2010年2月13日土曜日

河本健 (編)(2007) 『ライフサイエンス論文作成のための英文法』羊土社

[この記事は『英語教育ニュース』に掲載したものです。『英語教育ニュース』編集部との合意のもとに、私のこのブログでもこの記事は公開します。]


総合大学での公然の秘密の一つは、英語の先生には英語の使い手が世間が思うほど多くなく、理系の先生には英語の使い手が世間の予想以上に多いということだ。

理由は簡単だ。理系の先生には毎日英語と格闘している人が多い(というよりほぼ全員だろう)。他方、英語の先生は ―私が所属している「英語教育」の世界を筆頭に― 日本語中心で研究を進めている人が少なくない。だからである。(注)


ここに運転免許を取ったばかりのAさんとBさんがいるとしよう。Aさんは運動神経バツグンで免許試験も一回で合格する。他方Bさんは不器用なタイプで免許試験も数回落ちてやっと合格する。

Aさんは免許取得後すぐにスポーツカーを買い、月に一、二回はドライブを楽しむ。満員電車の通勤から解放されるたまのドライブはAさんにとってのなによりの贅沢だ。

他方Bさんは、どういう運命の巡り合わせか、宅配便会社に勤めることになる。毎日車の運転ばかりだ。会社のイメージのために安全運転は当然である。しかし安全運転だけでは不十分で、Bさんはいかに速く合理的に目的地に着くかという技術を日々向上させなければならない。だから地域の渋滞事情や運転手のマナー状況を熱心に学ぶ。仕事の成功は車の運転技術向上抜きにありえないからだ。

さて五年後、AさんとBさんのどちらの運転が上手になっているだろうか。あなたは助手席に座るとしたら、あるいはあなたの子どもを預けるとしたら、どちらが運転する車を選ぶだろうか。わからない? それなら十年後はどうだろう。私はもちろんBさんを選ぶ。

学校卒業時の成績など、キャリアスタート時の差を示しているだけである。高度知識社会においては、学校で学ぶ知識・技能と、学校を卒業してキャリアの中で学ぶ知識・技能を比べれば、後者の方がはるかに大きい。圧倒的に。決定的に。

理系教員の圧倒的多数は英語で論文を書くことを日常としている。このニーズを、論文を書く際はおろか読む際ですら日本語を使うことが多い(一部の)英語教員は実感できていない。

「いや、私は毎日英語に接している!」と息巻く英語教員も多いかもしれない。だがそう言う人の少なからずは、まさに英語に「接している」だけだ。見聞きしたい映画やニュースを見聞きし、読みたい雑誌記事・小説などを読み、自分で書きたいことだけを書き ― その人達にとって最も象徴的な行為として ― 自分で喋りたいことを会話でしゃべっている、それだけに過ぎない。

理系の英語使用は異なる。理系にとってまず大切なのは書き言葉としての英語であり、話し言葉ではない。もちろん学会発表での英語は書き言葉原稿を読み上げるだけのものではなく、話し言葉用に簡略化したものであるかもしれない。しかし理系英語の基盤は書き言葉である。学会口頭発表で伝えることも論文についてのことである。とにかく正確に論文が読み書きできなければならない。

正確に読み書きというのは、「読みたいことだけを読む」「書きたいことだけを書く」ではない。論文に書かれているので正確に「読まなければならないことを読む」のであり、自らの理論と実験結果を正確に伝えるために「書かなければならないことを書く」のである。

「読みたいことだけを読む」「書きたいことだけを書く」ことは、さきほどのAさんの時折のドライブに似ている。「読まなければならないことを読む」「書かなければならないことを書く」ことはBさんの業務運転に似ている。AさんよりBさんの方の運転技術が上がるように、私は「読みたいことだけを読む」「書きたいことだけを書く」人より「読まなければならないことを読む」「書かなければならないことを書く」人の英語力の方が上がると信じている。

英語を正確(かつ大量)に読まなけければならない理系の中でも、ライフサイエンスはおそらく今もっとも進展が激しい分野だろう(ライフサイエンス系の発見は、一般の新聞でもほぼ毎日報道されている)。そういう背景もあってか、日本のライフサイエンスに従事する人々の英語使用=学習環境は非常に充実している。


ライフサイエンス辞書オンラインサービス


の無料辞書サービスは本当に感動的である。英和・和英の両方で使えることはもちろんのこと、音声や類義語もすぐにわかる。他の便利な検索サービス (Google Scholar, Entrez, Google, Wikipedia)もすぐに使えるようになっている。共起表現も非常に優れており、コーパスデータが一気に示される。ソートを変更したりもできるし、左端の番号をクリックするだけで原著論文にもすぐにアクセスできる。


このサービスを日常的に使おうと思えば各種のダウンロードをすればいい。

辞書ダウンロード

「ライフサイエンス辞書ツールバー」をダウンロードすればWebブラウザの上部にこの「ライフサイエンス辞書オンラインサービス」専用の検索窓が常設される。

さらに便利なのは「ライフサイエンス辞書ツール(Firefox 用マウスオーバー辞書)」であり、これをインストールすることで、Webブラウザ (Firefox) でカーソルを当てた場所の英語の和訳が、自動的に半透明の画面で表示されるようになる (この機能のオン・オフは簡単なので、必要な時だけオンにすればよい)。

また、EtoJ Vocabularyを使えば、短い英文なら、その英文の単語からすぐに「ライフサイエンス辞書」に飛ぶことができる。とにかく便利なことこのうえない。

EtoJ Vocabulary


百聞は一見に如かずで、このYouTube説明をどうぞ御覧下さい。



ライフサイエンス辞書を使い倒す2009〜オンライン辞書編

(なお、このプロジェクトに関する学術的報告は「アーカイブ」にある)

アーカイブ


このようにライフサイエンス系の語彙については、感動するばかりのサービスがオンラインで得られる。しかしここで欲しくなるのは文法に関する知識である。文法の知識というのは、語彙以上に何度も参照するものなので、できれば書籍の形で入手したい。

そのニーズを満たしているのが今回紹介する『ライフサイエンス論文作成のための英文法』だ。ライフサイエンスの一流国際誌に掲載された学術論文の膨大なデータベースを基にして、「日本人が英語論文を書く」という目的に特化した構成となっている。

第一章「論文でよく使われる品詞の種類と使い方」でも、第二章「論文らしい長い文の作り方」でも、第三章「論文によく用いられる重要表現」でも、一貫して、正確で論理的な英語論文を書くための説明と豊富な例文が掲載されてある。特に第一章の「8 意味の似た前置詞の使い分け」や第三章の「3 比較の表現」などの節は有益だ。

目次や内容見本は羊土社のホームページへ

また巻末のコラムも秀逸で、論文頻出語 "role" の冠詞・前置詞・動詞の共起関係に関する考察と検証、他の論文頻出語 (名詞) で定冠詞が多く不定冠詞が少ないパターン、"My friend came to me." や "What is your hobby?" といった英語の含意が生じさせかねない誤解、などに関するエッセイが面白く読める。

また「の」の英訳に関するエッセイもとても面白い。以下の「の」はどう英語に翻訳をすればいいのだろうか。前置詞というのは日本語話者にとって鬼門である。


「肺癌の患者」「腹痛の薬」「年齢の差異」「血圧の変化」「ウサギの実験」「新薬の実験」「化学の実験」「終末期の患者」「精神医学の本」「ラバとロバの違い」「カズオイシグロの小説」「京都 (出身) の人」「博物館の入り口」「肝移植施術の理由」「鴨川の橋」「京都のガイドブック」「SARSの懸念」「地球温暖化の解決策」「ダイアナ妃死因の調査」「成功の秘訣」 (答えは本書の261-262ページをご覧下さい)



ライフサイエンスに従事している人はもとより、理系一般の人、さらには理系のニーズに応えようとしている英語教育関係者にはぜひともお薦めしたい本だ。


ただ、英語教育界に所属する私としては二つほど気に懸かることがある。

一つは、このすばらしいプロジェクトが、ライフサイエンス研究者の研究・教育活動の一種の副産物として生じているということである。ここには英語教育関係者の関与はほとんどない もっとも『ライフサイエンス論文作成のための英文法』の監修者の一人は京都府立医科大学の外国語教室教授である大武博先生 (応用言語学・コーパス言語学) であるが、このプロジェクトが英語教育研究者というよりはライフサイエンス研究者主導でおこなわれていると解釈してもいいだろう (下記サイト参照)。

Life Science Dictionary (LSD) プロジェクトについて

日本人の英語使用や英語学習を支援するというのを英語教育研究の重要な特徴の一つとすれば、このライフサイエンス辞書プロジェクト以上の英語教育研究を見出すことは容易ではない。このプロジェクトが理系研究者主導でおこなわれているということを、英語教育研究者はどうとらえるべきなのだろうか。

二つめの懸念は、この本で使われている文法用語についてである。この本では伝統文法での用語が便利な説明概念として多用されているが、最近の学校英語教育を受けた若者はこれらの説明概念をきちんと理解し使いこなすことはできるのだろうか。私の狭い見聞では、最近の大学生は文法概念を必ずしもきちんと理解していない。理解している少数者は、熱心な塾や予備校の文法教育のおかげであると知ることも少なくない。新しい高校の学習指導要領は「英語の授業は英語でおこなうことを基本とする」と宣言している。これを表面的に解釈するなら、きちんとした (必要最小限の) 文法教育を日本語でおこなうことは、英語の授業では忌避されるべきとも読める。もしこの解釈が正しい (あるいは蔓延する) としたら、新学習指導要領はこれからの若者 ― 特に読まなければ「ならない」ことを読み、書かなければ「ならない」こと書く理系の若者 ― の英語力にどのような影響を与えるのだろうか。


このコラムで再三再四言っているように、英語教育関係者は理系に学ぶ必要があると私は考えている。




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(注) ただし、文系教員が日本語を基盤として研究をし、英語でそれほど論文を書かないというのは、文系教員の怠慢のせいばかりと言えないことは、先月紹介した原賀真紀子 (2009) 『「伝わる英語」習得術 ― 理系の巨匠に学ぶ』 朝日新書にも書かれている通りである。日本の言語や文化に依存した概念を英語に翻訳するのはそれほどに容易なことではない ― 少なくとも理系の学問と比較したら。あるいは、あり合わせの英語表現で日本的な概念を英訳できたと妥協するのでなければ ―。
私はむしろ英語教員は、これまで以上に英語と日本語の差、およびその差がもたらす影響といった、今は流行らなくなった対照言語学的考察を明示的に行い、「英文和訳」「和文英訳」といった「直訳」のレベルを越えた「翻訳」についてもっと丁寧に考えるべきだと考えている。日本のように「国語」が発達した国では、人文系の人間は外国語を使用して世界を広げる一方で、翻訳を通じて自国の「国語」の可能性を開拓し成熟させる責務をもつ (少なくとも幕末以来の日本の知識人はその責務を果たしていたからこそ、日本文化と日本語は現状の成熟に至っている)。これについては水村美苗 (2008) 『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』 筑摩書房 をご参照いただきたいし、私自身ももう少し考えを深めてゆきたい。





【広告】 教育実践の改善には『リフレクティブな英語教育をめざして』を、言語コミュニケーションの理論的理解には『危機に立つ日本の英語教育』をぜひお読み下さい。ブログ記事とちがって、がんばって推敲してわかりやすく書きました(笑)。






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