柳瀬先生は私の発言(その第1項目目)を次のようにまとめておられます。
・英語教師は生徒とも同僚・管理職とも「論争」していないのではないか。生徒
に英語教育について説得することもなく、同僚・管理職に英語教育のあるべき姿
について議論していないことが多い
私の「語り」が散漫だったが故に柳瀬先生に誤解を与えたのだろうと思うのです
が、しかし発表要旨の「4教師は『語り』『論争』の自由を与えられているの
か」にもあるように、私の本意は次の点にありました。
*「内での語り」において、「英語教師は論争していない」のではなく「今の教
育現場では英語教師は論争を許されていない」「実践研究の自由、自主教材・投
げ込み教材を授業で扱う自由、それをめぐって英語科の会議や職員会議で意見を
交換したり論争したりする自由を与えられていない」
(校長・管理職に権限を集中しようとする今の体制が「教師から『語りの自由』
『論争の自由』を奪っているのではないか」「そのような中で、英語の授業だけ
に『ディベート』を持ち込むことにどれほどの意味があるのか」というのが、拙
著『英語教育が亡びるとき:「英語で授業」のイデオロギー』で松本茂氏を批判
する私の大きな論点の一つでした。)
これは生徒にとっても同じです。「教師は生徒に説得的な語りを展開している
か」という問いは、実は「教師は生徒に反論の自由を与えているか」と同義であ
ると私は考えているのです。教壇に立つと教師は無意識に「権力者」の立場に立
つことになり、それを裏から補強するものが「内申書」ではないか、それが生徒
から「反論や異議申し立ての自由を奪っているのではないか」「そのことを教師
は自覚しておく必要がありはしないか」というのが私の主張点の一つでもありま
した。
ナラティブ・シンポが終わる間もなく、次の大きな仕事に巻き込まれてしまい、私はこのシンポが何であったのかという振り返りをなかなかできないでいます。折をみて考えてまた文章化してゆきたいと思います。
取り急ぎ、他の方々のブログなどの記述で、広い意味で関連すると思われる事柄などをここに備忘録的に記しておきますと、
私のマイミクさん
UHのG. Crookesさんに勧められて入手。
その後ぐっすりと眠っていたこの書籍。
Research Conversations and Narrative: A Critical Hermeneutic Orientation in Participatory Inquiry
入手して10年経ってしまうけれど、
神戸の会が言わんとしていたことに
見事に対応する論点ばかりである。
今回のようなアジェンダは受容される
まで相当に時間がかかる、というのは
私だけなのかもしれぬが。
追記
Crookesさんの関連書目 CUPから
A Practicum in TESOL: Professional Development through Teaching Practice (Cambridge Language Education)
Values, Philosophies, and Beliefs in TESOL: Making a Statement (Cambridge Language Teaching Library)
松井孝志先生
ただでさえ懐が寒いのに、買ってしまったのが、
ホミ・K・バーバ 『『ナラティヴの権利――戸惑いの生へ向けて』』 (みすず書房、2009年)
磯前順一・ダニエル・ガリモア両氏による翻訳。日本独自の企画である。私が、バーバの名前を知ったのは、『現代思想』 (青土社) の1999年6月号。「特集 大学改革」の中の、本橋哲也氏の論考、「応答するエイジェンシー」 (pp. 207- 217) が最初である。
るあはにいせんじもいがいらなよさ
寺沢拓敬さん
自然科学が「想定の範囲内」としてきたことは、「現場の経験」や「暗黙の常識」ではなく、「理論的帰結から当然想定されるべき仮説群」ではなかったのだろうか。この点は科学史・科学哲学の議論をきちんと点検する必要がある。今後の課題である。
「科学的英語教育」の誕生
山岡大基先生
・「授業力」を上げるには2つの要因。
「指導技術」×「指導のperspective」
同じperspectiveの中で指導技術を磨いても、向上はある程度のところで頭打ち。
perspectiveそのものを更新、というより複線化していくことでしか壁を突破できないこともある。
英語教育についての備忘録
2 件のコメント:
今晩は。
以前に訪問させていただいた者です。
興味深く読ませていただいています。
北海道教育委員会○○教育局主催の小学校英語活動ナントカ研修会というのが5月末にあって参加してきたのですけれど、「小学校の先生方は、正しい発音で英語を話すことを求められていません。」と、指導主事が言うのを聞いて、憤慨しています。その上、今回文科省の調査官になった、京都市の指導主事だった直山木綿子氏が、T出版社の英語教育関係の雑誌で言っていた、「カタカナ英語でもいいのです。発音よりも、クラスの友達どうし積極的に話そうとすること、聞こうとすることが大事」というような意味の記事にも、「それなら、英語である必要性はない。むしろ日本語でやるべき。」と、憤慨しています。
現場の教師達は、自身の英語力に自信を持てないので、英語ノートや音声教材に頼って、自身の英語力向上については不問に付すという態度です。
こんなことで、生涯にわたる英語学習の基礎を担うべき責任を、公教育が果たせるのか、大変疑問です。
English Teacher ポッピーママ さん
コメントをありがとうございます。現行の小学校英語教育案を、どのように活かすか、あるいは撤退・大幅修正するかには衆知が必要です。
このような「混乱」期において何より重要なのは、冷静で客観的な状況把握です。
これは比喩ですが「大本営発表」では事態は悪化するばかりですが、反戦を叫ぶばかりでも、戦争を終わらせる具体的な手だてがなければ戦争は終わりません。
もちろん一般の市民は、例えばジョン・レノンのように反戦を叫び続けるだけでも良いわけです。むしろ一般市民はそれを続けるべきでしょう。
しかし英語教育に関わる者としては、なんとかして冷静な分析と考察で、具体案を考えなければと考えます。
ともあれ、コメントありがとうございました。
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