2009年10月2日金曜日

寺島隆吉(2009)『英語教育が亡びるとき』明石書店

***広報***
「ナラティブが英語教育を変える?-ナラティブの可能性」
(2009/10/11-12、神戸市外国語大学)

第1日目登壇者:大津由紀雄、寺島隆吉、中嶋洋一、寺沢拓敬、松井孝志、山岡大基、柳瀬陽介
第2日目コーディネーター:今井裕之、吉田達弘、横溝紳一郎、高木亜希子、玉井健


***広報***





この本は読み始めるや、他のやらなければならない仕事もさておき、一気に読んでしました。時期的に非常に重要な英語教育の問題を、具体的に、しかも広い視野から指摘しているからです。

この本は現在、多くの英語教育関係者によって読まれ、この本が提起している問題をきちんと検討するべきだと私は強く思いました。

したがって、この本の内容を少しでも伝えるため、私は以下に、私なりのこの本の内容の再構成を試みました。再構成は、理解しやすいように論文の書き方(背景-問題-方法-結果-結論-課題)に基づきました。

とはいえ、再構成は、本書の内容の中で私が重要と思った論旨に限ったもので、なおかつ、再構成の際に私自身の解釈や言葉遣いが混入していますので、私はこの再構成をこの本の忠実な要約とは考えていません。私なりの内容紹介とお考え下さい。



本書の主内容の再構成


背景
高校英語の新しい学習指導要領の「授業は英語で行なうことを基本とする」に関しては、各種の懸念が表明されているが、英語教育有識者はこれが騒がれたのは「マスコミの誤解」によるものであり、「授業は英語で行なうことを基本とする」というのは新指導要領の主眼ではないとして、事態の沈静化を図っている。


問題とリサーチ・クエスチョン
しかし新指導要領を検討する限り、「授業を英語で行なうこと」はやはり新指導要領の重要部分であり、むしろマスコミはきちんと報道したと言える。このことからすれば、逆に英語教育有識者の言説の方こそが批判的に検討されるべきである。はたして英語教育有識者の言説および新指導要領は、日本の現状を的確に捉えたものであろうか?


方法
英語教育の有力メディア2つにそれぞれ掲載された、英語教育有識者の記事(1つはインタビュー、もう1つは座談会)および新指導要領を、各種データや文献が示す日本の現状によって精査し、かつ記事と指導要領自体の整合性を検討する。


結果
(みなさん、それぞれにお読みになって確かめて下さい)


結論
新指導要領は矛盾にみちたものである。「英語で行なう授業」を前面にふりかざした指導要領が、生徒の知的レベルや知的関心に合わない教科書を生み出し、その結果、生徒の学習意欲を削ぎ、ますます英語学力を低下させることが懸念される。


今後の課題
今回の検討は、制度化された権力によるメディア・コントロールへの批判的抵抗の一つとしてとらえることができる。チョムスキーが言うように「俗説に賛成するには5分で済むが、それがなぜ間違っているかを説明するには50分(あるいはそれ以上)が必要」であり、ことばの教師としての英語教師は、英語教育という自らの専門分野で、自ら批判的に読み書きする能力を高め、学習者にもその能力を伝授する必要がある。







私のコメント

以上の内容再構成に即して、私の個人的見解を述べます。

背景は、目から鱗であった。私も「授業は英語で行なうことを基本とする」に関してはパブリックコメントで懸念を表明し、事態を注視していたつもりだったが、その後の英語教育有識者の見解を聞くにつれ、これは新指導要領の柱ではなく、取り立てて問題視する必要もないと信じるようになった。しかし寺島氏の指摘により、公式文書としての新指導要領を改めて読むなら、「授業は英語で」は新指導要領の柱であることが明らかであることが判明する(私は自らの不明を恥じる次第です)。


このように関係者の懐柔的なコメントと、公式文書の文字通りの意味が異なる場合、事態はいつのまにか公式性の高い公式文書が文字通りに示すようになり、耳障りのよいコメントはいつしか消えてしまう前例はある。

したがってこの『英語教育が亡びるとき』の議論は重要な意味をもち、多くの読者によりその妥当性が検討される必要がある。


方法は、英語教師の教育環境・労働条件・教員養成なども入れた広範囲の背景から事実検証が行なわれ、かつ丁寧な引用に基づき論理的整合性を検討しており、妥当性および信頼性において適切であると考えられる。


結果は、私は数点の留保点を除いてはおおむね寺島氏の分析に賛同できた。このあたりはぜひ読者1人1人がよく考えながら読んで検討していただきたい。


結論について述べるなら、新指導要領の問題点を指摘する以上に重要なのは、私たちが確かな英語教育の学力観を持ち合わせていないこと、あるいは共有していないことを(再)認識することである。日本の英語教育が地に足のついた思考によって支えられていないことが、英語教育の最大の問題の一つである。


今後の課題のメディア・コントロールも教育上の大きな論点であるが、日本においては「政治的配慮」からこういった論点について思考停止になることがしばしば推奨されている。だがこれは民主主義の放棄であり、本格的政権交代を目の当たりにした現在、私たちは政治を敬遠するのではなく、身近なものとして語る術をこれまで以上に学ばなければならない。とはいえ、これまで培われた私たちの政治的偏見を払拭することは容易ではない。したがって、本書を読む順番としては、英語教育を扱った第2章と第3章を先に読み、英語教育というトピックでの具体的な問題を十分認識した上で、メディア・コントロールを扱った第1章を読むという順番が、多くの英語教育関係者にとっては適切かもしれない。



⇒『英語教育が亡びるとき』


⇒寺島隆吉先生の著作


⇒寺島隆吉先生のホームページ(英語教育関連)


⇒寺島研究室「別館」(平和研究関係)






2 件のコメント:

江利川 春雄 さんのコメント...

寺島先生の御著書に対する柳瀬先生の深い考察に感激しました。

私も、この本には(前著『英語教育原論』もそうですが)最初から最後まで、深い共感と知的興奮を禁じ得ませんでした。

自分のブログには以下のように書きました。
「『授業は英語で行う』などと定めた史上最悪の新学習指導要領に振り回される学校現場(とりわけ高校)に、反撃のための理論的根拠と展望を与える著作であり、まっとうな英語教育関係者の士気を鼓舞する本です。」

一度、寺島先生、柳瀬先生とこの本についてじっくり語り合いたいものですね。お酒でも飲みながら。(^_^;)

柳瀬陽介 さんのコメント...

江利川先生

コメントをありがとうございます。

寺島先生のいいところは、事実と論理をないがしろにしないことだと思います。当たり前といえば当たり前のことですが、英語教育の言説はただムードだけのものが多いので寺島先生の言説が特に目立ちます。

いつか寺島先生と共にぜひご一緒しましょう。ちなみに神戸のシンポでは、6時から懇親会を始め、寺島先生、大津先生、そして私はなんんと朝3時まで話し込んでいました(笑)。


あ、それからブログを始められたのですね。
私の記事でも紹介させていただきました。
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2009/11/blog-post_01.html

これからもどうぞよろしくお願いします。

2009/11/01
柳瀬陽介