2008年10月11日土曜日

M・フーコー著、中村雄二郎訳『知の考古学』河出書房新社

十年ぐらい前、ある飲み会でうっかり「私はまだフーコーを読んだことがない」と言いましたら、ある社会学者に罵倒されました。その後、私の不勉強はあまり改善されませんでしたが、さすがに最近少しずつ入門書や解説書を読み始めました(特に中山元氏のわかりやすい解説には非常に助けられました。「洋泉社新書」「ちくま新書」)


今回、『知の考古学』を読んでみました。以下は私自身のためのノートです。

ただ私にはフランス語がまったく読めないという致命的な欠陥があります。加えて、今回はまだ英訳も入手していませんので、私の今回の読解は、日本語訳だけに基づく、極めて不十分で偏ったものです。

個人的には読み進めながら、ソシュールらの構造主義に関する常識的理解、ルーマンのシステム理論に関するある程度の理解(社会システムとしてのテキストにとって、作者という心理システムは、直接に連結されていない外部(「環境」)である)、デリダに関する表層的な理解(差異に着目することの重要性)、あるいはレヴィナスに関する一知半解(「全体性」の批判)などが、このフーコー作品の読解を助けてくれたように思っていますが、これも誤解で、むしろ私はこれらの知識でフーコーをより誤読しているのかもしれません。

言い訳はこのくらいにして、まとめを始めましょう。


フーコーは「考古学」において、<言説>(ディスクール)の記述を目指します。これは「書物」でも「理論」でもなく、例えば「時間を貫いて医学というもの、経済学というもの、あるいは生物学というもの、として与えられている、身近でもあれば謎をも含んでいるさまざまな総体のこと(1ページ)」だとフーコーは述べます(ここで医学、経済学、生物学が例に挙げられているのは、この本が彼の『狂気の歴史』『臨床医学の誕生』『言葉と物』を方法論的に総括するものだからです)。

フーコーは彼の「考古学」の試みを、従来の「思考史」と対比させています。起源を求め、そこから伝統を再構成し、その起源から伝統への同一性を強調する「思考史」は、あたかも思考の中に<他者>を考えるのをおそれていたかのようであるとフーコーは「思考史」を批判します。


起源を求めること、無制限に先立つ系譜を遡ること、伝統を再構成すること、進化の曲線をたどること、目的論をうち出すこと、たえず生の隠喩に立ちかえること、などに慣れてしまったところでは、差異を考え、偏差や分散を記述し、同一なもの、心を静めてくれる形態を解体させることに、独特な嫌悪を感じていたがごとくである。あるいはいっそう正確にいえば、あたかも、閾、変動、独立したシステム、限られた系、などの諸概念--これらは実際には歴史家たちによって使われているのだが--から、容易に理論をつくりかね、一般的な帰結を引出したり、さらにはすべてのありうる内含を派生させたりしかねていたがごとくである。あたかも、われわれ自身の思考の時間のうちに、<他者>を考えるのをおそれていたかのごとくである。(23ページ)


フーコーの「考古学」の試みは、一般性を堅固に打ち立てようとする「思考史」とは異なり、「言表」(エノンセ)を緻密に、透徹するように読むことにより、その「言表」の特異性を明らかにしようとするもののように思えます。


重要なのは、その出来事の狭さと特異性のうちに、言表をとらえることである。その存在条件を決定し、限界をもっとも正当に定め、それに結びつきうる他の諸言表との相関関係をうち立て、それが他のいかなる言表形態を排除するかを示すことである。人々は決して、明白なものの下に、他の言説の半ば沈黙のつぶやきを探し求めることはしない。むしろ、なにゆえに、それが他のものではありえなかったのか、いかなる点でそれが他のすべてを排除しているのか、いかにしてそれが、他のもののなかで、また他のものとくらべて、他のいかなるものも占め得なかった場所を得ているのか、を示すべきなのである。このような分析にふさわしい問いは、次のように定式化されよう。一体、述べられていることのうちに現れてきて--他のいかなる場所にも現れない--この独自な存在は何なのか?(45-46ページ)


こうして言表の分析を目指す場合、以下のような問いも当然生じてきます。


(1) 誰が語るのか?語るすべての諸個人の総体のなかで、誰が、この種の言語を有する理由があるのか?誰がその有資格者なのか?誰がそれから自己の独自性、威信をうけとるのか?
(2) 言説がその正当な起源と適用の眼目を見出すような、さまざまな制度的<場所>は何なのか?
(3) 主体のさまざまな立場を規定する、主体がさまざまに異なった対象の分野やグループに関して占めうる位置とは何か? (79-81ページの記述を柳瀬が要約)


かくして、「考古学」は、言表の起源としての一個の主体の堅牢性を激しく問い直し、そういった意味での主体を解体しようとします。


こうした分析において、言表行為のさまざまに異なった様態は、総合というもの一個の主体の統一化機能というものに問題の解決を托す代わりに、主体の分散を明示する。さまざまに異なった規約において、さまざまに異なった場所において、主体が言説を述べるときに占めうる、あるいはうけいれうる、さまざまに異なった立場において。そこから主体が語る諸平面の非連続性において。そして、もしこれらの平面が諸関係の一システムによって結びつけられている場合には、そのシステムは、自己と同一の、無言の、あらゆる言葉に先立つ意識の綜合的活動によってではなく、言説=実践の特殊性によって、確立される。(84-85ページ)


あるいは言表の主体をフーコーは次のようにも説明します。


それゆえ、言表の主体を定式的な表現の作者と同一なものとして考えるべきではない。実体的にも機能的にも、そうである。事実、言表の主体は、一つの文の書かれたあるいは口で述べられた分節化というこの現象の原因でも、起源でも、出発点でもない。それはまた、沈黙のうちにあって語を侵し、語に秩序を与えその直観の可視的な修正とする有意味な狙いではない。それは、さまざまな言表が順番に言説の表面において明示するようになる一連の活動の、恒常的で不動、かつ自己同一的な、中心ではない。それは、確定された、空の--相異なった諸個人によって実際には充たされうる--一つの場所である。だが、この場所は、決定的に規定され、一つのテキスト、一冊の書物、一つの作品の全体を通じて、かようなものとして規定される代わりに、変化する。--あるいはむしろ、それは、多くの文を通じて自己同一的なものでありつづけうるためにも、それぞれの文とともに変容しうるためにも、十分可変的なものである。それは、言表としてのすべての定式的表現を特徴づける一つの次元である。(144-145ページ)。


そうなると当然といいましょうか、言表の総体も、閉ざされた全体ではありません。


言表の一総体を、一つの意味作用の閉じた、過剰な全体性としてでなく、空隙をもち寸断された一つの形象として、記述すること。言表の一総体を、一つの意図、一つの思考、一つの主体の内在性との関連においてではなく、外在性の分散に応じて記述すること。言表の一総体を、そこに起源の瞬間あるいは痕跡を見出すためではなく、一つの累合の特殊的な諸形態を見出すために、記述すること。これはもちろん一つの解釈を明るみに出すことではなく、一つの基礎を発見することでも、構成的な諸行為を解放することでもない。これは、一つの合理性から決定することでも、一つの目的論をたどることでもない。(192ページ)


「述べられたことの領域」をフーコーは<集蔵体>(アルシーヴ)と呼びますが(II)、彼はその分析は、私たちの差異を明らかにするものだと述べます。差異の中の連続をフーコーは明らかにしたいのでしょうか。


だが、それ[=集蔵体]はわれわれを、われわれの連続性からひきはなし、歴史の切断を払いのけるためにわれわれが好んで自己自身を眺める場所たる時間的な同一性を霧散させる。それは、超越論的な目的論の糸を断ち切る。そして、人間学的思考が人間の存在(エートル)やその主体性を問う場面では、それは他者や外部をはっきり明示する。かような意味での診断は、区別の働きによって、われわれの同一性の確かさをうち立ててはくれない。それがうち立てるものは、われわれが差異であり、われわれの理性が言説の差異であり、われわれの歴史が時間の差異であり、われわれの自我がさまざまな顔の差異である、ということである。差異とは、忘れられ、再び蔽われた起源などでなく、われわれがそうであるところの、また、われわれがつくるところの分散である。(202ページ)


冒頭に述べましたように、私のこのまとめの正当性については保証できません。ご興味がある方はぜひオリジナルをお読み下さい。

参考:Wikipediaの記述


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