しよう」という言葉によって、いつの間にか共同作業に変わるのです。つまり「こだわり」や、「とらわれ」の歯車が、自分のかかえる苦労への興味や関心となって、観察者の視点をもって自分自身のかかえる生きづらさに向き合う勇気へと変えられるのです。 (p. 46)

当事者は自責感情に苛まされていることが多いものですが、もし研究というモードが、当事者自身を問題から引き離すことができて、少しでも自己否定感情を軽減させることができるとしたら、それはそれだけで素晴らしいことと言えるのではないでしょうか。

関連記事
[草稿]英語教師が自らの実践を書くということ (2)―中高英語教師が自らの実践を公刊することについて―
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この論点は、座談会参加者(当事者研究実践者)一同が「うん、うん、そうだね」とうなずいた次の発言に端的に示されています。

島貫慎之:当事者研究は、研究をしようとした時点で少し楽になっているような気がします。自分のことをちょっと上から眺めるみたいな感じでやっていくと、解決はされなくても少し自分のことを客観的にみえて楽になってるような気がします。 (p. 198)


(1.4) 「コト」のスティグマを軽減し、「コト」を実験データとする

「ヒト」と「コト」を分けることができ、その「ヒト」が必ずしも否定されるべきものではないのだということが認識され始めたとしても、その「コト」にはやはり悪評・汚名(スティグマ)がついているものでしょう。しかしその「コト」とは、研究を進める上で必要なデータであると考えたら、その「コト」にも積極的な意味が出てきます。以下は座談会の中の発言です。

吉田めぐみ:昔だったら、自分だけがくだらない苦労をしていて、失敗ばっかりしてだめだと思ってたけど、当事者研究をやると、失敗するのが、失敗は怖いんだけど、失敗しても実験だからいっかっていうか、よくはないんだけど、何て言うんだろう。失敗はただの悪いものじゃなくなるっていうか。(笑) (p. 197)

この発言の後に別の参加者も同意します。

西坂自然:さっき吉田さんが言ってたけど、失敗しても大丈夫という感覚がすごく強くなってくるのと、失敗したときもこれは何かに使える材料を一個手に入れたっていう、一個だけじゃないと思うけど、いろんな材料を手に入れたっていう気持ちになれる。 (p. 199)

悩みや問題というコトが、実験データや研究の材料であるとしたら、そのコトが増えるということは確かに困ったことではあるのですが、他方で、研究を進める支えにもなります。このスティグマの軽減も当事者にとって大きな力になるでしょう。


(1.5) 自分自身に対する新たな認識

当事者研究を新たに取り入れたいと考えているある病院は、「当事者研究をやると今まで知らなかった自分が見えてきて辛くなるのではないか」という懸念を抱いたそうです。その問題提起を受けて、参加者の一人はこう言います。

斉藤優紀:自分も、やさしくない自分に気づくんですけど、やさしくない自分が私はものすごく好きだし、必要だったんですよ、私には。誰にでもやさしくしなきゃと思うから、自分はずっと苦しかったんですけど、ああ、意外とそんなことなかった、みたいな。 (p. 208)

ここで我流のユング風の解釈を差し込むなら、自分の弱さあるいは悩みは、自分自身(自己)の未発達領域(「影」)であり、それは時に、夢や白昼夢や幻聴、あるいは「おそろしく嫌な人物」(しばしば同性)として顕在化します(「おそろしく嫌な人物」は、自分の未発達領域(「影」)が投影されているからその人にはそのように映るわけです)。そこまで極端ではないにせよ、一般に、自分が不得意としていること(自分がこれまで見ようとしてこなかった「影」)は、嫌なものでしょう。しかしそれを自らの発達課題として正面から見据え、自分を再構築することが人間としての成長と考えられます。

C.G.ユング著、小川捷之訳 (1968/1976) 『分析心理学』 みすず書房
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/01/cg-19681976.html

上の斉藤さんは、当事者研究によって、これまで自分が「影」としていた「やさしくない自分」に出会いましたが、その「やさしくない自分」は実は自分にとって必要な自分であることに気づきそんな自分も愛し始めます。この変化も「研究」というモードがもたらす変化だと私は考えます。(注)。

(注) ユングは心理療法 (Psychotherapie / psychothrapy) の四段階を、告白、解明、教育、変容 (Bekenntnis, Aufklärung, Erziehung, und Verwandlung / cofession, elucidation, education, and transformation)と説明していますが、この本の「救急車の乗り方の研究」(福島孝 協力:伊藤知之・向谷地生良) (pp. 164-176) はその見事な例示となっているようにも思えます。 「現代の心理療法の問題」 (pp. 27-64) C.G.ユング著・横山博監訳・大塚紳一郎訳 (2018) 『心理療法の実践』みすず書房に所収。(ドイツ語・英語でのユング全集では第16巻に所収)




(2)  当事者研究と似て非なるもの

この本から学んだもう一つのことは、当事者研究をよく理解していない人がやってしまう当事者研究とは似て非なるものです。それは端的に言うなら、「アドバイスという名の説教」 (p. 206) となります。たとえ善意からとはいえ、問題解決を急ぎ、当事者を理解することなく周りの人がその人自身の方法およびその背後にある価値観を押し付けてしまうことです。

座談会で斉藤さんも次のように述懐しています。

斉藤優紀:私は理念みたいなのがちゃんと自分に染み込んでいないときに、ひたすら問題を解決するための当事者研究とか、自分を無理させる研究みたいなのになっちゃったことがあって、何を研究するかのところで、結局、自分を大事にしないと、何か変になって苦しくなりましたね。 (p. 205)

実は、私も似たようなことをやってしまったので、「アドバイスという名の説教」だけはしないように心がけたいと思います。

関連記事
当事者の弱さや苦労を他人が代わりに解決することについて -- ユング『分析心理学』再読から当事者研究について考える --
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(3) ソーシャルワーカーとしてのあり方

あと、この本で非常に面白かったのは、今回の再刊に際して新たに付け加えられた対談で表明された、向谷地生良先生のソーシャルワーカーとしてのあり方です。カーリングの吉田知那美選手が好きな言葉として「安心して絶望できる人生」をあげていたことをきっかけにして行われた向谷地先生と吉田選手とのこの対談の中で、吉田選手は「カーリングは相手との接触がないので実際に戦っているのは自分たち自身である」、「自分たちの自己コントロールが一番キーになるスポーツである」といった趣旨の発言をします。それを受けて向谷地さんはこのように言います。

なるほどね。そういう面では、私はソーシャルワーカーなんですけど、非常に似た世界かもしれないですね。いろいろな人の困りごとの相談にのったり、複雑で揺り動く人間関係の中で、人の安心や生きやすさを実現するワーカーのしごとも、行き着くところは、自分とのつきあいが結果を左右します。 (p. 216)

カーリングとソーシャルワークでは、自分の「無力さ」を大事にすることも似ているのではないかと、向谷地先生は言います。

向谷地:ソーシャルワーカーの仕事でも、私は「無力さ」ってことを大事にしてるんですけど、前向きに「無力」であるからチームでやっていけるし、いい意味でプレイヤーとしても「無力さ」っていうものを認めあっているから一人で頑張らないで、ああいう「対話」が生まれたり、試合ができるのかなって私も思ったんですね、すごく似てるなって思って。そのへんはいかがですか?

吉田:いや、本当に私たちもそれを大事にしていて、その「無力さ」っていうフレーズはいま聞いて「あっ」て思って、真似したいなって思ったんですけど。(笑) (pp. 222-223)

「自分とのつきあい」を丁寧に行い自分の「無力さ」を自覚するということは、やや手垢にまみれた言い方をすれば「エゴを捨て謙虚になる」となるのかもしれません。表現はともかく、そのような認識で人が集まれば、一人でも不可能だとしか思えなかったことにも何とか対処方法が見つかるということが当事者研究(そして吉田知那美選手が認識するカーリング)が教えてくれることなのかもしれません。



 



追記
実はこの記事は、学会口頭発表準備の一つとして行いました。


中川篤・柳瀬陽介・樫葉みつ子 

弱さを力に変えるコミュニケーション:
関係性レジリエンスの観点から検討する当事者研究

言語文化教育研究学会第5回年次大会
2019年3月9日(土) 13:15-13:45
早稲田大学早稲田キャンパス3号館709教室

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ご縁がありそうでしたら、ぜひお越しください。



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8/25(土)14:00から第8室で発表:中川・樫葉・柳瀬「英語科教員志望学生の被援助志向性とレジリエンスの変化--当事者研究での個別分析を通じて--」(投影資料・配布資料の公開)
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