2009年10月13日火曜日

ナラティブ・シンポ (第1日目) の報告

10/11-12の「関西英語教育学会:KELES 第17回セミナー(兵庫地区) ナラティブが英語教育を変える?-ナラティブの可能性」を成功裡に終えることができました。会場にお越し下さった皆様に感謝します。主催者の1人として特に感謝したいのは、セミナーの裏方を全面的に支えてくださった関西英語教育学会の皆様です。事前準備から当日の会場運営までも丁寧にやってくださった関西英語教育学会の皆様の善意がなければ、今回のセミナーはありえませんでした。会長の吉田信介先生をはじめとした、本田勝久先生,泉惠美子先生,佐久正秀先生、玉井健先生、そしてその他多くの皆様に心から感謝します。


ここでは取り急ぎ私が担当した第一日目の「学校英語教師の語りのパワー」について簡単に報告します。それぞれの登壇者の発表の趣旨を私なりにまとめたら次のようになります。私の誤解が入ってしまっているかもしれないことを予めお断りしておきます。



■大津由紀雄先生 (慶應義塾大学)

・「ナラティブ」にしても「英語教育学」にしても、使う言葉の基本概念をしっかりと理解・定義することが必要なことは変わりない。また議論の合理的な展開も両者でそれほど変わらないはずだ。

・しかし英語教育においては「文法」や「コミュニケーション」といった基本用語についても誤解が多く、きちんとした理解・定義が共有されているとは考えがたい。

・基本概念がぐらついたままだと「ナラティブ」も単なる「茶飲み話」と変わらないものになりかねない。

・他方「英語教育学」が標榜している「理論」も自然科学での「理論」ではない。[柳瀬補注:反証命題仮説を演繹的に生み出す言説ではなく、単なる考え方の「枠」ぐらいのものに過ぎない。]



■寺島隆吉先生 (岐阜大学)

・英語教師は生徒とも同僚・管理職とも「論争」していないのではないか。生徒に英語教育について説得することもなく、同僚・管理職に英語教育のあるべき姿について議論していないことが多い。

・英語教師が「論争」するためには、議論の裏付けとなる「実践の理論的把握」が必要である。ただ実践をするだけでなく、実践を言語化し整理しておかなければならない。

・ところが英語教師は実践の理論化をする訓練を受けていないし、機会も与えられていない。

・英語教育研究者も、日本の現実に即した実践のための教育・研究が行なわれているとは思いがたい。未だに海外の動向を日本で紹介するだけか、誰でもわかっているようなことを数値化しているだけのように思える。

・英語教師も英語教育研究者も論争をタブー視しているように思える。少なくとも少し前までは、もっとお互いに論争をしていたのだが、現在は真剣な議論があまりにも少ない。

・英語教育関係者の語り合い、鍛え合い、自由な論争を行なう環境作りが必要である。



■中嶋洋一先生 (関西外国語大学)

・教師の「ナラティブ」で最も重要なのは、言うまでもなく学習者に対する語りかけである。

・さらに教師は、学習者自身が語ることができるように学習者を育てなければならない。

・語りの際に重要なことは、物事の本質を掴むことである。本質を掴むには経験を言語化することが大切である。



■寺沢拓敬さん (東京大学大学院博士課程)

・社会学とは「当たり前」を疑う学問である。

・「英語教育とは英語の教育であり、それ以上でもそれ以下でもない」といった表現は英語教育界で散見されるが、そのような「当たり前」を疑わない表現は外部者には通じにくいのではないか。

・日本の英語教育界で「当たり前」とされている専門的・学問的・科学的知識を、JACET紀要掲載論文(第1号[1970]から第38号[2004]の328本)を所定の分析枠組みで分類したら、明らかな傾向がある。その「当たり前」を疑うことは必要でないのか。



■松井孝志先生 (山口県鴻城高等学校)

・英語教育界の言説は「身内同士」のものが多すぎるように思える。

・英語教師にも実は発言するメディアはかなりあるのだが、論争が起きない。

・さらに英語教師も「進学校教師のことば」、「教育困難校教師のことば」、「専任教諭のことば」、「非常勤講師のことば」など分断しているように思える。

・そういった中、自分はブログで発言しているが、そこで留意しているのは、直言すること、すべてのものから等距離に自分を置こうとしないこと、引用出典を明記すること、自分で書いたことによって自分が前に進むこと、などである。



■山岡大基先生 (広島大学附属福山中・高等学校)

・自分が今まで授業実践をする中で、英語教育学の知見からは得られるものも多かったが、自分の授業作りの原理を虚心坦懐に見つめてみたら、それはむしろ、生徒や学校の現状に対応すること、目の前の生徒が何を受け入れてくれるか(望ましい授業の選択肢の中で、今の条件で適用できるのは何か)、であった。

・「英語教育学」は、授業を静的にとらえて、回顧的に整理して授業のやり方を呈示するが、実践者はそのやり方だけを学んでも、自分および自分の環境に適した授業のやり方にはならない。

・実践者は、自らの「悩み」を言語化し、試行錯誤することが必要である。借り物・既存の言葉ばかりを使うと思考停止に陥ることもある。

・しかし具体的状況にある自分の実践を言語化しようとすると、自分や学習者の人格的側面にも入る必要がしばしば生じる。この「怖さ」をどう考えるべきかはナラティブ研究の課題ではないのか。



■柳瀬陽介 (広島大学)

[私は今回、コーディネートに徹し、冗談を言って場を和ませながらも、できるだけ本質的な話し合いを促進しようと思っていました。もし私が長く話すことを期待していた方がいらしたら―あくまでもいらしたらの話ですが―ごめんなさい。私は今回、自分が長く話すつもりはまったくありませんでした。しかし私が自制してできるだけ多くのさまざまな率直な声を引き出したのは、結果的には成功だったと自分では思っています。以下はシンポ最後の数分での私のまとめ、およびその時には時間が足りなくて言えなかったことの要点です]

・私は時に量的研究そのものを否定している人間と思われることがあるが、それはまったく誤解である。

・私は量的研究というアプローチをrespectしている。それだけに量的研究はきちんとやっていただきたい。そして量的研究をきちんとやろうとすれば、その研究対象と「実践への示唆」には明らかな限界があることがわかるはずだ。

・量的研究がその限界を超えた権威と権力を持っているのなら、その傾向は是正されなければならない。

・日本の英語教育研究が量的研究に傾斜しすぎているのは、他の教育研究や海外の第二言語教育研究や、本日の寺沢さんの分析を見ても明らかである。

・量的研究と質的研究は、教育研究にとって相補的に必要なものであり、一方の信奉者が他方を否定しようとするのは愚かなことである。

・本日は「英語教育学とはそもそも『学問』なのか」といった問い直しさえあったが、学問には本来このような根源的な問い直しが必要である。根源的な問い直しがされることは学問が生きている証拠であり、根源的な問い直しがないことは学問が惰性化して既得権益を守るだけの枠になっている証拠である。(自然科学においても根源的な問い直しはしばしば行なわれる。生命科学などは特に5年から10年で大きな変動がある。)

・根源的な問い直しは、もちろんナラティブ研究にもなされるべきである。「これからはナラティブだ!」と言ったスローガンは有害無益であり、ナラティブ研究は具体的な自己省察を行ないつつ進んでいかなければならない。



■アンケートのコメント

・参加者にコメントを書いてくれるように頼みましたら、22の回答がありました。参加者は事務局発表では170名ですから、回答率は13%ということになります。

・22の回答のうち、1つが徹頭徹尾否定的なもの、1つが賛否両論、残り20が肯定的なものでした。

・私が個人的に面白く思ったコメントの一部を少しだけ以下にご紹介します(表現の一部は趣旨を変えない範囲で修正しています)。コメント公開の許可はアンケートでいただいております。コメントを下さった方の氏名などは、用心のため略号かニックネームにすることにします


Narrativeが内容 (story) と語る行為 (act of narrating) の両方の側面を持つものだとしたら、 "I think ..." と主張して「何が正しいか」に向かう議論と違って、 "I think ..."と言った私・あの人・・・話し手は、なぜあの話を、あの時、あの人に対して、あの言葉を使って、あんな風に言ったんだろう。なぜ・・・については言わなかったのだろうと辿り直す気付きが大切になると思います。そういうプロセスを共有するためにはlistenersはsympatheticになり、話し手も語り聞く相互作用の中でlistenersに生まれるvoicesを自分の大きすぎる声で消してしまわずデリケートな共感を楽しめるといいと思う。Power of story tellingは「強いpower」ではなく「やさしさが持つpower」だと思います。(三 高校教師・学生)


プレゼンテーションを聞いて自らの思考の中に、気づきが生まれ、時には変革への糸口が生成される。しかしこういった変革の糸口が思考の中でさらに明確化されるには、ある程度の時間が必要ではないかと思う。時間の流れが途切れてしまうと思考も途切れてしまう。なんとかならないかといつも感じる。 (Paul 中学校教師)




以上を取り急ぎの報告とします。実は、寺島先生のこれまでの「実践記録」の営みについてはもっと書きたいのですが、それは改めて『英語にとって評価とは何か』を読んでからの課題にしたいと思います。

この他にも「ナラティブと『茶飲み話』はどう違うのか」、「Action ResearchとReflective Practiceの違い」、「ナラティブを扱うことは『研究』なのか『実践』・『探究』なのか」などについても後日書くつもりです。


改めて皆様に感謝します。ありがとうございました。






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