2009年10月8日木曜日

「現実に対する理論の抵抗」

ある方から10/11のシンポに関するコメントをいただきました。その中で言われていたことの1つは「理論に対する現実の抵抗」でした。

私なりにその方の意見を言い換えますなら次のようになるかと思います。教育実践がたとえばある特定の理論だけで「実証的に説明」されてしまい、その理論に基づいて実践をすればよいだけだとなってしまう。あるいは、ある実践家が自らの迷いなども忘れてしまったままに自らの実践を理論化してしまい、誰もがその理論どおりに実践すれば教育はうまくゆくはずだと主張してしまう。そういった「スマート」な理論に対して、教師は目の前の現実と共に抵抗しなくてはならない。きれいな理論で現実を片付けてしまわずに、理論に対して自分が直面している現実をぶつけて、理論に挑戦しなければならない―私はそのように理解しました。

私も賛同します。教育実践という現象をあまりにも単純化してしまう「理論」は、当たり前すぎて退屈かお説教口調になってしまっているものが多いと思います。実はそれは現実をきちんと説明している理論ではなく、それなりに理論の体裁を整えた主張でしかないようにも思えます。

そのような主張を押し付けているだけの「理論」には断固抵抗しなくてはならないでしょう。なぜならその「理論」の専横的な押し付けは、その「理論」の網の目からこぼれ落ちる教育現象を見ることの障害となり、その「理論」の枠組みに当てはまらない教育実践を否定しかねないからです。「理論」が現実を理解する助けではなく邪魔になるからです。その「理論」が前提とする状況を前提としない教育実践を、「正しい理論を実行しない愚かな教育実践」として切って捨てかねないからです。



しかし考えてみますに、英語教育界の「理論」はそれほど強力なものでしょうか。制度的権力を背景にした文部科学省などの言説はともかく、英語教育界に流布する「理論」は、正直ほとんどの実践者に相手にされていないようにも思えます。特に量的研究が「実証」する教育実践理論は、教師に影響を与えるほどのpowerをもっていないように思えます。

この状況認識が正しいなら、今重要なのは「理論に対する現実の抵抗」ではなく「現実に対する理論の抵抗」であるようにも思えます。


現在の日本の英語教育界の理論の多くは一面的であまりにも視野が狭く、現実に影響を与えるだけの力をもっていません。せいぜいが現実のごくごく一部を適当に数値化して、自らの理論の正当化を図っているだけです。その正当化はしばしば実践者にとって当たり前のことか、状況次第でいくらでも変わりうるものです。ですからそういった理論には抵抗するだけの価値も意義もありません。



それに対して現実は過酷です。そして私たちはしばしば、その過酷な現実に対する理論をもちあわせていません。

たとえば中高生の少なからずは、英語を学ぶことに意味を見いだせていません。「これからの時代に英語は必要だ」という英語教師の言葉は、虚しく響くだけです。学校を卒業しても、低賃金の仕事しか得られそうもない現状で、海外旅行や留学での英語使用など絵空事にしか思えません。英語力があれば大学受験に有利だし年収が上がるという言説も、そもそも大学進学や正規雇用される見込みが少ない生徒にはまったく説得力をもちません。

英語教育が、究極のところで資本主義競争での成功につながるという功利的な価値だけしかもっていなかったら、そんな資本主義競争からは底辺層に追いやられ、またそんな過酷なだけの競争には関わりたくもないと思い、またその能力も育ててこられなかった生徒にとっては、英語教育なんてまっぴらです。そしてこの信念を覆すだけの価値に関する理論を英語教育は持ち合わせません(注1)。


あるいは小学校では、十分な準備もないまま英語教育がスタートしようとしています。理念はまだ明らかとはいえません。理念が不明確ですから、具体的な準備もできません。私をはじめとした英語教育関係者は、賛成か反対といった大まかな意見は言っても、理念をなかなか明確にできていません(注2)。

理念が不明確ですから、具体的にはどのような教員研修を、どのくらいの量必要なのかということがわかりません。ですから効果的な計画が立てられません。とはいえ英語教育が始まるという現実は来ますから、多くの関係者は仕方なく知り合いの人に教員研修を任せたりします。それぞれの人は良心的に教員研修に関わっているのでしょうが、国全体としてはむしろ混乱状態にあるのかもしれません。もちろん国は学習指導要領を出していますが、残念ながらあの曖昧な書き方ではこれから始まる小学校英語教育に関して明確なビジョンが持てません。今日小学校英語教育に関しては(あるいは関しても)、理論がないと端的に言えるのかもしれません。


さらに大学英語教育では、おそらく理系の学生の英語力をつけることが英語教育の最優先事項かと思いますが、それに関しての理論がまだまだ少ないです。もちろん私は個人的にも、理系の英語力養成について実践している方を多く知っていますし、理論的にアプローチしようとしている人も知っています。ですが、この(私の意見では)大学英語教育最優先事項である理系の学生の英語教育には理論がありません。心理言語学の理論をミリ秒単位の実験で「実証」しようとする英語教育研究者は多いですが、理系英語の問題について取り組む研究者は多くありません。(注3)


そもそも教員がおかれている状況についての理論的把握がまだまだなのかもしれません。教師にとって辛いことの1つは忙しすぎて、睡眠時間や家族との時間を削っても授業準備がきちんとできないことです。授業準備が不十分だと、授業が面白くなりません。授業が面白くないと生徒が荒れます。生徒が荒れると教室や学校がすさみます。そうしてすさんだ環境の中で、教師は授業準備ができない自分をますます嫌いになってしまいます。これは悪循環です。

もちろん授業準備は、教師個人のタイムマネジメントの工夫でいくらかは改善できます。しかし現在、多くの教員は、個々人の工夫や裁量ではどうしようもないぐらいに仕事に追われています。本当に管理職が読むのかどうかもわからないような些末な書類作成。次々に要求される教科指導以外の仕事。参加を強制されるが、役に立つとはとても思えないいくつかの研修―教師がまともに仕事をし、成長してゆくということはどういうことかを、私たちは理論的に把握しなければならないのではないでしょうか。そしてその理論的理解を吟味し、少しずつ教員の労働環境を改善してゆかなければならないのではないでしょうか。


総じて私は英語教育界は、過酷な現実に対抗するだけの理論をもっていないと思います。持ち合わせている「理論」は重箱の隅をつつくようなものが多く、現実をうまくとらえていないようにも思えます。

今必要なのは、現職教師が研究者などが提示する理論に対抗することではなく、現職教師が研究者などと共に、過酷な現実に対して理論で対抗することではないでしょうか。現状を「仕方ないこと」として諦めず、理論で「他のありよう」を想像し、その実現を構想し、未来を構築することではないでしょうか。


あえて「理論に対する現実の抵抗」ではなく「現実に対する理論の抵抗」を訴えるゆえんです。






(注1) 私の「アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析」はそんな現実に対する私なりの小さな抵抗の1つです)。



(注2) 私は『日本の英語教育に必要なこと』に寄稿させていただいたときに、自分が小学校英語教育の理念をいささかももちあわせていないことに愕然としました。『危機に立つ日本の英語教育』の私の原稿はそんな情けない自分への回答でした)。


(注3) 我田引水が続きますが、「理系に学ぼう」の連載は、私なりに少しでも理系の方々のニーズを理解しようとする試みです。






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