『ツキの正体―運を引き寄せる技術』 (幻冬舎新書)
タイトルだけ見たら安っぽい本にも思えますが、もちろん深い本です。『努力しない生き方』 (集英社新書)というタイトルだけしか見ていない人は桜井先生は努力を一切否定していると短絡するかもしれませんが、もちろんそういうわけではありません。「正しい努力」について本書ではこう書かれています。
正しい努力、必要な努力とは、周囲の評価を求めないものです。
それは、自分という存在を磨くことや、自分に素直であろうとする心がけ、マニュアルを求めず、自分で何かを発見しようとする行動様式を指します。
あるいはまた、常に新しい自分に生まれ変わろうとして、前へ進み続けようとする姿勢です。どんなにつかなくても、正しい手順を追求しようとする生き方です。
それらに力を注ぐことを一口で表現すると「努力」になるのです。
私は、道場生にアドバイスするとき、正しい努力が足りない者には、
「今はもうちょっと努力したほうがいいかもしれない」
と話し、悪い努力でいっぱいいっぱいになっている者に対しては、
「努力なんかしなくていい」
と示唆します。間違った努力をしていると、頑張れば頑張るほど、あらぬ方向をさまよってしまうからです。自分を見失い、他人任せになり、さまざまな変化に鈍感になってしまう。その結果、新しい自分に変わっていく余地がなくなり、流れに間に合わなくなります。
悪い努力をしていると、場の流れに乗れなくなってしまうのです。
もし、いつでも誰にでも、判で押したように、
「もっと努力しろ。努力しないからダメなんだ。オレはものすごい努力をしてきたんだぞ」
などと自分の苦労話を得意げにする大人がいたら、信じないほうがいい。その人はおそらく、自分の中のコンプレックスをいつまでも消化できずにいるからです。
そして、何よりも、努力という言葉の意味をわかっていない可能性が高い。努力は誰かに認めてもらうものではなく、自分のために勝手にするものですから、自慢したり他人に共用しても意味がないのです。(74-75ページ)
私も自分の不全感から人に「悪い努力」を強要していないかと考えると恐ろしくなります。
『マイナー力(リョク) 「負け」が「勝ち」になる生き方』(竹書房)
現代の学校教育も「メジャー」を求め、「マイナー」であることを避けようとしています。教育の方法論でも、それがまったくの間違いであるわけではないのですが、「できる人」の話ばかりを聞き、「できない人」に目を向けようとしません。しかし教育の方法論を修得するとは、むしろ「できない学生・生徒・児童」から学ぶことを学ぶことなのかもしれません。
できる人に「どうしてできたんですか?」と聞くより、できない人を見ているほうが、よっぽどためになるのです。
たとえば、私自身が苦もなく最初からできることを、「なぜできるのか」なんて聞かれても、私の中からはきっと良い答えは導き出せないでしょう。「できる」という立場に安住して何かを伝えようとしても、一方的になるだけなのです。それでは上から目線の教育でしかない。
しかし、できない人をとことん観察して、または本気でできない者の身になって、「なぜできないのか」を追求していくと、だんだんとその理由が見えてくる。
そして、「こう指導すれば理解できるだろうな」という線が分かってくるのです。それは本当の指導になる。きっとこれは、できる人に何十回聞いても導き出せないアドバイスのはずです。
しかしながら、いまだ世間一般の「教え」というものは、全部先生側からしか発信していない、上から目線のものとなっています。(101-102ページ)
「できる人」ばかりを賞賛し、「できる生徒」を贔屓して、「できない生徒」を否定的な感情や(上から目線の)憐憫の感情をもってしか見ることができない教師―「できない人」を虚心坦懐に観察し、できない人と水平に立てない教師―は「教師」の名前に値しないのかもしれません(自戒の言葉です)。
『「育てない」から上手くいく』(講談社)
教員には通常、終身在職権が与えられていますから、時にとんでもなくいい加減な教師がいたりします。既得権益にあぐらをかいてしまう人です。そのように論外な教師を見ると「少しは熱心に教えろ」と言いたくなりますが、この「熱心さ」も、そのような例外的な状況は除くならば、注意を要する言葉です。
熱心はいいことだと思われていますが、私はそこに危なっかしさを感じます。なぜならひとつの思いや価値観にとらわれて、バランスを崩している状態を「熱心」と呼ぶこともできるからです。
私の経験からいって、「僕に任せてください」と張り切って言うような、やる気溢れる熱血漢ほどあてにならないものはありません。
そういう人は熱心であることがいいことだと思って、そういう像を演じているのです。でも、やる気をアピールする人間は自分の弱さをどこかでカバーしようとしてそうなっていることが少なくありません。
熱血や熱心はその意味でもろいものなのです。教育が熱すぎると子どもには無用なひずみを与えることになるし、最終的には嫌がって逃げてしまうものです。熱血はある機関は上手くいっても、そう長続きはしないものです。
子育てに熱心さは必要ありません。むしろ親や教師は自分が熱くなっているなと思ったら、熱さがはらんでいる怖さについて目配りしたほうがいいんじゃないかと思います。(39-40ページ)
というわけで、私は研究室の本棚の目立つところにこの本を置いています(笑)。
『シーソーの「真ん中」に立つ方法』(竹書房)
要は、努力なしの人生は考えられないが努力も行き過ぎると歪むし、熱心さは重要な資質だがそれが加熱すると暴走するということ、つまりはバランスが大切―たとえて言うなら、「シーソーの真ん中に立つ」ことを学ぶべき―ということになりましょうか。
バランスは現在と非現在(過去・未来)の間でも必要かもしれません。過去のことをすっかり忘れ去り、未来のことも考えずに現在の享楽に走ることは論外ですが、かといって過去や未来に縛られて現在を生きることができないのも問題です。
「今度の仕事で、良い結果が出なかったらどうしよう」
「なんであの時、こうできなかったんだろう」
将来(後)のこと、過去(前)のことを考えている人は、結局「今」をおろそかにしているから悩んでしまうのです。
そういう人は、とにかく目の前のことを全力でやることです。それが別に仕事でなくてもかまいません。ご飯をたべること、気持よく寝ること、買い物に行くこと、散歩をすること、友達とおしゃべりをすること。今とは全く別のことを真剣にやってみるのも一つの手段です。とにかく何でもいいから一生懸命やってみる。
目の前のことや、今この瞬間に集中している時、人は決して悩んだりしないものです。(21-22ページ)
『突破力』 (講談社プラスアルファ文庫)
「今この瞬間に集中」する最適の方法は、日頃の自分の立ち居振る舞いの身体感覚を注意深く観察することかもしれません。私たちはロボットが立ったり歩いたりしたら驚きますが、それよりももっと精妙な私たちの身体の動きに驚くことを忘れてしまっています。身体を整え、鍛えるということは、特別なジムや道場に行かずとも、日常生活を丁寧に生きることによりできるのではないか、むしろその方がより効果的で有意義な鍛錬ではないかということを、私は最近甲野善紀先生の『甲野善紀の驚異のカラダ革命』(学研)を読んで強く思いました。例えば床からあるいは椅子から立ち上がる時に私たちはどのように立ち上がっているか。歩くときの重心や姿勢はどうなっているか―これらを観察しながら日常生活を送るだけで、かなりの静かな集中を得ることができます(ですが私はこれができていません)。昔の日本人はこれの静かな集中が「礼儀作法」という文化的な身体作法で修得されていたからこそ、明治維新や第二次大戦後の復興もやり遂げられたのではないかとすら思えます(そうすると身体作法を忘れた平成の私たちの未来に関しては楽観できません)。
桜井先生も姿勢の重要性を述べます。
背中は人間の軸です。背中を見れば、つまり姿勢を見れば、だいたいその人の人間としての力量はわかるものなのです。
特に勝負師の世界や職人の世界では、姿勢を大切にします。(63ページ)
私はなかなかできないと言いましたが、それでも常日頃から自分の姿勢や立ち居振る舞いをよく観察していたら、私も、余計なことを考えずに一つ一つの仕事に集中でき、少しはまともな人間になれるのかもしれません。
筋肉の量などは、歳を取るにつれ減ってゆきますが、人間の威厳というか風格―空威張りとは無関係の雰囲気―といったものは、こういった丁寧な日常生活の中から生み出され、ひょっとすると歳を重ねるごとに深いものになってゆくのかもしれません。年齢を重ねることについて桜井先生はこう言います。
私がいちばん恐れるのは、歳をとることによって現役「プレイヤー」でいられなくなることです。
老いを理由に、周囲から知恵や力を期待されなくなるのは、人として絶えられません。ただ生きているだけでなく、死ぬまで「プレイヤー」であり続けたいのです。
たとえば、電車内で理不尽な暴行事件のようなことに遭遇しても、
「自分のような腕力の衰えた年寄りが割って入っても、とておも止められないな」と諦めるような、そんな年寄りには、なりたくないのです。
昔は、おっかないお年寄りというのが、どこにでもいたものです。
体力や腕力という意味ではなく、つまり、叱り方に迫力があったのです。
いまは、怒っちゃいけない、張り倒しちゃいけない、という教育のなかで育った大人たちばかりなので、言葉そのものにも迫力がありません。
こういうことは長年培って身につくものですから、いきなり迫力を出せといっても無理な注文です。
昔の人には、気骨というものがありました。その気骨が言葉になって放出されたのです。だから、体力がなくなっても、死ぬまで「プレイヤー」でいられたのです。
歳をとっても、いざというときそんな迫力が出せる人間でいたいと願っています。(115ページ)
「気骨」など現在はほとんど死語扱いですが、このような言葉に表されるような文化を取り戻さない限りまともな社会は再生できないのかもしれません。
『人は八割方 悪である』(竹書房)
私は『大修館 英語授業ハンドブック 中学校編』の編者の一人ということもあって、何人もの高校の先生から「この本は中学校編ですが、高校教師の私にも役立つでしょうか」と尋ねられました。
私はその度に、無難な答えを出していたかと思いますが、正直な気持ちを申し上げますと、私はそのような問いに驚いていました。高校英語教師が中学校英語教育から学べないようなら、他の分野の本からはまったく学べないということになるでしょう。細分化された「専門」に自分を囲い込み、その狭い世界の中でマニュアルばかりを求めるような生き方は、私には正直想像もできません。「役に立つ」と保証された本だけしか読まないような生き方は、その人の知性と生きる力をどんどんと貧しいものにしてゆくと私は考えます。
この竹書房の新書シリーズは基本的に麻雀ファンのために書かれたものですが、もちろん一般読者も多くを学ぶことができます。
というより次のような予想もつかない文章に出会えるからこそ、自由な読書というのは楽しいのかと私は思います。
この世が完全であった時代には、誰も価値ある人間に注意を払うこともなく、能力ある人間を敬うこともなかった。
支配者とは木のてっぺんの枝にすぎず、人民は森の鹿のようだった。
彼らは誠実で正しかったが、自分たちが『義務を果たしている』という認識はなかった。
彼らは互いに愛しあい、しかもそれが『隣人愛』だとは知らなかった。
彼らは誰もだますことはなかったが、それでも自分たちが『信頼すべき人間だ』とは認識していなかった。
彼らは頼りになる人間だったが、それが『誠』だとは知らなかった。
彼らは与えたり受け取ったりしながら自由に生きていたが、自分たちが『寛大』だとは知らなかった。
それゆえに彼らの行為は語られたことがない。
彼らは歴史を作らなかった。
~詠み人知らず~(117-118ページ)
『瞬間力』(竹書房)
これも竹書房の新書シリーズの一冊です。桜井先生が読者からの質問に答える形の本です。「スピード」に関する次の指摘はまったくその通りで、私などは時に「スピードがあるように見える」だけで、無駄な動き・仕事ばかりしていることを自覚させられました。
本当のスピードというのは、無駄のないところから生まれてくるもんだんだよ。雀鬼流では牌が低空飛行で、直線的に最短距離を移動するから早いわけだよ。ところが無駄があってモーションが大きいと、素人目にスピードがあるように見える。(中略)
基本動作がしっかりしていると、自然に打ったって早いんだよ。そうすると大げさで威圧的な、やみくもに人を脅かすようなスピード感じゃなく、柔らかいスピードというのが生まれてくるんだ。
もちろんフォームを固めるには回数も反復練習も必要でしょう。でもその前に、本質的なとことに気づかないとね。そうでなけりゃ、いくら回数をうったって、10年経ってもよくはならないよ。(125-126ページ)
「しかし『スピード』と言われても、英語教育とは関係ないでしょう・・・」などと言う方がいらしたら―私は個人的にはそのような方とはあまり話をしたくありませんが―次の文章をお読みください。桜井先生の麻雀関連の用語を必要最小限に英語教育の用語に言い換えたものです。
まず言えるのは、オレの授業の見方は部分的ではないということだよ。総体的なものの見方、とらえ方をしているということだね。
けれど今までの授業論や大学の先生といわれる人たちは、指導順序をどうするとか学習指導要領をどう読むとか、そんなことばかりをやってきたわけだ。そんなのは授業の中の部分的なことでしかないでしょう。しかも書物からの情報頼みなんだね。こんなものは、オレからすれば部分的に過ぎる、なんの役にも立たない見方だよ。
授業というのは教師ひとりで行うものではない。教師の他にも生徒がたくさんいて、それから机についた生徒の動きの他に、教室全体の動き、学校の動きというものもある。人間がいくら泳ぎたいと思ったって、海が荒れていれば泳げないだろう。山の天気が荒れていれば登れないわけだよ。人の意志だけでは間に合わない要素もあるんだ。
(中略)
授業では、人だけでなく場も動いている。そしてそういうもの全部ひっくるめて総体的に見なくては決して間に合うことはない。思考だけで見ようとすると、部分的な情報に頼ることになる。あれこれ考えるということになる。そうなることで、授業の本質、教育の本質からはどんどん外れてしまうだけなんだ。
授業というのは、思考だけで行っているわけではないということだよ。授業の一つ一つの営みを行っているのは人間の肉体でしょう。授業は肉体が行わなければならない。そしてさらに心や気持ちでやらなければいけないものなんだ。
(113-114ページの記述を柳瀬が改変)
『賢い身体 バカな身体』(講談社)
最後に甲野善紀先生と桜井章一先生の対談本から、それぞれの先生の発言を一つずつ紹介します。
まずは甲野先生。人間の強さと弱さ、そして品格についてです。
弱さは駄目だと単純にいうわけではなくて、ひがんだり、いじけないで、その弱さを心得ていることが重要だということですね。どんなに強いといったって人は生き物ですから死ぬわけですし、そうした限界を含めて弱さを心得ることが大切なんだと思いますね。だから、弱さを隠して背伸びする行為というのはみっともないことですよ。幼い子が大人の真似をするのは微笑ましいですけれど、ある程度年齢のいった大人が背伸びするのは非常にみっともない。それこそ品がないと思う。
だから、品格ということでいうと、自分の弱さや限界を知る、つまり自分の部を知っているということが、まさに品ということにつながるんじゃないでしょうか。(44-45ページ)
よく「強さ」を求めるなどというと筋肉の量を誇るような「マッチョ」とか、狂犬のような目をしてこわばった身体を持つ人間などが想像されますが、人間的な強さとはそういったものとは無関係の、品のある強さです。自らの、そしてお互いの弱さを認めて、強くなりたいと願いたいものです。
桜井先生も、日常生活の一瞬一瞬を大切に生きることに「人間的な強さ」を見ているようです。
たしかに、現代はいろいろな意味で困難さに満ちた時代だと思います。途方もなく社会が複雑であるがゆえのさまざまな問題にしても、[甲野]先生がよくおっしゃるようにいつも加害者でありながら被害者でありうるという側面を持っている。つまりどんあ立場にいようとけっして無傷できれいな身でありえないということです。少なくともそのことは自覚して生きていきたい。
そして、「人が人として生きることは、それだけですごい」ということに気づけば、それは誰がなんと言おうと、この世界を見事に生きているんだと思います。
みんな、人より抜きんでよう、勝とうとして、華やかなほうにばかり気を取られて、足元の生活をおろそかにしている気がします。でも、あたり前の日常というのは奇跡のようなことなんですね。そこにこそ生きる根っこがある。それは根であるがゆえに深い。深いというより無限の長さを持っているかもしれない。そのことにいつも素直に驚き感動できれば、いい生き方をしていると思いますね。
そして深い呼吸とともに、この瞬間、自分が無数の多くの人や自然界の無数の生き物とともにあることを感じる。そんな心境で生きれば、何気ない日常も活き活きとしてくるし、本当の意味で心の自由さを保てるんじゃないでしょうか。そう、思います。(210-211ページ)
下手な学会論文など読むよりは、こういった本を読むほうがはるかに有意義だと私が思っていることについては、言わずもがなかと思います。
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