2010年1月21日木曜日

凝縮した知識を処理する英語力

凝縮した知識は、精選した内容を稠密な文体で表現することにより処理される。他方、散漫な情報は、未整理な内容を冗長な文体で提示することにより処理される。

凝縮した知識の処理は、高いレベルの関連性 (Relevance) が保たれている。つまり読む労力 (effort) に相応しい読む成果 (effect) が得られるようになっている。語られ執筆される文章は、傾聴し熟読する価値があるものである。読めば多くの知識が得られるからだ。

他方、散漫な情報の処理は、関連性が保たれていない。多くの量を読まされるという労力を払っても、それに相応しい成果が得られない。話され書かれる文章は、聞く価値も読む価値もない。たいした内容がないからだ。

高度知識社会において言語力 ―近年は特に英語力― が必要であると言う場合、そこで意味されているのは凝縮した知識を処理する言語力である。散漫な情報を処理する言語力は言語力の発達過程で見られるにせよ、それは克服されるべきものであり、高度知識社会ではそれだけでは不十分だ。早い話が、下らぬことをクドクドと話す人や、短くまとめられるはずのことを要領を得ぬやり方でダラダラと書く人は、歓迎されない。言語が英語でも同じで、つまらないことをペラペラ話す人は英会話学校ではホストである教師に絶賛されるかもしれないが、現実社会では「うるさい。だまれ」と言われるだけである。とにかく英語を多く書くことは中・高の学習過程では推奨されても、現実社会で冗漫な文書を書けば突き返されるだけである。育てるべき言語力・英語力は、凝縮した知識を処理する言語力・英語力である。

ところが問題がある。凝縮した知識を処理する言語力・英語力を育てるためには、狭義の言語・英語の訓練だけでは不十分である。もちろん狭義の言語・英語訓練は必要不可欠で、漢字の読み書き、英語の音読・書き取り・シャドーイング・ディクテーションなどに学習者は多くの時間を費やし自らの心身に基礎的な言語・英語力を叩き込まなければならない。しかしその訓練は本当の基礎に過ぎない。

凝縮した知識というのは、多様な具体的現実をごくわずかの抽象的原理に結晶化したものである。凝縮した知識を処理するというのは、結晶化された抽象的原理を読んで、それを様々な具体的現実に翻訳できることである。「ああ、例えばこういうこと、あるいはああいうことか」と原理を現実に展開できることである。さらに多様な具体的現実を観察して、その多様性に惑わされず「なるほど、つまりはこういうことか」と具体的現実を抽象的原理に還元できることである。抽象から具体へ、具体から抽象へというこの往復運動が自在にできることが凝縮した知識を処理することだ。

この往復運動の射程が長ければ長いほど、知識処理効率は高い。高い抽象度の知識を操れるものは、その高みから一気に現実の大地へ降りることができる。大きな正三角形を想像して欲しい。頂点のたった一点からその人は長い底辺を俯瞰できる。逆に長い底辺も頂点のたった一点で統合することができる。他方、凝縮度の低い知識とは小さな正三角形である。頂点の一点が支配力を持つのは短い底辺に過ぎない。

凝縮度の高い知識を処理するということは、大きな正三角形の頂点を支配するということである。1の抽象的原理を理解することで100の具体的現実を理解できる。凝縮度の低い知識を処理するということは、小さな正三角形の頂点を支配することである。1の原理を理解しても、それで理解できるのは2に過ぎない。

そうなると「同じ量」の言語を処理するにせよ、凝縮度の高低で、言語処理の成果は大きく違ってくることがわかる。凝縮度の高い知識が表現された言語・英語を処理すれば、1の言語・英語処理で100の現実理解が得られる。凝縮度の低い知識の言語・英語処理なら1の言語・英語処理で2の現実理解しか得られない。となるともし課題が100の現実理解を得ることなら、凝縮度の高い知識を表現した文章を処理できる者なら1の時間でその課題を達成し、凝縮度の低い文章しか処理できない者は ―ここでの例で計算するなら― 50の時間をかけなければならない。

となれば高度知識社会における言語力・英語力の教育とは、基礎的な言語・英語訓練を基盤にして、高い凝縮度の知識を言語で処理できるようにすることとなる。抽象的な文章を理解してそれを「例えば・・・」と具体的な事例に当てはめる。逆に散乱する具体的現実は「つまり・・・」と抽象的な文章に昇華できる。さらにその抽象と具体の間の往復を、様々な距離で自在に行なう。時に思い切った抽象化もすれば、時に適度な抽象化で読者の具体的理解を促進する。時に適度な具体化もすれば、時に詳細な具体化で読者に抽象的理解の力の大きさを感得させる。言語・英語教育は、多くの具体性に根差した高い抽象性をもった文章の処理を目指さなければならない。

ひるがえって現在の日本の言語・英語教育はどうなっているだろうか。国語教育については私はほとんど知らないが、英語教育については、高等学校の新指導要領では「英語の授業はすべて英語で」というのが推奨されている。全国津々浦々の高校の研究授業で指導主事が教師に「できるだけ日本語は使わないように」と「指導」するのだろう。

だがこの方法ではたして高校生は、大学で論文が読めるぐらいの高度な英語力がつくのだろうか。愚にもつかない文章を読んで、その概要をまとめ、自分の意見を書くなどといった散漫な情報処理のための英語力ではない。凝縮した知識を処理できる英語力がつくのだろうか。日本の現状において日本語を禁止するような英語授業を強行すれば、それは結果的に口先も頭も「ペラペラ」の学習者だけしか育てられないような結果にはならないだろうか。

ひょっとしたら大量の入門レベルの英語を読み ―例えば100万語読解の実践を思い起こしてほしい― 順次英語のレベルを上げることにより、「英語だけ」の授業で高度な英語力もつくのかもしれない。だがその際の英語の量というのは、現在の教科書の分量とは比較にならない大量のものだろう。現実にそれだけの教材を全国的に提供できる手だては現在ない。またそのような大量の英語を扱う教育に関しては、私も含めてほとんどの英語教師が経験知をもっていない。教師が経験知をもっていない教育法を全国的に展開することはできない。それでは他の方法で、日本というEFL環境の中でも特に母国語の力が強い状況で「英語しか使わない英語授業で」凝縮した知識を処理できる英語力は育成できるのだろうか。繰り返していうが散漫な情報を処理する低いレベルの英語力ではない。高いレベルの英語力の話をしているのだ。私は寡聞にしていい方法を思いつけない。

だが日本では幕末以来、最近では悪くしか言われない「文法訳読式」で少なくとも少数の人間に ―といっても日本を繁栄させるには十分な数に― 凝縮した知識を処理できる高いレベルの英語力をつけさせてきた。これは事実である。知的凝縮度の高いいわゆる「名文」を前にして、自らの最良の理解媒体である日本語を駆使して、その英語の内容理解を明示化しようとする 。その理解の明示化を独自の読み物にしたのが「翻訳」であるが、翻訳作品をつくり出すまでにはいかないにしても、「母国語との格闘」 (渡部昇一) とも表せるような知的訓練を通して凝縮した知識を表現した英語を精確に理解することを学んだ。それは高いレベルの英語力を獲得すると同時に、おそらくは高いレベルの日本語力を身につける過程であった。日本におけるこの英語教育の伝統にはたとえ修正・改善されるべき点があったとしても、それは全面否定され破棄されるべきものではないだろう。

となれば、国レベルで大きな教育方針を提示するならば、この歴史的事実に基づきながら、伝統的教授法に必要な修正を加える程度のことが賢明というものだろう。日本語をうまく利用し、文法関係と解釈の機微の精密な説明を日本語で行ないながら、音読やシャドーイングなどの訓練を拡充する。その基盤の上で「コミュニケーション」を試みる。つまりは、経験的にうまくいっている方法を精選して時間を捻出し、そこにここ20年ぐらいで培ってきた訓練的な要素、コミュニケーション的な要素を付け足す ― それが現実的な態度ではないだろうか。

新しい指導要領の「英語だけでの英語授業」の強調は、高度な英語力の養成についてどういった見解を持っているのだろうか。まさか「オール・イングリッシュならいかにも英語の授業らしく見える」といった俗見に迎合したわけではあるまい。新指導要領の責任者は、どんな根拠で幕末以来の日本の英語教育の知見を全面否定しようとしているのだろうか。

あるいは私が気になっているのは、ある時に聞いた文部科学省関係者の発言だ。その人は「私も今でも毎日iPodでCNNニュースを聞いている。ペーパーバックで小説も電車の中で読んでいる。こういったものはぜんぶきちんとわからなくてもいいんです。ニュースは概要がわかればいい。小説はだいたい楽しめればいいんです」と自分の毎日の英語体験を力説していた。

たしかに私も自らの英語習得過程で、そのような訓練というか習慣も自らに課した。今でもそのように「だいたいの理解・とりあえずの娯楽」を求めるために英語に接する機会も多々ある。これはいわゆる「英語好き」がよくやることである。しかしそれだけが英語処理ではない。

日本でもっとも英語力を必要としているのは理系の人間とビジネスの人だろうが、彼/彼女らは精確に英語を処理しなければならない。実験手順を間違うわけにはいかない。取引の条件交渉をいいかげんにするわけにはいかない。彼/彼女らには凝縮した知識をきちんと (できれば高速に) 処理する英語力が必要なのだ。英語教育を英語好きの英語道楽的な発想だけでデザインすることは許されない。

真相はわからない。新指導要領起案者は「授業は英語で行なうことを基本とする」という宣言で何を狙ったのだろうか。しかしある意味、起案に関する裏事情などはもはや問題ではない。この文言は今や公的文書になったからだ ―しかし、断じて「法律」ではない!! 指導要領の「法的性格」についてはこれから成熟した議論が必要だろう―。

この「英語の授業はすべて英語で」という宣言 (あるいは布告) は日本の英語教育の現実をどう変えてゆくのだろう。日本の英語教育の現実はこれにどう影響されるのだろうか。それとも現実はまたも公的宣言を「タテマエ」として呑み込んでしまうのだろうか。これから高校・大学での英語教育方針を、英語教育関係者がどう見定めてゆくか。英語教育関係者の見識が問われている。





関連記事

知的訓練としての文法訳読 (2008/4/7)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/04/blog-post_07.html

高等学校学習指導要領(外国語)へのパブリックコメント提出 (2009/1/14)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/01/blog-post_14.html

寺島隆吉(2009)『英語教育が亡びるとき』明石書店 (2009/10/2)
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/10/2009.html

江利川先生のブログ記事 (2010/01/14) ―あるいは 「コミュニケーション重視」という誤ったスローガンで退化した英語教育について ―
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/01/20100114.html



追記
この記事を掲載した直後に目にしたコラムに次のような一節がありました。


John Hagel, the noted business writer and management consultant argues in his recently released “Shift Index” that we’re in the midst of “The Big Shift.” We are shifting from a world where the key source of strategic advantage was in protecting and extracting value from a given set of knowledge stocks — the sum total of what we know at any point in time, which is now depreciating at an accelerating pace — into a world in which the focus of value creation is effective participation in knowledge flows, which are constantly being renewed.

OP-ED COLUMNIST
Is China an Enron? (Part 2)
By THOMAS L. FRIEDMAN
Published: January 19, 2010
http://www.nytimes.com/2010/01/20/opinion/20friedman.html?ref=opinion


私が上で言う「凝縮した知識を処理する英語力」とは、stockよりもflowの状態でより重要になることは言うまでもありません。


【広告】 吉田達弘・玉井健・横溝紳一郎・今井裕之・柳瀬陽介編 (2009) 『リフレクティブな英語教育をめざして ― 教師の語りが拓く授業研究』 (ひつじ書房) には凝縮した知識がいっぱいですよ (笑)






0 件のコメント: