経済・政治・社会といった観点からの研究は、心理学的研究と並んで、いやおそらくはそれ以上に重要です。言語そして教育が複数の人間による営みである以上、個人あるいは個体の認知メカニズムだけを対象とする心理学ばかりが第二言語教育研究であるといわんがばかりの日本の英語教育界(特に学会誌のレフリーの感覚)は明らかに偏っていると思います。
それに対してNaokiさんという方から次のようにコメントを頂きました。
コメントすべきか否か,大いに逡巡いたしましたが,学会誌編集に携わる者として一言述べさせていただくことにしました。
具体的に,どの学会誌のどのような編集方針が,先生のおっしゃる「個体あるいは個体の認知メカニズムだけを対象とする心理学ばかりが第二言語教育研究であるといわんばかりの」レフリー感覚なのか,よく分かりません。少なくとも私が携わっている,あるいは携わってきた学会誌の編集において,そのような偏った見方はしてこなかったと思います。
我々のような「中間」世代として,確かに,ご指摘ような古い体質との「戦い」が学会運営や学会誌編集に際してないわけではありません。先生がおっしゃる危機感も,程度の差こそあれ,共有していると思っています。だからこそ,実際に運営・編集に参加しながら,それを変える努力をしています。それだけに,先生ほどの影響力がある方が「体質批判」を繰り返されると,それを鵜呑みにした読者が,例えば採択不可となった場合にその原因を「学会の体質」に片付けてしまうのではないかと危惧しています。
私のような者が口幅ったいことを申し上げました。ご容赦ください。現在携わっている学会誌でも,幅広い研究が共存できるように,査読に際しても「読むべき人」が読んで評価できるシステムを構築していく所存です。こうして微力ながらも具体的に抗っている者もいることを知っていただきたくコメントいたしました。
失礼いたします。
9/02/2008
大切な問題かと思いましたので、コメントのお返事は以下で行うことにします。
Naokiさん、
コメントありがとうございました。まずはシステムの内側で屋台骨を支えてくださっていることに心からの敬意を払います。私は、清濁併せ呑んで地道にシステムを支えてくださっている方には常に敬意を払います。
ですが、Naokiさんのように良心的な仕事をなさっている方は、私が直接・間接に知る限りまだ少ないように思えます。特に質的研究、ナラティブ、社会科学系、哲学系などのアプローチで英語教育学系の学会誌に投稿した場合、明らかにレフリーが無知であるがゆえの無理解な門前払いが多くあります。その多くは、一、二行のコメントだけでこれらの新しい研究アプローチを切り捨てているものです。私自身もこれまでそのような無理解で無慈悲なコメントをもらったことは複数回あります。
これまで以上に業績主義になっている昨今、学会誌のレフリーというのは、密室の強大な権力者になっています。私は昔、上のようなコメントをもらった時も声をあげようと思いましたが、将来のことを懸念して、声を封殺してしまいました。今も昔の私のように声を抑圧してしまう人は多いと思います。しかしそれは声の抑圧だけでなく、就職や昇進といった研究者にとっての(生臭い)現実問題になっているわけですから、やはりここでは声を上げ、ある意味「戦い」すら始めなければならないと思います。そうしないと研究活動が、風見鶏的、長いものには巻かれろ式のものになり、英語教育研究は、社会に貢献できなくなります。また学界自体もダイナミズムを失い停滞すると思います。
もちろん査読というのはやっかいなものです。国際誌でも国内の他分野の学会誌でもさまざまな問題があることを私も承知しています。またNaokiさんが懸念するように、投稿者というのはおそらく常に自分の論文に自信をもって投稿するわけですから、採択不可については、常に不満が残るでしょう。
しかし、査読者は、強大な密室の権力者という社会的責任を自覚するなら、採択不可の者にも、きちんと納得してもらえるように具体的にどこがよくないのかを指摘する必要があります。私も時にゲストの査読者として査読をします。採択不可を告げるときには、特に念入りに査読コメントを数ページにわたって書きます。また採択可・一部書き直しを告げるときにも、必ず具体的にコメントを書くようにします。いずれにせよ、私は投稿者にいつ査読者が柳瀬という人間であるとわかってもいいように、事実と論理に即して、言葉遣いは丁寧にコメントを出します。ですから、正直、査読はやりたくありません。シンドイからです。しかし私が納得できる具体的な理由で査読を求められたらやります(私が査読できる分野でなければ誰の依頼であれ断ります)。こういったことは当たり前のことだと思うのですが、英語教育界は、まだまだ「読むべき人」が読んでいないことすら珍しくないのではないでしょうか。査読者は社会的な責任を強く自覚しておかないと、匿名の密室空間では、人間は気づかぬうちに権力の乱用をしてしまいます。このあたり、Naokiさんのような具体的なシステム構築が強く求められるかと思います。
と、再反論をしましたが、Naokiさんの常日頃のご尽力と、わざわざコメントを下さったことには感謝しております。こういった複雑な問題に関しては、複数の異なる立場からの正直な意見表明が重要だと思います。お互い異なる立場から、学界の改善を試みましょう。
追記(2008/09/05)
Naokiさんより再びコメントをいただきましたので下に掲載しました。皆様もぜひお読み下さい。Naokiさんの丁寧なコメントに感謝し、さらに彼の良心的な学会誌運営のご努力に心からの敬意を表します。
Naokiさんの再びのコメントで私の無知もかなり正されましたが、特に(1)いいかげんな投稿も少なくないこと、(2)査読を引き受けるような人材を研究者養成機関は育成しているか、という点には特に考えさせられました。
(1)に関しては、「誤字脱字やスペリングミスの単純なミスが10を超える論文、および参考文献や論文スタイルが当学会の規定に合致していない論文は、査読をしない」と学会の規約に明文化することはできないのでしょうか。これは社会的に妥当な規約だと私は考えます。
(2)に関しては、本当に懸念し、具体的な行動を起こしてゆかねばなりません。話を大きくしてはいけませんが、「新自由主義」があまりにも時代のイデオロギーになり、「個々人が利己的に行動して自己利益の極大化に勉めれば、よりよい社会ができる」という命題が経済活動を超えて適用され、本来なら公共性を一義にしなければならない分野(研究や教育はその代表例)の営みを損ねているように思えます。その大きな流れに、少しでも抵抗しなければならないと思います。特に私の立場ではその責任は大きいかとも思います。
なお、査読論文数が二桁におよぶという査読者の存在には驚きました。そういった方は本当に大変だと思います(少し多すぎるのではないかと思いますが、引き受け手がいない以上、そうならざるを得ないのでしょう)。ただ最近知己を得た米国の研究者の方は「査読をすると、最新の研究状況がわかるから勉強になる。でもまあ、最近は歳をとってきたので、自分が本当に興味ある論文しか査読しないようになったけどね」とおっしゃっていました。この場合は、投稿される論文の質が概して高いので、査読者も査読をそれなりに楽しんでいるのでしょう。この点、日本の場合は、まだまだ投稿論文の質が低い場合が多く、査読者の徒労感を増しているのかもしれません。私も含め、投稿者には猛省(「投稿者の良心・自覚」)が必要ですね。
あと私は(も?)これ以上の「蛸壺的な学会乱立」には賛成できません。ますます日本の英語教育界のパワーが分断され、落ちてゆくばかりになるのではないかと思います。むしろ現存の学会ですら統合して、事務局機能は専従の事務職員を雇用し、彼/彼女らにプロとしてやってもらうぐらいのことが望ましいと考えています(しかし学会統合などは、それぞれの学会の重鎮などがとかく反対する傾向にあると思っていますので--間違っていたら謝ります--このシナリオには十分な計画が必要かと思います)。
いずれにせよ、Naokiさんの再投稿に感謝します。
もし他の方も、異なる立場からのご発言がありましたら、歓迎いたします。社会的マナーさえ守っていただければ、コメントは掲載しますので、よかったらコメントをお願いします。
追記
「女教師ブログ」におけるこの記事へのコメントをぜひご参照下さい。
http://d.hatena.ne.jp/terracao/20080906/1220641636
2 件のコメント:
このように取り上げていただき,ありがとうございました。正直なところ,立場の問題もありますし,「メールか何か別の媒体で書くべきだった。コメント削除をお願いしなければ!」と思っていたところです。読み直してみましても,ちゃんとした文章も書けていません。お恥ずかしい限りです。
拝読して,御説ごもっとも,と感じる部分も多くありました。しかし,「査読者の良心・自覚」に関しては私の経験と大いに違いました。例えば,ある学会では,査読担当者はそれぞれ担当論文を査読した上で,泊まりがけでディスカッションをし,審査結果を通知しています。また別の学会では,「投稿者だって必死で書いてくるんだしね。こちらだってちゃんと調べてちゃんとコメントしないと。」と語りその通り実行されている査読者や,ご自分の知識・能力を超えると判断された場合に正直にそれを認め,別の方の査読を求める査読者を含め,多くの査読者が丁寧に,真摯に投稿論文と向き合い,審査されています。
ただ,これほどまでに「経験知」が違うこと自体,残念ながらそういった良心的な方ばかりではない,という現状の証かもしれません。
しかし,こうした良心的な仕事をされる方に限って,尋常ではない数の論文を査読しなければならない,という
現実的な問題もあります。例えば前者の学会で一人の査読者が審査する論文数は二桁ですし,後者でもつい最近まで最低6編最高9編という状態でした。
査読者は「密室の強大な権力者」かもしれませんが,力関係で言うならば,「そういう権力を委ねている以上,それなりの説明を求めることができる」という権力を投稿者は有しています。先生のおっしゃる「社会的責任」を負わされている以上,査読者だけを権力者とは呼べないように思いますし,私は水平な関係で査読は行われるべきだと考えています。
ですので,「査読者の良心・自覚」が求められるのであれば,率直に申し上げて,「投稿者の良心・自覚」も求められるべきかと思います。執筆要項に従っていない書式などはまだかわいい方で,山ほど見つかる誤字脱字にスペリングミス,明らかにnative checkを受けていない英文,統一のとれていない,漏れのある参考文献リスト…もちろんマジョリティがこうではありませんが,そうした推敲を経ていない投稿論文に出会うことも少なくありません。
編集者・査読者の願いは「クオリティの高い学会誌を世に送り出すこと」です。もし投稿者が「どうせ出すなら少しでも業績評価の高くなるところで」という動機づけで投稿されているとしたら,私はそうした投稿者の「良心・自覚」を疑います。
また,「質的研究、ナラティブ、社会科学系、哲学系などのアプローチ」に限らず全てのアプローチに共通する難しさかもしれませんが,そのアプローチがある一時期に支配的なアプローチと異なる場合,論点に至る前に,十分に読者(査読者を含め)との共通の素地を作り上げなければならない,という難しさもあるように思います。そういう難しさを回避する一番ラクな方法は,独自学会を立てることです。結果として,蛸壺的な学会乱立につながっているように思いますが,私はそのことが英語教育学界全体にとって望ましいことだとは思いません。
上述した異常な査読者の現状を含め,システム構築/改善には時間と人手が必要です。実際,ある学会で「それはおかしいんじゃないの?」と声を上げてから,ある程度「読むべき人が読む審査システム」を構築するまでに3年かかりました(まだまだ完璧ではありませんが)。同調してくださる方が多くいらっしゃったにも関わらず。研究の多様化が進めば進むほど,幅広い背景を持つ査読者集団が必要です。もし誰もが「自分が納得できる具体的な理由があり,自分が査読できる分野でなければ査読はしない」というスタンスでいたならば,現状では査読システムは成立しません。本音のところでは「査読なんかしんどいのでしたくない」(誰だってそうだと思います)けれども,査読システムが(理想的なあり方ではないにしてもそれに近いところで)機能しなければならない以上,誰かが浪花節的に一肌脱がねばならないのだろうと思います(先生のおっしゃるとおり,世知辛い世の中ですので)。が,残念ながら,私のような浅学非才な者が現在のような立場にいることを考えますと,そういうスタンスを持つ方が現在でも多くないようです。
この点に関連して,もう一つ心配なことがあります。私たちはいずれ歳をとります。私たちが「古い」世代となったときに,浪花節的スタンスで査読を担当してくれるような人材を研究者養成機関は育成しているか,という点です。私自身がそういう機関に所属していませんので現状は分かりかねますが,「業績評価上1ポイントでも多く」原則で指導されているとしたら,スケールの大きな研究者は生まれないと思います。(これも「世知辛い世の中」の弊害なのでしょうが。)
複雑な問題を抱えつつも走り続けなければならないbandwagonをより望ましい方向に舵を切るには,それに乗るしかないように思っています。
駄文を連ねましたこと,お詫び申し上げます。
コメントバックをありがとうございました。時間がありませんので一点だけ(1)について。
「規約」で縛れるなら誰も苦労しません(笑)。
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