2010年5月8日土曜日

「達人」の技から批判的に学ぶということ

■『リフレクティブな英語教育をめざして』

学部四年生の授業で、ひつじ書房の『リフレクティブな英語教育をめざして―教師の語りが拓く授業研究』の中の私が書いた章「自主セミナーを通じての成長」のコピー(および近刊の田尻悟郎先生に関する本のエッセイ)を学生さんに読んでもらいました(著作権法上の特例として認められている学校法人内での教育目的コピー配布です)。

学部生のみんなが、私が思っていた以上に批判的に考えてくれていたので、ここではその授業後に学生さんが寄せてくれた感想の一部を抜粋します。



■お手軽なマニュアル的思考の蔓延について

最初の学生さんは、現代ますます進行している「お手軽文化」というか「マニュアル的思考」について書いています。

最初のプレゼンのパートナーの方が言われていた「近年は何をするにしても簡単な方法に走る傾向がある」という意見が印象的でした。書店にも「~のコツ」というような書籍が多く並んでいますが、その内容を実践するだけでうまくいくのでしょうか?成功者の例を模倣するだけでなく、その根本的な成功の要因を理解し、それを自分に合った方法で実践すべきであるというパートナーの意見に非常に共感を覚えました。


■経験の少ない人間が「達人の技」を見る際の注意点

次の学生さんは、ひょっとしたら上で言及した「パートナー」だったのかもしれません。後半ではかなり批判的に考察したと思われる見解を表明しています。

実践は、多方面につながり、重なり合い、曖昧で移ろいやすく微妙なことに満ち溢れている。

私が今回の論文を読んで一番強く感じたことは、人の成功例をただまねするだけでは上手くいかず、その背後にある本質を知らなければならないということです。

現代の社会においては、「単純な情報」や「手っ取り早い方法」が好まれる風潮があるように思います。例えば、書店に行けば「○○のコツ」、「○○すればうまくいく」などのハウツー本が多く並んでいます。そういった文句につい魅かれて手に取り、そこに書かれた内容をまねしようとする読者は少なくないと思います。

しかし、そういった読者のうち、一体どれだけの人が成功を収めているのか疑問が残ります。他人が成功した事例を鵜呑みにして、ただ同じことをするだけで誰でも同じように成功するとは限りません。なぜなら、そういった本の著者が本当に伝えたいことは事例ではなく、その背景にある理論だからです。その理論を知ることなしに表面だけの理解では上手くいかないと思います。論文にあったように、原理を知った上で自分用にアレンジすることが成功には必要不可欠です。

今回の記事の中では自主セミナーについて述べられていましたが、私は特に「学生の内に自主セミナーに参加することの意義」について考えました。私自身、達人セミナーには何回か参加したことがあります。1回目は2年生の冬でした。大学の授業で理論としての授業の組み立て方や教授法については学んでいましたが、セミナーでは実践的で具体的な指導法を達人たちが実演してくれたため授業よりもずっと有意義なものだと感じ、また来年の教育実習ではぜひ技を実践してみたい気持ちにもなりました。
ですがおそらく学生のときにセミナーに参加する上で気をつけないといけないのは、その点です。現場に立ったこともない私たち学生が、基本的なSLAの知識や古典的な教授法も知らないままに達人の技を真似することは危険なことだと思います。教師に大切なことはTTP(徹底的にパクる)、CKP(ちょっと変えてパクる)、TKP(徹底的に変えてパクる)であると達人が教えてくれました。そしてこれを実践するためには自分自身に英語教育の知識と、分析力がなくてはならないと私は考えます。こういう言葉を教えてくれるのも自主セミナーならではだと思うし、自己のスタイルが確立していない学生だらかこそ、自主セミナーに参加することは現場の先生方の声を聞きさまざまなスタイルがあることを身をもって知れるという点で非常に有意義なものであると思います。


■授業のHowからWhyへ

次の学生さんも、教育実習の現場で表面的な真似しかしなかった実習生の姿と反省を報告しています。

昨今、教師に求められるものはもはや単純な知識だけにとどまらず、地域社会とのコミュニケーション作成能力、生徒の指導力、そして何より授業力というものが特に必要なスキルとして台頭してきている。英語教師といった枠組みから見れば、それは有効なタスクの選定能力とその実行能力であると私は考える。(ここでいうタスクとは課題などに限定せず広義なものと捉える。)

当たり前の話ではあるが、大学や短大を卒業したばかりの新任教諭がそのようなスキルを完全な形で習得しているとはまず考えられず、基本的には先達たちが残した技術の模範から入ることになる。今回の議題、自主セミナーはそうした技術の享受と、同様に新任として参加している教師との意見交換の場として重要な意味を持っていると考えられる。何かの発展の背景には必ずといっていいほど、前時代の模倣があったためである。

しかし、模倣の意味をそのまま捉えて、失敗するケースが最近よく見られる傾向がある。教育実習にいった生徒幾人かにその授業の組み立てについて聞いたところ、自分の技量の未熟さとともに、有名な教師の授業をそのまま用いようとして失敗してしまったという回答が目立った。映像の中の流れるような一流教師の授業風景と、反応の悪い現実とのギャップに驚いたのだそうだ。

確かに言われてみれば当たり前で、同じ授業をしてもその効果は様々な要因によって変化する。教える側の力量のみならず、生徒の意欲、学力、生徒を取り巻く環境、数えだすときりがない。論文の中でも述べられていることだが、我々新米が先輩教師から学ぶのは模倣ではなく昇華の技術であると私も考える。「どうやって教えるのか」という、いわば授業の枠(手段)を形成することばかりに集中し、何を教えたくてこのやり方を用いるのかという目的をないがしろにするのは本末転倒といえる。近年は小学校教育に英語が取り入れられることに先立ち、英語に触れる機会が生徒にとっても、また教師にとっても増えていくことはまず間違いないだろう。そうした中で縦の技術提供のみならず、横の情報交換の場の形成は大きな意味をもつと考えられる。


■「当たり前」のことを当たり前にやる

次の学生さんの意見はかなり手厳しいです。ハイ、私も「当たり前」のことができていない教師です(汗)。

達人たちの言うことの根底で共通することは、生徒個人や生徒観を掴むこと・生徒があって授業が成り立つと認知することだと思いました。しかし、教師としてそれらは「当たり前」のことではないでしょうか。

記事を読むと、これら「当たり前」が出来ている教師が「達人」と呼ばれ、実際に評価の高い授業を実施しているような印象を受けざるを得ません。逆に言えば、「当たり前」が出来ていない、「達人」とはいえない教師が多いとも言えるのではないでしょうか。言い換えれば、「当たり前」だと認知していない教師や、認知しているが実行に移していない・移すことを困難に感じている教師が多いということではないかと思います。

認知していないとすればそれはなぜか、と私なりに原因を挙げれば、根本的に子どもへの愛情が欠けていたり、子どもを見ようとせず、或いは子どもの反応を見逃してしまったりする教師。生徒指導と学習指導を別のものと捉えている教師。プライドが高く自分の授業の改善点を見ようとしない・認めない、または上手くいかないとき生徒に責任を求めてしまう教師。評価の高い理論や教師の活動を万能だと錯覚し、そのまま当てはめる教師。集団としてしか生徒を見れらない教師。こういった教師自身の性格や知識・経験不足が挙げられ、また実行に移すのが困難だとすれば、校務分掌や(消極的)生徒指導、保護者対応など、授業や生徒と接する以外のことに多く時間が割かれてしまい、授業作りのための時間や生徒との交流時間が十分でないなどの外部的な原因が挙げられるかもしれません。これらの教員自身の内部的原因や外部的原因を改善することで、生徒個人・生徒観を掴むことの重要性や授業における生徒の地位、つまり「当たり前」に気づき、ひいては授業を改善し、「達人」になれるのではないでしょうか。

■教師とは永遠の学習者

次の学生さんは、学ぶことの重要性を強調してくれました(ありがとう!)

近い知り合いで、この春から小学校の教員になった人がいる。彼から話を聞く限り(もちろん個人情報などの具体は伏せた上で話を聞かせてくれた限りでは)、とても大学で学んだことだけでは成り立たないと言っていた。

大学の講義や教育実習でもやらないような仕事が、授業に関する仕事と同じくらいあるそうだ。クラス目標?育てたい子ども像?給食当番は?掃除当番は?教室の配置は?年間指導計画?校務分掌?家庭訪問?朝の会・帰りの会の手順?研修?

教員養成課程であっても、たった4年の大学生活の中で「教員」を作り上げることはできない。

だから自ら学ばなくてはならない。自ら学びに行かなくてはならない。


授業や研究を通じて今後とも教育実践について少しずつ考えてゆきたいと思っています。



追記

上記の授業で私が使った解説スライドはここからダウンロードできます。

その際の私の解説音声ファイルはここからダウンロードできます。(ただし最初の5分ぐらいは、前回の学生さんのコメントについて語ったもので、上記の原稿については音声開始5分後-9分後について語っています。





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