2009年10月4日日曜日

ニコラス・G・カー著、村上彩訳 『クラウド化する世界』 翔泳社

かつて電気は、水車で起電することが常識だった。やがて専用の発電機が普及するにつれ、工場主は水車の替わりに発電機を自らの工場に設置し、そのことによって競争力を高めた。

しかしテクノロジーは発展し、電力伝達が容易になった。中央発電所で起電し、それを各地に送電するという社会が当たり前になった。もはや誰も(非常用を除いては)自らの工場に発電機を設置しようとは思わなくなった。また電力の普及は、様々な生活の変化をもたらした。--停電したときに私たちはようやく私たちの「普通の生活」が電気に依存しているかを知る--。

アナロジーとして考えれば、上記のような「大転換」のスイッチが今入ろうとしている(この本の原題は"The Big Switch"である)。

少し前まで、私たちは自宅に高性能のPCと高価なソフトを導入することに懸命だった。だがPCがインターネットで結ばれ、そしてその通信環境が高速になるにつれ、新しい環境、そして社会が出現した。無数のサーバーとPCが高速常時接続で結ばれた社会である。このテクノロジー発展が私たちのあり方を大きく変えるかもしれない。

小さい話で言えば、私はこのブログのサーバーがどこにあるか知らない (そもそもこのサーバーに私は金すら払っていない)。文章を書く際のネット検索は私にとってもはや不可欠だが、グーグルにヒットしたサイトの作者やウィキペディアの作者を私は直接は知らない (彼/彼女らのサーバーのありかなど気にもしていない)。これはある意味おそろしく無責任なシステムである。だが使いこなしによっては、この不定形ネットワークから私はしばしばDVD版のEncyclopedia Britanicaよりも詳しい情報を得る。この不定形ネットワークは「クラウド」(cloud 雲)とも呼ばれる。

クラウド(雲)の力に私たちは大きく頼り始めている--ネット不通になれば私たちはどれだけ「普通の生活」がネットに依存しているかに気づく--。

しかしこのクラウド依存社会はユートピアではない。

クラウドからのニュース提供は、ジャーナリズムのあり方を根本的に変えようとしている。最も懸念すべきは、ニュースがジャーナリストの判断でなく、クリック数に基づく広告収入によって編集提示されることだ。クラウドの中のアルゴリズムは資本主義には忠実だが、民主主義にも同様に忠実かどうかは疑わしい。何がニュースであるかという判断は、広告収入に基づくアルゴリズムで決定されてゆく。

かつては「地球村」という言葉がはやった。ネットにより緊密に編まれたグローバル社会は一層「地球村」に近づいたようにも思える。しかし一方で私たちのネット上での行動は、自己回帰的にフィードバックされるため、ますます個々人の選好が強化されているという研究報告もある。早い話がネウヨはネウヨ記事ばかりを読み、サヨはサヨ記事ばかり読むようになる。もちろん「類は友を呼ぶ」のは昔からのことだが、それが電子的に大幅に強化されるという事態はもしかすると新しいことなのかもしれない。


コンピュータが人間を補完するのではなく、コンピュータが人間を補完するという考えも強くなっている。この考えを最果てまで延長したら「ターミネーター」や「マトリックス」といったSF世界に到達するが、カーネギーメロン大学ロボット研究所のハンス・モラベック (Hans Moravec) はそういった未来の可能性について真剣に考えている (私はかつて彼の『電脳生物たち』という本を読んだ時の衝撃を今でも覚えている)。





実際グーグルやアマゾンに私たちが無自覚に私たちの判断を伝達している時、私たちはアルゴリズムがやりにくい判断に関するをコンピュータに提供する存在になっているのかもしれない。高度グローバル資本主義社会はコンピュータが私たちに奉仕している社会なのだろうか。それとも私たちがコンピュータに、そして究極的には高度グローバル資本主義社会というシステムに奉仕しているのだろうか。


クラウドコンピューティング」(cloud computing)は例えば既存のソフトウェアを駆逐してしまうのだろうか。職業としてのジャーナリズムは消滅するのだろうか。グローバル社会は分断化された無数の共同体の闘いの場になるのだろうか。コンピュータシステムは人間との共生を越えて、人間を支配するのだろうか。わからない。


わからないのだが、何かとてつもないスイッチ (The Big Switch) がもう入ってしまったようにも思える。



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