先日(2010/05/29土曜)にUstreamを使ったオンライン読書会に参加しました。読書会の母体は東京大学大学院の寺沢拓敬さんを中心とするメンバーで、オンライン参加は武蔵大学の直井一博さんと私でした。
扱った本は
Routledge, 2010
■武蔵大学の直井一博さんのまとめ
以下は直井さんが作成したその日の議論のまとめです。原文をそのまま掲載します。
・現代の「帝国論」との接合、関係
Pの議論で前提とされている国家、国家間の関係が19世紀的であるという指摘。現代の諸国家間の関係とそれを論じる見方はより動的で複雑になっていることは確かであろう。それに一定程度準拠しないわけいにはいくまい。この意味で、現代思想のさまざまな考え方、社会理論に概略的にでも触れておく必要がある。
・英語使用に伴う不平等感、つまり、支配被支配(ヘゲモニー)の実際とその感じられ方を取り上げたのがPであると思われる。英語を母語として用いている人々・地域とそうでない人々・地域との間の力の不均衡が問題とされている。ただし、母語話者の概念や実態を正確に捉えようとするだけでも一枚岩ではない議論が必要であるし、第二言語、外国語という切り分けも程度問題であることも多い。19世紀的国家観とそれに結びついた言語から自由になりきることはできないとしても、現在の世界での人々の英語使用とそれに伴う使用実感、特に不平等感や力の不均衡がうまく説明できるための枠組み、概念が必要であるのかもしれない。
「文化」の概念を本質主義化してしまうことの危険に自覚的になるのと同じように、言語Xを特定カテゴリーに据えてしまうのではなく、その作業を行なう際につきまとう概念操作上の危うさを明記した上で、CDA的な、つまり、パワーの実際が具体的にどう作用しているかの観察を進める必要があるように思われる。こう考えて検討を進めていくならば、ミクロ-マクロの接合問題にもつながっていくように思う。
・応用言語学のあり方が問題化されていることは間違いない。ディシプリンとしての応用言語学も固定化せず前進していくものであると理解するならば、社会の実際、社会で問題にされている論点との関係もまた考えねばならない。
・学術的な概念、用語と日常的な概念、用語との関係が取り上げられた。「進化論」と「価値」の問題、「生態学」と「価値」の問題に関する柳瀬さんの指摘は重要である。日常生活で用いる進化論や生態学ecologyの用語とそれらのインパクト(何に対してのインパクトかも含めて)と、元来学術的な文脈での意味合いとの乖離自体をしっかりと捉える批判的な立場は堅持する必要があろう。
それと共に、学術的な概念がいかに日常生活で翻案されて独り歩き的に用いられ、思考、行為に、ミクロマクロに影響するかを検討してみることも重要であると考える。なんのためにか。ともすると陥りがちな議論上の袋小路から脱するために、ということもある。また、我々の思考・行為を良くも悪くも枠づけている概念を明らかにできるため、ということもある。
・Pの議論では、世俗的な、多様な価値を負わされた「エイゴ」の働き(=英語を用いる人々の間での力の不均衡な配置と利用のされ方)が問題とされている、と理解している。進化論や生態学と同様に厳密に「エイゴ」を扱えるかどうかの問題もあるが、仮にそう扱われたとして、それらがどのように作用しているか、何が現在そうあるように作用させているかを理解することは重要だと思われる。X→Yの図式において、因果関係という場合(If X, then Y)もあれば、「~に影響を与える、~を枠づける(ただし必ずしも決定しない)」という解釈学的な関係(X shapes, but not necessarily determines Y)もありうる。
・社会の中での英語を、人々がどのような視角からどのように語っているのか、それらが何に影響されているか、枠づけられているか。社会で力をもっている英語に関する見方、価値の表明はどのようにdiscursiveにでき上がっているのか、それらを人々がどのようにみているか、それらを利用しながら、人々はどのような力を行使しているか。個人的なdesiresと社会的な言説に登場してくる「エイゴ」がどのように関連づけられて表現され、それによってどのような力を行使しているのか。
・AAALに参加された先生の報告にあったように、応用言語学の一部では、多言語を使うワタクシが多言語を用いることをどのように捉えるか、という方向で研究が進んでいる。ナラティブ、ライフヒストリーとして語られる英語や他の言語を用いるワタクシという視点で取り上げられつつある。社会、コミュニティの中で、また、複数のそれらを渡り歩く(越境する)中で、言語を用いるワタクシが、他者たちとの関係の中で、具体的にどのように自らのidentity/-iesを感じ、自覚し、定義し、また、それをリソースとして利用しながら言語使用を展開しているかを捉える視点である。Pの議論ではミクロに位置づけられることになろうが、ミクロとマクロの連続性をこそ重要視したい。語られ方もまた言語使用にほかならないという意味で、dismissされてはならないと考える。
■単純な勧善懲悪的議論に警戒を
私個人の意見を付け加えるとしたら、Phillipsonは二項対立的な書き方が過ぎているので、議論が生産的でなく、いわば「勧善懲悪」的になってしまっているのが欠点だと思っています。英語を"Panacea or pandemic?"という枠組みで問いかけるのは、ジャーナリスティックで耳目を引く書き方ではありますが、逆にそこから冷静な分析が進みにくいように私には思えます。
その点では私はやはり"critical"な研究をさらに"critical"に見ようとする研究--言ってみるなら"critical critical studies"--の方に共感を覚えます。
私たちは言わば「大海を航海しながら船を修繕する」(We are like sailors who on the open sea must reconstruct their ship but are never able to start afresh from the bottom. )(Neurath's ship)ようなことをしなければならないのですから、ホロウェイ(Change the World Without Taking Power)が提唱するようなしたたかな戦略が必要だと考えます。
この意味でも私はPhillipsonの議論の仕方よりも、Pennycookの議論の仕方に共感を覚えます(柳瀬英語ブログを参照)。
■「帝国」(Empire)の現代的理解が必要
また、PhillipsonはHardt & Negri のEmpireを数カ所引用しているものの、Hardt & Negriの議論の本質を捉えた引用とはなっていません。Hardt & Negri の"Empire"概念は、19世紀的な"imperialism"概念では捉えきれないことはHardt & Negriが繰り返し強調していることなのに、Phillipsonはまったくそれを理解していないように思えます。
■「エコロジー」という耳障りのよい言葉に注意
上の直井さんのまとめに追加しますなら、「生態学」(ecology)は本来、科学的な概念で日常的な価値観とは独立したものですが、Phillipsonのような議論では「エコロジー」という用語が「何か善いもの」といった含意ばかりが全面に出たような使用がなされがちです。
これは「進化論」についても同様で、もともとは科学的な概念が、妙に価値づけられた言葉として日常的に転用される例は少なくありません。このような転用・誤用される科学概念は、科学の装いを持ちながら私たちに思考停止を迫りかねませんので注意が必要だと思います。
■「英語教育学者・英語教育研究者」に対する分析も重要
研究を行なう人々であれば、以上のようなことがらに関して無自覚には行なえず、かなり意識化しているはずですが、一部の研究者はそうであっても、一部の研究者はこういった問題設定を拒否しているようすらも思えます。こういった「英語教育学者・英語教育研究者」の集まりである「学会」や「学界」を分析の対象にすることも「英語教育学」「英語教育研究」の発展には重要でしょう。
■「英語教育学者・英語教育研究者」に対する分析も重要
研究を行なう人々であれば、以上のようなことがらに関して無自覚には行なえず、かなり意識化しているはずですが、一部の研究者はそうであっても、一部の研究者はこういった問題設定を拒否しているようすらも思えます。こういった「英語教育学者・英語教育研究者」の集まりである「学会」や「学界」を分析の対象にすることも「英語教育学」「英語教育研究」の発展には重要でしょう。
ただし、こう主張する私も他人からの観察・分析を免れない存在であり、「究極の権威・判断主体」などはないことはルーマンが強調する通りです)。私はこの節の主張をすることによって自らを「究極の権威・判断主体」に高めようとしているのではないことだけはくれぐれも誤解のないようにお願いします。
■ICTを使って議論を多元的にする
Ustreamを使ったオンライン読書会について短く述べますなら、私は電子参加を非常に楽しみました。遠くまで出かける時間とお金が節約できるだけでなく、母体の議論をオンラインで観察しながら、同じように観察している遠隔参加者とメタ的な議論をUstreamのチャット機能で重ねるのはとても楽しい経験でした(Ustreamのチャットは保存されませんから、最低、自分の発言はテキストエディタで作成してからチャットにコピペすることをお薦めします)。
メタ参加者が多数いますと、議論は錯綜するかもしれませんが、これから学会のシンポなどでも、壇上で議論が進むと同時に少数の指定討論者がチャットで書き込み、その書き込みが壇上の大型スクリーンに現れるようにすれば議論が多元的になり面白いと思います。少なくとも私はそういう実験をする価値はあると思います(でも英語教育界はとても保守的だから、まずこんなことをやらないだろうなぁ)。
追記
TodaysMeetというソフトを使えば上記のような面白い会議進行ができるのではないかと思います。誰かこれについて情報をお持ちの方があれば教えてください。
http://todaysmeet.com/
いずれにせよ楽しい読書会でした。主催の寺沢さんに改めて感謝します。
■ICTを使って議論を多元的にする
Ustreamを使ったオンライン読書会について短く述べますなら、私は電子参加を非常に楽しみました。遠くまで出かける時間とお金が節約できるだけでなく、母体の議論をオンラインで観察しながら、同じように観察している遠隔参加者とメタ的な議論をUstreamのチャット機能で重ねるのはとても楽しい経験でした(Ustreamのチャットは保存されませんから、最低、自分の発言はテキストエディタで作成してからチャットにコピペすることをお薦めします)。
メタ参加者が多数いますと、議論は錯綜するかもしれませんが、これから学会のシンポなどでも、壇上で議論が進むと同時に少数の指定討論者がチャットで書き込み、その書き込みが壇上の大型スクリーンに現れるようにすれば議論が多元的になり面白いと思います。少なくとも私はそういう実験をする価値はあると思います(でも英語教育界はとても保守的だから、まずこんなことをやらないだろうなぁ)。
追記
TodaysMeetというソフトを使えば上記のような面白い会議進行ができるのではないかと思います。誰かこれについて情報をお持ちの方があれば教えてください。
http://todaysmeet.com/
いずれにせよ楽しい読書会でした。主催の寺沢さんに改めて感謝します。
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