2013年5月19日日曜日

ジョン・ホロウェイ(著)高祖岩三郎・篠原雅武(訳) (2011) 『革命 -- 資本主義に亀裂をいれる』河出書房新社





■旧来の「革命」ではなく

この著者の前著である 『権力を取らずに世界を変える』に引き続き、この本が翻訳されて日本語で読めることに対して、私は心から感謝していますが、この本をCrack Capitalismという原題を『革命』という邦題にしてしまい(「資本主義に亀裂をいれる」というのは副題にしてしまっています)、なおかつ下記のような表紙デザインにしてしまったことに対しては、大いに不満です。これではまるで旧態依然の左翼本にしか見えない。この本は、硬直化してしまった革命観を一新する本であると私は理解していますから、この邦題と表紙デザインを選んだ判断には賛成できません。











著者であるジョン・ホロウェイ (John Holloway)は、旧来の「新しい社会は資本主義システムを転覆させた時にのみ成就する」といった主張に対して、以下のように反対します。

The argument here is that, on the contrary, the revolutionary replacement of one system by another is both impossible and undesirable. The only way to think of changing the world radically is as a multiplicity of interstitial movements running from the particular. (p. 11)
以下、いつものように拙訳です。
この本の議論はまさに逆で、あるシステムを別のシステムに革命的手段で入れ替えてしまうことは、不可能でありまた望ましくもないというものだ。世界を根本的に変えることを考える唯一の方法は、多種多様の個別のものから亀裂が広がるように考えることである。


著者が考えている社会変革の構想は、整然とした一本道のようなものでもなく、詳細な設計図に基づくものではありません。(一本道や設計図を誰かが知っていると信じた時に社会に起こる災厄については、私たちは20世紀で十分に学んだはずです)。



■自らの理想化や固定化に抗して

ですから、著者は、社会変革の担い手としての私たちを決して理想化しません。私たちは資本主義の中に生まれ暮らしながら、資本主義に亀裂を入れようとする自己矛盾を遂行しようとするわけですから。

Our cracks are not pure cracks, our dignities are not pure dignities. We try to break with capitalist society, but our break still bears its birthmarks. However much we try to do something different, the contradictions of capitalism reproduce themselves within our revolt. We are not pure subjects, however rebellious we might be. The cracks, both as spaces of liberation and as painful ruptures, run inside us too.

These problems are probably inevitable. The purpose of the cracks is not to create a community of saints but to establish a different form of relations between people. The cannot be based on purity, or on Puritanism. (p. 64)
私たちの亀裂は純粋な亀裂ではないし、私たちの尊厳も純粋な尊厳ではない。私たちは資本主義社会から離脱しようとしているが、その離脱から資本主義の刻印が抜けることはない。私たちがいかに異なることをなそうと試みても、資本主義の矛盾は私たちの反乱の中に再生産されるだけである。いかに反逆的であれ、私たちは純粋な主体ではない。亀裂とは、解放の空間であると同時に痛みを伴う断裂であり、資本主義システムだけでなく私たちの中にも走っている。
これらの問題を避けることはおそらくできない。亀裂をつくることの目的は、聖人の共同体をつくることではなく、人びとの間にこれまでとは異なる形態の関係性を構築することだ。 


私たちは自ら尊厳をもつ者として自己規定し不当な支配を拒絶しますが、その尊厳とて、完全なものもなければ、固定化され自己賛美されるものではありません。

Dignity is the unfolding of the power of NO. Our refusal confronts us with the opportunity, necessity and responsibility of developing our own capacities. ... The assumption of responsibility for our own lives is in itself a break with the logic of domination. This does not mean that everything will turn out to be perfect. The dignity is a breaking, a negating, a moving, and exploring. We must be careful not to convert it into a positive concept that might give it a deadening fixity. (p. 19)
尊厳とは否定の力を開花させることである。何かを拒むとき、私たちは自らの対応力を発展させる機会、必要、そして責任に直面する。自分の人生に責任を担うことは、それ自体が、支配の論理から離脱することである。だからといって、すべてがうまくいくわけではない。尊厳とは、離脱であり、否定であり、動きであり、探究である。尊厳を疑いようのない概念に変えてしまい、死に至る固定性に至らないように私たちは注意しなければならない。






■資本主義批判

しかしそれにしてもなぜ資本主義に亀裂を入れなければならないのでしょう。

それは一つには、資本主義が私たちの社会的な結びつきを、すべて商品化し数量化・抽象化してしまうからです。商品でもなければ数量化されたり抽象化されるものでもない、個別の質的で具体的な結びつきを資本主義が次々に商品化・数量化・抽象化しようとするからです(参考記事:モイシェ・ポストン著、白井聡/野尻英一監訳(2012/1993)『時間・労働・支配 ― マルクス理論の新地平』筑摩書房)。

新自由主義は、電気や交通といった公共事業はもちろん、年金・医療・教育・研究といった、本来は社会で広く共有すべき豊かさまでも商品化・数量化・抽象化しようとしていますが、資本主義でもっとも根源的なのは、私たちの労働力の商品化・数量化・抽象化でしょう。そこから資本主義が、私たちの暮らしの営みへ侵食し始めます。

It is when labour power becomes a commodity and capitalist production is born that there is a general commodification of social relations. Everything in society tends to be transformed into a commodity and the connection between the different processes of work is a purely quantitative connection, measured in money. The connection is established through abstracting from the particularities of each activity. The transformation of our doing into labour is at the centre of a new complex of socialisation. (p. 104)
労働力が商品となり資本主義的生産が始まる時に、社会的関係の全般的な商品化が始まる。社会のすべてが商品へと変えられ、仕事により異なる過程の間の結びつきは、貨幣で測られる純粋に量的結びつきとなる。結びつきができるのは、個々の活動の個別性が抽象化されてのことである。新たな社会化の網の目の中心にあるのは、私たちの行いが [資本主義的な]労働へと変えられることなのだ。




資本主義的な社会的結びつきを、やがて私たちは唯一の結びつき、それ以外はありえない必然の人間の結びつきと考えるようになります。資本主義社会の「価値」(正確には「商品価値」参考記事:マルクス商品論(『資本論』第一巻第一章)のまとめ)こそが、私たちが追求すべき価値であり、国家が追求すべき価値だと信じ込みます。



It is not the state that creates the social synthesis that surrounds us, although it often presents itself as doing so. The state repressed or co-opted into something other than the state. The real force of cohesion stands behind the state: it is the movement of money. Money makes the world go round, as the saying has it. More precisely, the social synthesis is established through that which is expressed in money: value.

Value is what holds society together under capitalism. It is a force that nobody controls. Capitalism is composed of a huge number of independent units which produce commodities that they sell on the market. The social interconnection between people's activities is established through the sale and purchase of commodities or, in other words, through the value of the commodities, expressed through money. Value (manifested in commodities, expressed through money. Value (manifested in money) constitutes the social synthesis in capitalist society that which holds together the many different, uncoordinated activities. The state presents itself as being the focal point of social cohesion, but in fact the state is dependent on money and can do little to influence its movement. (pp. 65-66)
国家は、しばしば国家こそが私たちを社会的に統合しているようなふりをするが、私たちの社会的統合を創り出しているのは国家ではない。国家は自らを抑圧し、国家以外のものに自らを接合させてしまった。社会をまとめている現実の力は、国家の背後にある貨幣の運動である。よく言われるようにお金が世界を動かしているのだ。もう少し正確に言うなら、社会的統合は、貨幣によって表現されているもの、すなわち [商品]価値によって達成されている。

[商品]価値とは、資本主義のもとにある社会をまとめるものである。それは誰も制御できない力である。資本主義は、市場で売られる商品を作る多数の独立した単位によって構成されている。人びとのさまざまな活動の間の社会的な相互の結びつきは、商品の売買、言い換えるなら、貨幣によって表現された商品価値、によって成立している。(貨幣によって姿をあらわす) [商品]価値によって資本主義社会の社会的統合が達成されているのだが、この統合によって、本来はばらばらの多くの異なる活動がまとめられる。社会的まとまりの焦点にあるのは国家であるという自画像を国家は提示するが、実際のところは、国家は貨幣に従属しているのであり、貨幣の運動に対してほとんど何も影響を与えることはできない。




資本主義の社会の結びつきは、(資本家ではなく)資本そのものがもつ「自動的な主体」としての力によってますます強化されます。

Capital, although it is created by humans, acquires a force independent of any human volition. It is not controlled by capitalists: capitalists are capitalists only to the extent that they succeed in obeying the logic of capital. Capital (the object of our creation) is an 'automatic subject' (as Marx called it), the Subject of capitalist society. It is the story of Frankenstein, the story of sorcerer's apprentice. By constituting capitalism, we create a system that we do not control, a system with its own laws of development. We create capitalism and thrust ourselves into a terrifying world. (p. 146)
資本は、人間によって創り出されたものでありながら、いかなる人間の意思からも独立した力を獲得する。資本家が資本を管理しているのではない。資本家が資本家でありえるのは、資本の論理に従っている限りのことなのだ。(私たちが創出した客体であった)資本は、(マルクスが言うように)「自動的な主体」、資本主義社会の大文字Sの主体(Subject)となっている。これは [自ら造り出した人造人間に苛まされる] フランケンシュタインの物語であり、[自らかけた魔法を制御できなくなる]魔法使いの見習いの物語である。資本主義を構成することにより、私たちは自ら管理できないシステム、それ独自の発展法則をもつシステムを創出する。資本主義を創出し私たちは自らを恐るべき世界に追い込む。




私たちは自らが創りだした資本主義的生産体制の中に絡め取られ、(資本主義)社会の主体から客体へと転落してしまいましたが、同時に、私たち自身が資本主義社会を構成しているという事実は残っています。貨幣に媒介された関係が私たちの社会的関係となってしまいましたが、この社会的関係を創り出したのも、日々再創出しているのも私たちです。私たちは捉えられていながらも何かができるはずです(これが私たちの矛盾であり希望です)。



When we say that money is a form of social relations, we say, then, that it is a form that we create and re-create, a form that depends not just on our initial creation but on our constant re-creation. The same can be said of the state or capital. (p. 231)
貨幣が社会的関係の形態だと言うとき、私たちが同時に言っているのは、その形態は私たちが創出し再創出している形態、つまり、私たちの最初の創出だけでなく、私たちのたえまない再創出に依存している形態だということである。同じ事は国家や資本についても言える。




ですから身近な言い方をすれば、こうなります。

The challenge is always to see to what extent we can use money without being used by it, without allowing our activities and our relations to be determined by it. (p. 69)
私たちが挑まなければならないのは、どの程度まで私たちはお金に使われることなくお金を使いこなすことができるのかを知ることだ。つまり、いかにお金を使いながらも、お金に寄って私たちの活動や関係のあり方をお金によって決定されないかを知ることだ。






■問いながら歩き、行動へ

かくして私たちは矛盾した試みに挑みます。私たちの社会を構成するものを全面否定も完全破壊もすることなく、それに亀裂を入れ、私たちの尊厳と自由を取り戻す試みです。

Our task is to learn the new language of struggle and, by learning, to participate in its formation. ... The learning of a new language is a hesitant process, an asking-we-walk, an attempt to create open question-concepts rather than to lay down a paradigm for the understanding of the present stage of capitalism. (pp. 12-13)
私たちの課題は、抵抗の新しい言語を学ぶこと、そしてその学びそのものによって新しい言語を形成することだ。新しい言語の学びの過程は、定まっていない。いわば、問いながら歩くこと、つまり資本主義の現段階を理解するための枠組みを確定してしまおうとするのではなく、開かれた問いの概念を創り出そうとする試みである。




例えばローザ・パークスが、バス席の移動を拒んだとき、彼女は未来がどうなるかわかっていませんでした。しかし彼女は、他の公民権運動者と共に、問い続けながら歩き続けました。資本主義社会の諸問題を看過できないと感じる私たちは、問い続けながら歩きます。歩くということは、資本主義が用意した道を拒み、それ以外の道を見出すということです。

本書の第一章は次のように始まっています。



Break. We want to break. ...

We want to create a different world. ...

We protest and we do more. We do and we must. If we only protest, we allow the powerful to set the agenda. If all we do is oppose what they are trying to do, then we simply follow in their footsteps. Breaking means that we do more than that, that we seize the initiative, that we set the agenda. We negate, but out of our negation grows a creation, an other-doing, an activity that is not determined by money, an activity that is not shaped by the rules of power. (p. 3)
壊したい。私たちは壊したい。

私たちは違う世界を創造したい。

私たちは反対するが、それ以上のこともする。そうするしそうしなくてはならない。もし私たちが反対をするだけなら、権力者が行動計画を決めるだけだ。もし私たちが権力者が計画していることに反対するだけなら、私たちは単に権力者の後をたどるだけだ。壊すとは、反対以上のことをするということである。私たちが主導権を取り、私たちが行動計画を決めるのだ。私たちは否定するが、その否定から創造が生まれる。「違うことをなす」こと、つまり、貨幣によって決定されず権力の規則によって定められない活動の創造である。




かといって、私たちは既に正解を知っているわけではないことは、再三述べた通りです。さらに言うなら、正解を知らないということで、私たちがバラバラにならざるを得ないということではありません。



There is no single correct answer, but this does not mean that all these struggles are atomized. There is a resonance between them, a mutual recognition as being part of a moving against-and-beyond, a constant sharing of ideas and information. (p. 257)
唯一の正解などない。だからといって、私たちの抵抗がバラバラに孤立しているというわけではない。私たちの抵抗の間には共鳴があり、「抵抗し乗り越えよう」という動きの一部であるとお互いが認め合っており、たえず考えや情報が共有されている。




そういった流れが、マイケル・ハート、アントニオ・ネグリ著、幾島幸子・古賀祥子訳、水嶋一憲監修 (2012) 『コモンウェルス (上)(下)』 NHK出版にも出てきた、これまでとは異なる近代性 (altermodernity)でしょうし、またホロウェイが言及する「これまでとは異なるグローバリゼーション」 (alter-globalisation)でしょう。



The development of our power-to-do must not be understood as a rejection of socialisation. The challenge, rather, is to construct through the cracks a different socialisation, a socialisation more loosely woven than the social synthesis of capitalism and based on the full recognition of the particularities of our individual and collective activities and of their thrust towards self-determination. There are already many initiatives in this direction. The insistence of the so-called anti-globalisation movement that it is not opposed to globalisation but favours a different sort of globalisation and is therefore an alter-globalisation movement makes precisely the point that the struggle is not for a romantic return to isolated units but for a different sort of social interconnection. Horizontality, dignity, alternative economy, commons: all these terms relate to explorations in the construction of a different form of socialisation. (p. 248)
私たちの「行動する力」を育てることを、社会化の拒否だと理解してはならない。私たちが挑むべきことはむしろ、亀裂を通じて、これまでとは異なる社会化を目指すことである。資本主義の社会的統合より緩やかで、私たちの個々人でのおよび共同での活動の個別性をよく理解し、またそれらの活動は自己決定を求めているということもよく理解している社会化なのだ。既にこの方向に多くの動きが始まっている。ちまたで「反グローバリゼーション」と呼ばれている運動は、実はグローバリゼーションに反対しているのではなく、これまでとは違った種類のグローバリゼーション、つまり「これまでとは異なるグローバリゼーション(オルターグローバリゼーション)」を目指しているのだという主張は、まさに、抵抗はバラバラの単位へのロマン的回帰ではなく、これまでとは異なる社会的な相互の結びつきを目指しているということを明らかにしている。水平性、尊厳、これまでとは異なった経済、共有 -- これらの用語はすべてこれまでとは異なる形態の社会化を作り出そうとする探究に関連している。




となると悲観的になる必要もありません。私たちは、それぞれに人間らしくあろうとし、必要ならばこの資本主義社会で慣習とされていることとは違うことを行うことを選び、それぞれに人びとと結びつきあってゆけば、新しい世界は創り出せるはずです。

どこかの前衛集団の一斉指示による革命でなく、多種多様のあまたの人々が、それぞれの暮らしの中で、より人間らしくあろうとしたとき、そしてその試みが共鳴し新たな生命を得ること -- これが新たな意味での「革命」ではないでしょうか。



There is no single correct answer to the desperate (and time-honoured) question of what is to be done. Perhaps the best answer that can be given is: 'Think for yourself and yourselves, use your imagination, follow your inclinations and do whatever you consider necessary or enjoyable, always with the motto of against-and-beyond capital.' (p. 256)
「何をなすべきか?」という火急の(そして古くからの)問いに対して、唯一の正解などない。おそらくもっともよい答えとはこうなのかもしれない。「自分(たち)自身で考えよ。想像力を使え。気持ちに従い、自分が必要あるいは楽しいと思うことを行え。常に『資本に抗し、資本を乗り越えろ』というモットーと共に」。






この本は、決して翻訳書のタイトルや表紙が示唆するような教条的な本ではありません。いや、そういった硬直した思考から私たちを解放し、新たな行動へといざなう本と言えましょう。ぜひご一読を。

























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