WEDGE REPORT
それでもやるべき? 小学校英語
現場から見えた問題点
2009年10月21日(Wed) 木村麻衣子
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/570?page=1
は確かに面白い記事でした。ジャーナリストの方によるこのような報告・記述は非常に重要です。
私の印象に特に残ったのは次の一節です。
今回、文科省に今後の動向に関する取材を申し込んだが、「決定事項以外は話せない」と拒否の返答だった。世間に迎合する「小学校英語導入」というカードを切ってしまった文科省は、国民の反撃を受けた「ゆとり教育」の二の舞にならないためにも、今後の動きに慎重にならざるを得ないのだろう。しかし、そんな手探りの中での試みによって、大げさに聞こえるかもしれないが、犠牲となる子どもたちは増えている。
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/570?page=5
「制度の内と外の間でのコミュニケーション」で書きましたように、制度の内にいる人は、ある種のことをどうしても正面切っては話せなくなります。それはその人の罪というより、その人の職務上の機能によるというべきでしょう。
しかし責任ある組織というのは、正面切ってあることは言えないものの、そのことについては秘かに準備しておくべきものです。あるいはきちんとした組織は未来について、現在進行中の計画に基づくシナリオだけでなく、想定範囲の複数のシナリオについては準備を進めておくべきです。
例えば昭和天皇のご容体が悪くなったとき、誰も天皇崩御の際の準備を正面切って語ることははばかられました。しかし私が最近読んだ『わが上司 後藤田正晴―決断するペシミスト』 (文春文庫)で著者の佐々淳行氏は、秘かに粛々と準備を進め、崩御の際の混乱を避けた様を描き出しています。
あるいは太平洋戦争。この場合は、どうも日本軍は他の複数のシナリオに関する検討を怠り、戦争遂行というシナリオばかりで考えたため、日本に大きな損害をもたらしたように思えます。軍部組織の内部の面子を保つために組織の外の同胞を犠牲にするというのは、まともな組織人なら決してやってはいけないことですが、それがどうも当時の日本のエリートがやったことでした。
さてひるがえって、日本の英語教育のエリートはどうなのか。小学校英語教育がやがて本格的に始まろうとしています。文部科学省も当面はそのラインを崩すわけにはいけないでしょう。冒頭でも言いましたように、組織はある種のことを少なくとも当面は語れません。
しかし組織は、未来に関して複数のシナリオで準備をしておく必要があります。
シナリオの一つは、現行の計画の続行です。その際は現状での問題分析とその解決策が必要になります。問題分析には、上の記事が示すような計画遂行者が聞きたくないような事実も含めて客観的に記述する報告が必要になります。
別のシナリオは、小学校英語教育の教科化です。その際は、現行計画以上に何が必要なのか、その必要を充たすためにどんな準備が必要なのか、その準備をまかなう予算と人員は確保できるのか、そもそも教科化―現行計画のさらなる発展―を必要とする目的・目標とは何かを十二分に、そして何よりも徹底的に具体的に検討する必要があります。
さらなるシナリオは小学校英語教育の撤退です。組織というものは、あるいは人というものは、一度決めたことに固執することが多くあるものですが、大規模計画の場合、組織内部の固執が組織外の多くの人々の悲劇を招くことは、先の大戦を端的な例とする通りです。
今まさに全面実施しようとしている計画の撤退案について検討が始まっているなどと外に知られれば、関係者の士気にかかわる大問題になるので、撤退案の検討は秘密裏に行なわれなければなりません。しかし組織人は、特に公的組織で人々に奉仕する人間は、組織の体面や利害ではなく、人々の幸福を冷徹に検討しなければなりません。組織人は、計画の続行そのものを金科玉条とするのではなく、その組織の目的を達成するということはどういうことか、あるいはその目的を損なわないようにするにはどうしたらよいかということを、冷徹に考え準備をしておく必要があります。
文部科学省としては現状では小学校の英語教育を現行計画に基づいて実行してゆくことしか語れないでしょう。しかし組織内では秘かにこの現行計画の継続案、拡大案と共に撤退案を検討しておく必要があります。組織内にはこの撤退案もきちんと考えるだけの、現実主義、合理主義、公務意識、責任感、そして余裕があることを祈ります。
というより、これを文部科学省だけの問題とするべきではないのでしょう。私たち英語教育の研究者こそが、小学校英語教育の継続案、拡大案だけでなく、撤退案、あるいは大幅な修正案について考える必要があるでしょう。(大幅な修正案については、大津由紀雄先生らの長年にわたるご努力が少しずつ著作の形で実り、今年12/19(土)のシンポジウムでもさらに具体的な形で検討されます)。何度も言いますが、こういった試みが「英語教育学者」によってではなく、認知科学者・言語学者によってなされているということは皮肉な幸福です。
大切なのは、小学校英語教育の現行案の継続、拡大、撤退・大幅修正などが、組織の面子や組織内外での人間関係などの問題に矮小化されずに、お互い公教育に携わる者として、あるいは「研究」に携わる者として、虚心坦懐に分析を進めることでしょう。
文部科学省としては現状では小学校の英語教育を現行計画に基づいて実行してゆくことしか語れないでしょう。しかし組織内では秘かにこの現行計画の継続案、拡大案と共に撤退案を検討しておく必要があります。組織内にはこの撤退案もきちんと考えるだけの、現実主義、合理主義、公務意識、責任感、そして余裕があることを祈ります。
というより、これを文部科学省だけの問題とするべきではないのでしょう。私たち英語教育の研究者こそが、小学校英語教育の継続案、拡大案だけでなく、撤退案、あるいは大幅な修正案について考える必要があるでしょう。(大幅な修正案については、大津由紀雄先生らの長年にわたるご努力が少しずつ著作の形で実り、今年12/19(土)のシンポジウムでもさらに具体的な形で検討されます)。何度も言いますが、こういった試みが「英語教育学者」によってではなく、認知科学者・言語学者によってなされているということは皮肉な幸福です。
大切なのは、小学校英語教育の現行案の継続、拡大、撤退・大幅修正などが、組織の面子や組織内外での人間関係などの問題に矮小化されずに、お互い公教育に携わる者として、あるいは「研究」に携わる者として、虚心坦懐に分析を進めることでしょう。
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