2019年1月30日水曜日

向谷地生良 (2009) 『技法以前 --べてるの家のつくりかた』医学書院


当事者研究や心理療法といった領域はある意味、究極の人文系の知恵の宝庫かなとも最近思っています。自然科学のように割り切って (rationalに)知識を伝えることができませんが、容易には割り切れないこと (the irrational) を丁寧に語る人文系の書物は、読者にテクストの意味の可能性を感じさせ想像させ、さらには(疑似)追体験させ、読者に徹底的に考えさせます。ですから人文系の書物は、速読することができません。読者は、語られたことばを丁寧に読みながら自分自身の積極的な解釈生み出してゆきます。

関連記事
3/11の学会発表スライド:なぜ物語は実践研究にとって重要なのか―仮定法的実在性による利用者用一般化可能性―
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/03/311.html

その意味で、この本も速読を許さない本でした。私はずいぶん前にこの本を読んで沢山のハイライトも引いていたのですが、ブログ記事にはまとめていませんでした。他の本と同じように多忙の中でまとめる時間を失ってしまったというのがその理由でしょうが、ひょっとしたら当時の自分はきちんとまとめることができなかったのかもしれません。ソーシャルワーカーとしての向谷地先生の実践が、安直なまとめを許さない深いもので、読者としての私にそれなりの経験や想像力を必要とするからです。

もちろん学会発表のために読み直した今回の読解でも、私はこの本を十分に消化したとは言えません。むしろ読めば読むほど、これまで「そんなに深刻に考えずとにかくやってみれば?」ぐらいに思ってきた当事者研究の奥深さを感じました。

以下のまとめは、当事者研究の表面をひっかくようなものにすぎませんが、学会発表の準備の一つとして、そして私なりにも実践を深めるための備忘録として書くものです。


この本のタイトルは「技法以前」で、帯には大きく「私は何をしてこなかったか」と書かれています。こういった実践においてはとかく「何をするべきか」という技法が語られますが、向谷地先生はそういった技法以前に、「<当事者>と<場>のもつ可能性を信じ」 (p. 5) ることが大切だと語ります。「それを信じることができないままに、問題解決の切り口をほかに探そうとするところに行き詰まりが生じる」 (p. 5) というのが向谷地先生の見立てです。「何をしなければいけないか」ではなく「何をしてはいけないか」という発想でこの本はまとめられています。

してはいけないことの一つは「神の手にならない」ことです。援助者には常に「問題解決の神の手になろうとする誘惑と、神の手になってほしいという当事者や家族からの期待」 (pp. 31-32) があります。しかし「当事者自身が、"自分を助けること"を助ける」 (p. 24) のが、援助者の基本です。支援者が当事者を一方的に支配・保護・管理して「神の手」のように当事者の問題をたちどころに消し去ってしまっては、当事者は「苦労を奪われて」しまいます。

この場合の「苦労」とはそれぞれの人間が生きる上で経験しなければならない経験であり、「生きることの意味」の源泉でもあります。 (p. 38) 当事者は「苦労を取り戻す」ことにより「自分を取り戻す」ことができます。そうして自分を取り戻してこそ、当事者は「人とつながる」ことができます。当事者から自分自身を奪い去り人とつながる機会も奪い去ってしまうような一方的で過剰な支援は支援者がやってはいけないことです。

関連記事
当事者の弱さや苦労を他人が代わりに解決することについて 
-- ユング『分析心理学』再読から当事者研究について考える --
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/01/blog-post.html

当事者研究の支援者はそういった過剰な介入はしません。ではまったく何もしていないかといえばそうではなく、支援者は、当事者と当事者の共同体という場の可能性を「信じる」わけです。この「信じる」とは、具体的な証拠を確認してからの「信用する」とは異なります。「《信じる》という態度は、目に見えず、将来的な好転や可能性を引き出すのは困難であるという状況のなかで、にもかかわらず私たちが希望をもって見ようとするような振る舞い方である」 (pp. 51-52) と向谷地先生は述べます。つまり「根拠なく信じる」 (p. 52) こと、「期待の先取り」をせずに「困難な現実を生き抜くことの主役を当事者に"まかせる"」 (p. 71) ことです。

かくして支援者は当事者を「苦労の主人公」とするべくいろいろな工夫をします。その一つは身体的な実感や手応えが失われ形骸化してしまったような「傾聴」はしないことです。95ページでは向谷地先生の「五分で話が終わる方法」が示されていますが、ここで大切なのは、支援者が当事者の感情の受容だけにとらわれてだらだらと長時間聴いてしまわないことです。支援者は、当事者のさまざまな行動が「自分を助ける」ことであることを指摘し、もっと上手な「自分の助け方」を研究して、同じような苦労をしている人の役に立ってはもらえないだろうかと提案します。当事者の苦労を一方的に取り去ることはせずに、当事者を「苦労の主人公」としてその人の人生を取り戻させ、他人につながるように仕向けます。これが支援者が 「為している無為」です。

そうやって当事者が自分の人生の主人公として、他の仲間と共に当事者研究を行うようになれば、支援者もその他の当事者の仲間に混じって、一方的に傾聴するのではなく、一緒に考えながら聞きます。この「一緒に考えるという聴き方」について、当事者研究の実践者である西坂自然さんは次のようにまとめています。少々長い引用となりますが、私が勝手に要約したくない文章ですから、そのまま引用します。

 一方的に聞き役にまわられると、相手の存在が見えなくなります。相手がどういう人間なのか、どんなふうに考えるタイプの人なのかが見えません。すると、しゃべったことが一方通行になって問題が自分に返ってこないのです。どんな形でもいいからその人がどう考えるのか、どう思ったのか返してもらわないと、その次の「自分で考える」「自分で動いてみる」作業ができないのだと思います。

 一緒に考えてくれるときの相手は、いつも自分と同じ目線の高さにいます。上から言われる感じも下から言われる感じもしません。「同じ目線だ」と感じます。それに「これが人間だ」と思ってうれしくなります。しかも「こんなちっぽけな自分のことを一緒に考えてくれるのはなぜか」とも思います。

 でもそうやって同じ目の高さで話してくれているうちに、私は「ああ、自分はそんなにちっぽけなものじゃなかったのかもしれない。こんなふうに一緒に考えてくれるということはこの人は自分の存在も自分のできる力も信じてくれているし認めてくれているんだ」と思います。だから一緒に考えてくれる相手が現れると、同時に自分が現れることになるのです。けっきょく人間は、人間がいないと、自分がいるということに気づかないのかもしれないと思います・・・。 (pp. 116-117)

かくして当事者研究では、一緒に考える聴き方を通じて、当事者の「自分の感情をどうにかしたい」という欲求と「問題を解決したい」という欲求 (p. 113) に応え、さらには、当事者が一人の人間として生きているという実在感 (reality) を感じたいという根底的な欲求にも応えます。もちろん当事者の欲求に応える支援者や仲間も、同時に自分という人間の実在感を感じていることは間違いありません。

ところで当事者研究の成立には向谷地先生の存在だけでなく、「治さない、治せない精神科医を目指しています」と標榜する川村敏明先生の存在も大きく関わっています。そんな川村先生があるときデイケアの七夕行事の短冊に書いたのは「病気でしあわせ、治りませんように」というきわめて逆説的なことばでした。(p. 211)

川村先生は処方する薬をできるだけ減らす精神科医ですが、それは当事者にとっては「苦労が増えた方がいい」と考えているからです。そう考えるのは、この本の巻末で向谷地先生・川村先生と対談しているリンゴ農家の木村秋則氏の表現を借りるなら、苦労が当事者の「自然の力を呼び覚ます」からです。

関連記事
自然栽培的な教育? ― 杉山修一 (2013) 『すごい畑のすごい土 ― 無農薬・無肥料・自然栽培の生態学』幻冬舎新書を読んで
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2013/08/2013.html

木村氏の自然栽培(無農薬・無施肥栽培)についてここでは詳しく述べませんが、植物(リンゴ)と土壌がもつ本来の力をできるだけ発揮してもらうため、農薬や肥料などをできるだけ与えないというのが基本的な考え方です。そうはいっても、そんな自然栽培にもいろいろなノウハウがあるでしょう。そんなノウハウを知りたいという要望に対して木村氏は「答えは自然の中に無数にある」と答えるそうです。 (p. 212)

答えは木村氏の頭の中にあるわけでもなく、ましてやどこかのマニュアルの中にあるわけでもないわけです。「謙虚な姿勢で自然を観察する中で、答えは自ずから出てくる。しかもその答えは一つだけではなく無数にある。それほどに自然は豊かである」というのがこのことばの背後にある思想だと私は解釈しています。

それでは「当事者の自然がもっている力とは何でしょう」。もっと一般化して言ってもいいかもしれません。「人間にとっての自然とは何でしょう」。実はこの問いは武術家の甲野善紀先生が立てた問いでもあります。近代社会の中であまりにも人工的な環境を作り出してしまった人間は、自らの自然な状態を忘れつつあります。当事者研究が取り戻す「自然の力」が、苦労があったとしても仲間と共に何とかそれに対処して成長することを目指す力だとしたら、社会的動物としての人間の本来の姿は、孤立して個人的な力を蓄える近代的人間像とは異なり、互いに気持ちを通わせることによって力を得て困難に打ち克ち成長するといった人間像なのかもしれません。

そういった人間像を、下の学会では「関係性レジリエンス」の考え方に求めて、当事者研究というコミュニケーションについての解明を進めたいと思っています。発表を聞きに来てくださったらとても嬉しく思います。



中川篤・柳瀬陽介・樫葉みつ子 

弱さを力に変えるコミュニケーション:
関係性レジリエンスの観点から検討する当事者研究

言語文化教育研究学会第5回年次大会
2019年3月9日(土) 13:15-13:45
早稲田大学早稲田キャンパス3号館709教室

大会情報
プログラム







当事者研究の関連記事

浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」』(2005年,医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2005.html
浦河べてるの家『べてるの家の「非」援助論』(2002年、医学書院)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/07/2002.html
当事者が語るということ
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/09/blog-post_4103.html
「べてるの家」関連図書5冊
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/11/5.html
綾屋紗月さんの世界
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/12/blog-post.html
熊谷晋一郎 (2009) 『リハビリの夜』 (医学書店)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/04/2009.html
英語教師の当事者研究
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/09/blog-post_8.html
熊谷晋一郎(編) (2017) 『みんなの当事者研究』 金剛出版
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/08/2017.html
樫葉・中川・柳瀬 (2018) 「卒業直前の英語科教員志望学生の当事者研究--コミュニケーションの学び直しの観点から--」
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/08/2018.html
8/25(土)14:00から第8室で発表:中川・樫葉・柳瀬「英語科教員志望学生の被援助志向性とレジリエンスの変化--当事者研究での個別分析を通じて--」(投影資料・配布資料の公開)
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/08/82514008.html
第15回当事者研究全国交流集会名古屋大会に参加して
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/10/15.html
マジョリティの当事者研究
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/10/blog-post.html
國分功一郎 (2017) 『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/10/2017.html
熊谷晋一郎 (2018) 『当事者研究と専門知 -- 生き延びるための知の再配置』(金剛出版)
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/10/2018_20.html
当事者研究のファシリテーター役をやってみての反省
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2018/12/blog-post.html
当事者の弱さや苦労を他人が代わりに解決することについて -- ユング『分析心理学』再読から当事者研究について考える --
https://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/01/blog-post.html
向谷地生良・浦河べてるの家 (2018) 『新 安心して絶望できる人生』(一麦出版社)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/01/2018.html
向谷地生良 (2009) 『技法以前 --べてるの家のつくりかた』医学書院
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2019/01/2009.html





0 件のコメント: