2008年10月31日金曜日

教育と生産を混同するな--ウィドウソン、ハーバマス、アレントの考察から--

ここでは教育(education)と訓練(training)の違いを述べ、両者はつながっているものの、性格を異にするものであり、その違いを的確に認識しておくことが重要であることを述べます。とくに産業革命以降の資本主義が情報革命により競争激化した現在、産業や経済活動のメタファーがあまりに強くなり、私たちの認識を歪めているとも思える昨今、教育について考えることは非常に重要です。

Widdowson, H. G. 1983. Learning purpose and language use. Oxford: Oxford University Pressの第一章は、教育を考えるには非常に有益な章です。ここでのウィドウソンの議論を単純に整理すると、以下の二項対立的区別を理解し、それぞれの対立において両者共に重要であることが必要であるということになります。


ESP-- GPE
(English for Specific Purposes) -- (General Purpose English)

Objectives -- Aims
(within the period of the course) -- (after the period of the course)

Competence -- Capacity
(conventional, restricted) -- (creative, general)

Training -- Eduction
(trainer-trainee) -- (teacher-learner, not "teachee")


この本が出た当時、ESPが大流行で、GPEはやたらと批判されていました。しかしGPEの要素を全く欠いたESPはあり得ず、GPEも重要な概念であることを述べたのがウィドウソンのポイントかと思います。

上の図の左項では、すべてが対象を限定し、その限定した対象を目標として、その目標を一定期間内に達成するために徹底的に合理的に訓練をするといったのが共通した考えになっています。この「目標」をウィドウソンobjectiveと表現していますが、ニュアンスとしては(アレントが彼女の作品の英訳で使ったように)endの方がわかりやすいかと思います。左項では目標がendであり、endが達成されることが全てであり、達成されれば全てはendなのです。

しかしESPが想定する言語使用状況でも、全くの決まり文句だけでなく、言語使用者は、事前には予想されなかった状況で、創造的に言語を使用する必要が生じてきます。この時右項の考えが重要になってきます。

GPEでは「目標」(objective, end)ではなく「目的」(aim、しかしここでもアレントの英語のgoal, guideline, orientationといった表現の方がニュアンスを理解しやすいと思います)を目指します。「達成する」ことではなく、「目指す」わけです。といいますのも、この目指すものは、方向であって、限定された到達点でも対象でもないからです。「目的」はendではないのです。ですから目的は一定期間内での実現よりも、その教育期間が終わった後に学習者が適切な方向づけをもって育つことを目指します。これがウィドウソンの理解する教育です。

左項は訓練、右項は教育です。左項では訓練する者と訓練される者に対称的な関係が成立しています(trainer-trainee)。Traineeはtrainerがtrainしたものを習得するだけです。これに対して右項の教育では対称関係が成立していません。Teacher-teacheeという関係はありません。Teacherが教育するものは、learnerにおいてどのように開花するか、teacherは予測できません(これはベテラン教師が喜びの感情と共にしばしば証言することです)。教育の「結果」は、teacherにもlearnerにも予測できないのです。それが教育の素晴らしさです。教育の結果を完全に予測しようとすることこそは教育の本質を誤解していることなのでしょう。


ところが、現在は、近代の目標合理性(Zweckrationalität)(注1)の考えがあまりに強くなりすぎています。上の図で言えば左項の考え方です。この考え方は、産業の生産や経済の売り上げなどの管理に非常に適しているからです。近代の危険性の一つは、産業や経済ばかりを人間にとって重要だと考えてしまうことです。

ハーバマスは、例えば『イデオロギーとしての技術と科学』で、この目標合理性の考えが、伝統社会の批判を許さない体制正当化を考えを揺さぶるのに有効であったことを認めつつも、近代社会では資本主義的生産様式においてこの目標合理性が肥大化し、それが生産や経済の領域を超えて、学問・政治・教育・生活などにまで浸食していることを指摘します。さらに目標合理性は近代のイデオロギーとなり、これを疑うことを私たちに許さないようになりつつあるとも指摘します。
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/review.html#060222

アレントの言い方に倣うなら、人間の行動的生活(Vita Activa)は「労働」(die Arbeit, labor)、「制作(もしくは仕事)」(das Herstellen, work)(注2)、「活動」(das Handeln, action)から成り立っています。ここでアレントを説明していると長くなるので、ご興味のある方は、以下の拙文をお読み下さい。

「人間らしい生活」
http://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/10/blog-post_31.html
「アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析」
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/zenkoku2004.html#050418

ここでは拙文のポイントを非常に単純化して言いますと、生産物を作り出すという「制作(もしくは仕事)」が近代では肥大し、人間が人間らしくあるために、お互いを認め合い、お互いのために活力ある公共的な空間を創り上げる「活動」が抑圧されているということです。私は学校教育においても学習者に「制作(もしくは仕事)」に対応できるように訓練することの必要性は十二分に認めつつも、学校教育は「活動」する市民を育てる義務を忘れてはならないということを上の拙文では主張しています。


話を教育に戻します。学校での授業を「訓練」と「教育」の二分法で考えた場合、両方が必要です。最初に来るのは訓練でしょう。しかし学校の授業が訓練だけで終わってはならず、授業は教育の側面をだんだんと協調すべきです。

しかし現在は、妙に産業界に媚びを売るような人が教育の管理者となり、産業や経済の論理で教育を支配しようとしています。授業にも数々の数値目標をあてがい、その数値を管理することによって教育を良くできると信じて疑わないようです。

これは産業界や経済界の人々が教育界に提言しているだけでなく、教育界の中の人間までもが、そのような産業・経済的な思考で動くようになっています。教育界の一部の人々はそれを喜々として行ない出世をします。多くの人々はそれをしぶしぶ行ないます。そうしないと失職の怖れさえあるからです。そうして教育に対する情熱を失ってゆきます。考えることさえ放棄するようになります。そうでないととてもやってゆけないからです。

かくして教育者までもが考えることを止めます。その教育者に教えられる学習者も考えなくなることは十分に想像できることです。もしそうなるならこの国は、考えることを止めて、ひたすら生き残ろうとする人々、産業・経済的な目標合理主義だけで自らの人生だけでなく、他人の人生も、公共の社会も埋め尽くそうとする人々ばかりとなります。そのような国が、どのように怖ろしいものになるか--これは歴史が既に示していることでしょう。

イデオロギーは本当に怖い。ハーバマスも言うように、イデオロギーの怖さは、浸透してしまって、私たちがそれを自覚できなくなってしまうことです。それを当たり前のこととして疑わないどころか、疑う者を糾弾さえしてしまうことです。


こういった点で、今朝(2008/10/31)の毎日新聞に掲載されたノーベル賞関連談話は興味深いものでした。


自然科学研究は「問題」と「解答」から成り立つが、決定的に大切なことは、自らの問題設定能力である。(中略)
昨今の哲学無視、効率性重視の風土では、独自性ある課題の発掘は難しい。
近年の成果主義を機軸とする外形的な研究評価システムは、生産性の向上には役立っても、創造性と多様性を大きく損なう。周囲には競争を煽るよりも、寛容を望みたい。(野依良治 2001年ノーベル化学賞受賞者)


ノーベル賞受賞者数を政策目標に使うような発想は、ぼくはゆがんでいると思う。それは、自分では評価できませんという無能ぶりを告白しているに等しい。だからぼくは日本に必要なのは、ノーベル賞受賞者そのものより、研究や業績を王立科学アカデミー並みの見識と主張をもって評価できる人や組織の育成じゃないかと思うのだ。(山形浩生 評論家)


「これらは『研究』の話だろう。『教育』の話ではない」と反論される方もいらっしゃるかもしれません。しかし次世代の教師を育てる教育・研究機関にいる私としては--私が歪んだ見方をしているのでなければ--そういった機関までもが短期的で限定的な合理性ばかりに支配されいるような気がしてなりません。経営陣は産業・経済的な目標合理性による支配を管理の形で喜々として(あるいは汲々と)行ない、教師もそれを唯々諾々とし(あるいはせざるをえず)、学生もその支配と管理を当然のこととし、一部の学生はそういった支配と管理を善きこととして求めるようになっているような懸念を払拭することができません。そういった機関で育った若者が「優秀な教師」として社会に出ることに私は一抹の不安を感じざるを得ません(公正を期すために申しますと、学生さんの多くはまともな感性を持っています)。

教育を生産と混同することは止めましょう。なるほど授業にも訓練の要素があるのですから、目標合理性もその点では有効です。私もそういったことを認めるにはやぶさかではありませんし、むしろ自分自身も学生さんに勧めているぐらいです(旧ホームページの「教育」のページ)。しかし教育は訓練を超えるものです。教育を生産と等しいものと考えることは誤りです。生産の論理で教育を支配しようとすることは、教育を殺すことです。それは人間の創造性と多様性を否定することです。そんな社会は怖ろしい。

イデオロギーには別に「イデオロギー」というラベルがついて流通しているわけではありません。自ら考えること、つまりは哲学の文化が、現代日本ではこれまでになく必要なのではないでしょうか。



(注1)邦訳文献ではZweckは「目的」と訳されるのが慣例となっています。私も今まではその翻訳の慣例にしたがってZweck概念は「目的」と訳していましたが、日本語の通用法では、「目的」を抽象的・長期的概念として、「目標」を限定的・短期的概念として使い分けていることが多いので(例、「数値目標」)、私はこの文章でも、邦訳文献の慣例ではなく、日常的な日本語慣用に従って「目的」「目標」という言葉を使い分けています。

(注2)Das Herstellenは英訳のworkに引きずられてか、「仕事」と訳されることが多く、また私も「仕事」という訳語をこれまで使ってきましたが、アレントを読むにつれ、これは「制作」と訳した方がよいかと思い始めました(実際、「制作」という訳語を使う研究者も多くなっています)。






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