この記事は、ロッテの西岡選手が、最近のヒーローインタビューでお立ち台から降りて、ファンに語りかけた語りを取り上げています。YouTube動画もその記事から見ることができますのでぜひアクセスして下さい。
ブログ『服従するが果たさない』
ブログの著者はこう述べています。
今回私が一番強く感じたのは「声の力」についてです。先にも触れたように、西岡選手はつとめて冷静に、過度に感情的にならないように語っています。しかし、映像をご覧になっていただくと分かるのですが、その声は、一貫して、微妙に震えているのです。私たちはその微妙な声の震えから、西岡選手の覚悟、緊張、怒り、悲しみ、ファンへの愛、チームへの思いなど膨大な情報を読み取ることができます(もちろん誤読を含めて)。
たしかに声の力というのはあります。あるいは声の表情というべきでしょうか。一人の人格が、その社会的生命をかけて語る時の声には「何か」があります。計測しがたい「何か」が。私たちは「何か」を感じ取ります。
もし近代というものが計測至上主義の愚から、こういった語りの声の力や表情を軽視し、数量的なエビデンスばかりに力をもたせようとするなら、それは私たちの社会が非人間化している証左と考えていいのではないでしょうか。
それぞれが生身の身体と感情をもち、人と人との間に計測できない「何か」を感じ、それを共感すること。そのつながりを人格的な発声でつくりあげること―これが民主主義社会そして人間社会の根源ではないでしょうか。
それを「何か」とか「共感」など、主観的で実証できないものを社会の基盤に考えることはできないと主張する「合理主義的」な人がいるなら、その人は合理主義の適用についてどこか誤解しているのではないかと思います。
もちろん「何か」は演技で悪用されることもある。私たちはだまされることもある。だから合理主義的な態度は一方で必要です。計測が可能かつ必要な事柄は計測して、私たちの判断の裏付けは取っておくべきでしょう。ですが社会が合理主義・計測至上主義一色に染まり、声の人格的側面を相手にしなくなったら、その社会は怖ろしいものとなるでしょう。
英語教育にしても、現在の小学校は "Big voice" を "Big smile" と共に児童に求めます。中高生には「大きな声ではっきりと」教科書を読むことを求めます。時にシャドーイングや速音読で高速での発声を求めます。その結果、一部の学習者は一分間あたりで驚くべきほどの語数を発話できるぐらいになります。
しかし一方で英語を人格的に使うこと―その人の人となりを自分の英語の発声に込めること―はどれだけできているでしょうか。
多くの学習者は自分の文法や発音がネイティブスピーカーに文法や発音から逸脱していることばかりまだまだ気にしていませんでしょうか。一部の学習者は逆にネイティブスピーカーの言い回しばかりを真似して、見る人が見れば哀しいぐらいに自分を失っていませんでしょうか。少なからずの学習者は英語学習に自分の人格が関係しているなんて思いもしないのではないでしょうか。
私が田尻実践に注目した(アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析)1つの理由は、田尻先生が指導した中学生が、見事に自分の人格を英語で表現していたからです。DVDの6-wayで見ることができる3人の中学生の英語は私にとって本当に感動的でした。「英語が上手」などという次元でなく、英語で人間が伝わってきたからです。
また近江誠先生も、以前からずっと英語での声の力や表情について論考なさっています。斎藤孝先生の『からだを揺さぶる英語入門』も声についての洞察を示しておられます。
ですから日本の英語教育界でも「声」の重要性について考えられていないわけではありません。しかし英語教育界の多数派は、まだまだ声は大きく、発話は速く正確であることばかり求めて、ことばの根幹である人格性を等閑視しているように思えます。
話が脱線しましたが、どうぞ上記ブログをごらんになり、今一度語りにおける声の力や表情、声の人格性について考えてみませんか?
10/11-12のシンポジウムとセミナーでも声について考えられるといいのですが。
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