2018年3月1日木曜日

ヘイドン・ホワイト著、上村忠男監訳 (2017) 『実用的な過去』岩波書店 Hayden White (2014) The Practical Past. Evanston, Illinois: Northwestern University Press.






以下は、「物語」についてまとめるために私が作成した「お勉強ノート」です。言語教育実践者のための質的研究で使われる物語 (narrative) は、歴史という物語とどう異なるのか、それとも同じなのかという素朴な疑問が勉強の動機です。

翻訳書を先に読み、アンダーラインを引いた箇所を中心に原著を読んでこのまとめを作成しました。私の関心にのみ基づくまとめですので、この本の十全な要約にはまったくなっていません。

また、まとめと翻訳は、基本的に私のことばによるものです(もちろん翻訳書には大変お世話になりましたが)。そもそもこの本のタイトルになっている "The practical past"も下に書いている理由で「実用的な過去」ではなく「実践的な過去」と訳しました。ですから、信頼できる翻訳をお求めの方は必ず翻訳書と原著を参照してください。直接・間接引用の後に書かれている数字は最初が翻訳書のページ番号で次が原著のページ番号です。




翻訳書
ヘイドン・ホワイト著、上村忠男監訳 (2017)
実用的な過去』岩波書店

原著
Hayden White (2014) The Practical Past.
Evanston, Illinois: Northwestern University Press.





はじめに

■ 文学的叙述 (literary writing) について

全生涯にわたって歴史と文学の関係について関心を寄せてきた著者 (vii, ix) であるが、彼は文学的な叙述については以下のように定義している。

文学的叙述とは一つの言語使用の様態であり、その中では語りの詩的機能が優勢である (the dominance in it of the poetic function of speech)という点で、功利的もしくは情報伝達的 (utilitarian or communicative (message)) 叙述とは区別される。(xi, xi-xii)

※ 「詩的機能」については以下の記事にも説明があります。
Jakobson (1960) Linguistics and Poeticsを読む


■ 文学的叙述と架空の話 (fiction)

すべての文学的叙述が架空の話であるわけではなく、また、すべての架空の話が文学的叙述で書かれているわけではない。 (xii, xii)  ここでいう架空の話とは、想像や幻想の上だけでの存在物 (purely imaginary or fantastic entities) についてのみ書いたり考えたりすことではなく、仮説に基づいた創案や構築 (invention or construction) について書き考えることである。(xii, xii)

“Fiction”を「フィクション」としてもいいのですが、できるだけカタカナ語は避けるという方針で「架空の話」としました。また、「虚構」としてしまうと上の意味から逸脱してしまうと判断しました。



歴史について


■ ギリシャとローマで始まった歴史的叙述 (historical writing)

歴史的叙述は古代ギリシャで始まったと言われているが、「過去に実際に生じた出来事の真実に基づいた報告を (a truthful account of events that really happened) 筋書があるという形式 (in the form of story with a plot) において行う」という歴史の観念 (the idea of history) (85, 52) が成立したのは古代ローマである。

“Account”ということばの翻訳にはいつも悩みます。「説明」と訳してしまうと “explanation”の意味で理解されかねないからです。そのため以前は「解明」と訳していたこともありましたが、今回考えたのは、 “account”はもともと会計用語なのだから (Merriam-Webster) 、会計士が行うような言語行為として「報告」と訳すということです。

蛇足ですが、この歴史的叙述 (historical writing) は、実践者が自らの語っている様式でもあるように思えます。実践者は出来事の事実に基づきながらも、出来事を物語として語ります。そうなると実践研究を行う実践者も歴史的叙述のあり方について学ぶべきとなるでしょう。


■ 話 (story) とは

 話という形式 (the story form) は、指示対象 (referent) として提示されたものすべての報告 (account) に情動的あるいは情感的な (emotive or affectual) 種類の価値付加 (valorization) をおこなってしまうものである。それはものの見方や視点 (point of view or perspective) の水準から、声 (voice) の水準、ことば遣い(語選択)や文法の彩 (diction (word choice) and the tropes of grammar) の水準にまで及んでいる。 (31, 20)

※ “Story”は「ストーリー」とだけ訳せばいいだけなのでしょうが、私としては「話がある」、「話にならない」、「話がうますぎる」、「話半分に聞いておく」、「お話はうかがいました」、「話をややこしくする」、「そういう話ではない」といった表現に見られる「話」ということばの語感を大切にしたいので、「話」あるいは「お話」と訳し続けています。ですが、今後は必要に応じて「ストーリー」という訳語も使うかもしれません。

※ 筋書 (plot) についても定義が必要ですが、ホワイトはあまり明確に説明していませんでしたので、その定義はここで割愛しています。


■  物語 (narrative) とは

出来事が物語られる (narration) という行為を通じてできた産物が物語 (narrative) である。物語り (narration) は、"énonciation"あるいは"utterance"、物語 (narrative) "énoncé"あるいは "what is said"と言い換えることができる。 (155, 94)

“Narrative”を「ナラティブ」としてしまうと、それに関する英語文献についてあまり知らない日本人読者を遠ざけてしまうと考え、私は「ナラティブ」というカタカナを今はあまり使わないようにしています。



■ 物語化 (narrativization) とは

一連の出来事を話もしくはファーブラの様式に流し込む (casting sets of events in the mode of a story of fabula)ことを物語化と呼ぶが、ここには厳密な意味での規則や方法はない。もちろん、文化的に好まれるやり方はあるが、実際に起こった出来事 (real events) の物語を構成することは、創意にみちた操作 (inventive operation) である。実生活における一連の出来事は話の形式を有しているわけではない。 (110, 67)  物語化 (narrativization) は、"the arrangement of what is said in the form of a story"と説明できるだろう。 (155, 94)
                                          
参考
Wikipedia: Fabula and syuzhet

※ ホワイトは、後述しますように、ホロコーストの物語化に対しては非常に批判的です。ただしこの場合の「物語化」とは、出来事を、その深刻さに見合わない出来合いの話にしてしまうことを意味していると私は理解しています。


■ 歴史という言説 (discourse) とは

翻訳:歴史という言説 (discourse) は、「指示対象に忠実 (faithful) でありたいと願いながらも、その効果において、架空の話に仕立て上げる (fictionalizing) とまではいかないにせよ文学的 (literary) と認定されてしまうような、文字通りの意味を超えた意味を生み出す表象の慣習を受け継いだもの」である (a discourse (history) that wished to be faithful to its referent but which had inherited conventions of representation that produced meaning in excess of what it literally asserted of a kind that were identifiably literary if not fictionalizing in their effects) (31, 20)


■ 物語的歴史 (narrative history) とは

翻訳:「物語的歴史とはそれ自身が世界の記述であり、そこにおいては重要な過程が話という形式で自らの姿を現す」(narrative history is itself a description of a world in which significant processes manifest themselves in the form of stories)。「物語的歴史において語られた話は、出来事がある種の話として認識されるように筋書にまとめることによって説明をを行う記述として捉えられるように意図されている」 (in narrative histories the story told is intended to be taken as a description which explains by the emplotment of events as recognizable as a story of a particular kind). (106, 65)

※ “Description”は翻訳書では「描写」となっていましたが、ここでは「記述」としました。 “Explanation and description” (「説明と記述」)という概念対比を重んじてのことです。この場合の「記述」とは、「説明」ほど理論的ではないが、事実に忠実ではある解明ぐらいの意味です。

また、上記の “emplotment” にも “plot”概念があります。この概念についてはもう少し勉強しなければと思います。



実践的な過去について


■ 歴史的な過去 (the historical past) とは

「実践的な過去」とは、政治哲学者のマイケル・オークショットが「歴史的な過去」と対比させた概念である。まず「歴史的な過去」 (the historical past) であるが、これは「近代の専門的歴史家 (modern professional historian) が、すべての過去 (the whole past) のうち、歴史の控訴裁判所にも提出可能であると他の歴史家に権威づけられた証拠でもって基礎づけて、現実として存在したと立証した、正され組織化された過去 (the corrected and organized version)」である。 (12, 9)

Michael Oakeshott (1983). "Present, Future and Past," in On History and Other Essays. Oxford: Blackwell
マイケル・オークショット『歴史について、およびその他のエッセイ』風行社2013


■ 実践的な過去 (the practical past) とは

翻訳:実践的な過去 (the practical past) とは、「私たちが日常生活の中で共に生きている過去の観念であり、私たちは好むと好まざるにかかわらず、個人的な問題から壮大な政治計画にいたるまでのあらゆる実践的な問題を解決しようとする際には、これらの観念の中から、できるだけの情報・アイデア・モデル・公式・戦略を引き出す」(it refers to those notions of "the past" which all of us carry around with us in our daily lives and which we draw upon, willy-nilly and as best we can, for information, ideas, models, formulas, and strategies for solving all the practical problems -- from personal affairs to grand political programs -- met with in whatever we conceive to be our present "situation." (12, 9)

"The practical past"の訳語としては翻訳書の「実用的な過去」ではなく、「実践的な過去」の方を選びました。「実践的な問題」 (practical problems) やホワイトが関連を指摘するカントの『実践理性批判』との整合性を保つためです


■ 実践的とは、倫理的な問いを伴うものである

ホワイトの理解では、オークショットは、カントが『実践的理性批判』 (Kritik der praktischen Vernunft)で使った意味で 「実践的」 ("practical") ということばを使っている。実践的とは、「私・私たちは何をするべきか」という倫理的な問いに答えることの助けとなる知」のことである。(knowledge intended to help to answer the ethical question: "What should I (we) do?" (122, 76)


■ 実存的な現在と実践的な過去

翻訳: 歴史的な過去ではなく、実践的な過去によって、私の現在と私の共同体の現在が、「私は何をなすべきか」という問いに関する判断と決断を求めてくる実存的現在に何らかの形で結びつく。私が求めているもの、少なくとも私がそれによって益することができるものは、私の現在と、歴史家が 「歴史性」が足りないという理由でほとんど興味をもっていない過去を関連づけてくれる物語・話である。

It is this past, rather than the historical one, that requires a narrative which, in one way or another, connects my present and that of my community to an existential present in which judgment and decision about the question, "What should I do?" are called for. What I require or at least might profit from is a narrative, a story which relates my present to that part of the past in which historians have little interest because that part of the past lacks "historicity." (122, 76)



科学としての歴史について

■ 歴史を科学としようとする近代のプロジェクト

歴史的な過去は、歴史を科学にしようとする近代のプロジェクトの中から生じた。このプロジェクトの中で、歴史を非科学的・反科学的なものから守ることが目指され、一般的には神話・神学(弁神論)・文学や架空の話・形而上学・イデオロギーが排除された。これは真理や客観性のために、意味を放棄することであった(「意味」とはしばしば、「価値」 (value) 価値付加 (valorization) を意味していた)。 そうして歴史は道徳科学 (moral sciences) から離れ、倫理的反省の機関としての機能 (function as an organization of ethical reflection) を手放すにいたった。(159, 97)


■ 専門的な史学 (historiography) は、実践的に使われてきた

専門的な史学 (professional historiography) は、19世紀初頭に大学に設立されたが、それは国民国家の利益に役立つため (to serve the interests of the nation-state) であり、国のアイデンティティ (national identities) の創出の一助ともなった。教育者・政治家・植民地行政官・政治的イデオローグ・宗教的イデオローグの訓練という「実践的」な目的のために使われた。(23, 15)

"Historiography"を翻訳書は「歴史叙述」と訳している。専門家の深い考えがあっての訳語に違いないのだろうが、私としては「叙述」を"writing"の訳語として使ったので、この語は「史学」と訳した。なお、以下はWikipediaの定義。
Historiography is the study of the methods of historians in developing history as an academic discipline, and by extension is any body of historical work on a particular subject.


■ 専門的な歴史家の二枚舌

翻訳:しかし専門的な歴史家のこの二枚舌は、その当時の科学のイデオロギーと一致していた。当時、自然科学は、「中立」であると同時に「実践的」あるいは社会的に有益であるとぐらいにしかみなされていなかった。そのような科学観は、当時支配的であった実証主義と功利主義の哲学とも一貫しており、科学的な世界観が全体的な世界観へと変容させる支えとなった。

But this seeming duplicitousness on the part of professional historians was fully consonant with the contemporary ideology of science, which viewed the natural sciences as nothing if not both "disinterested" and "practical" or socially beneficial at one and the same time. Such a view of science was consistent with the reigning philosophies of positivism and utilitarianism which contributed to the transformation of a scientific world view into a whole Weltanscahuung (...). (23, 15-16)

※応用言語学あるいは英語教育学は「中立」であり「社会的に有用」であるという素朴な信念は今でも見られます。ペニークックらによる「批判的応用言語学」も、そういった素朴な信念をもつ人々によって「偏った」ものとみなされました。日本では・・・(自粛)w

関連記事:Index to pages for Critical Applied Linguistics



物語の危険性

■ ホロコーストを物語として語れるのか、そして、語るべきなのか

翻訳: 実際、次のように言うことすら可能である。実際に起こった出来事を、伝統的な話・叙事文・短編小説の形で語るいかなる表象も、出来事を美化・虚構化・相対化するだけでなく、ドラマ仕立てにして(それゆえに)教訓話にしてしまうのである。

Indeed, it can be said that any presentation of real events in the form of the traditional story, tale, or recit is not only aestheticizing, fictionalizing, and relativizing of the events with wich it deals, it is also and inevitably dramatizing and (therefore) moralizing of them as well. (133, 81-82)

※言うまでもなく、ここにはホロコーストといった超弩級の出来事を安易に物語化することへの強い懸念がある。


■ イデオロギーとしての物語

物語(物語論的)形式 (narrative (or narratological) form) はさまざまなイデオロギーの運び手や貯蔵庫になるだけではなく、それ自身がイデオロギーである (an ideology in its own right) (154, 94)


  物語化に抗しながら物語る

翻訳:すべての物語る行為が[安直な]物語化であるというわけではない。私の見解では、フリートレンダーは、ホロコーストを物語化してしまう衝動に抗した語りをなんとか成し遂げた。彼は、ホロコーストの過程の展開を一、二行の報告でまとめてしまい、そこから「最終解決」といった状況下でどうよく生きるかについての指針が導き出せるようなわかりやすい教訓話にしてしまわなかった。ホロコーストを「もう終わったこと」としてしまって片付けてしまうことを避けた。このことを彼は、モダニスト小説に典型的な手段で行った。

Not all narration is narrativization. And it seems to me that what Friedländer has managed to accomplish is a narration of the Holocaust which resists the impulse to narrativize it, to wrap it up in an account of a process with a single or only a few lines of development, which point to a clear moral from which instruction can be derived for how to live life better under circumstances such as those prevailing under the Final Solution, and which allow one to label and shelve the event as "over and done with." And he manages to do this by using devices typical of the modernist novel. (135-136, 83)

※フリートレンダー
Saul Friedländer (2007). The Years of Extermination: Nazi Germany and the Jews, 1939-1945. New York: Harper Collins.



物語化と脱物語化

翻訳:ホロコーストに対して純粋にアプローチしてゆけば、この「飼い馴らす」危険が必ず生じてしまうとフリートレンダーは考えていたが、この危険は―そもそも危険であればの話であるが―何を報告する場合においても、とりわけ物語や物語的な報告に存在している。しかし、話を語ることあるいは物語化が一つの芸術形式であるかぎり、それには、まさに手が届くぐらいに思えるほどの実在性のイメージを見慣れないものにし、野生化させ、今は流行らない用語を使うなら脱構築することもできる。それと同時に、提示のやり方によって、それを視界から遠ざけ、不在化し、不思議なものにすることもできる。物語や物語化は、私たちが打ち消すこともできないし本当に起こったのだと完全に受け入れることもできない過去の出来事を、飼い馴らすこともできるし、見慣れぬものにすることもできる。物語や物語化によって、何が実在で、何が架空か、過去の何を抑圧したいと願い、何が私たちの意識で過去であると同時に現在であるものとして残り続けるものとしての認知を要求しているか、についての私たちの感覚を混乱させる手段が提供される。 しかしもし「どうしても消えない過去」の感覚を昇華させる方法を探しているのなら、その過去を物語化すると同時に脱物語化することが必要になるだろう。

This process of "domestication," which Friedländer himself seem to regard as inherent in a pure scientific approach to the study of the Holocaust, is a danger -- if a danger it be -- especially present in a narrative or narrativistic account of anything. And yet, insofar as storytelling or narrativising is an art-form, it must possess the power to defamiliarize, dedomesticate, or, to use a term in bad odor at the moment, deconstruct the images of reality that tantalizingly holds out to us and, at the same time, withdraws, absents, and renders strange by its manner of presentation. In its capacities, then, of both domesticating and defamiliarizing events in our past which we can neither dismiss nor fully accept as having really happened, narrative or narrativization provides means for confusing our senses of what is real and what is fictional, what we might wish to repress of our pasts and what keeps coming back and demanding recognition as something that remains both past and present in our consciousness. But when it is a matter of finding a way to sublimate our sense of "a past that won't go away," it may be necessary to narrativize and to de-narrativize it at one and the same time. (148, 90-91)

※こうなると、安直な物語化を避けるためには、私たちは小説の技法についても学ぶべきだということになりますが、それは後日の勉強課題とします。この勉強は決して無益な暇つぶしとは思いません。英語教育をめぐる文章にも、通念的な「感動的」な物語の様式で語られてしまい、出来事の中にあったはずの葛藤や矛盾を消し去ってしまっているものが多いからです。

また昨今の主要な読み書きメディアがSNSになるにつれ(注)、多くの人々がますます短くわかりやすい物語を求めています。これは、ますます知識が高度かし複合化する時代への反動なのかもしれませんが、この反動は積もり積もれば民主主義社会にとっての災いとなりかねません。「安易な物語化」を拒む文章の読み書き能力も重要だと考えます(もちろん、その必要がない時には、簡潔で明快な文章を書くことが重要ですが)。

(注)たとえば、全国大学生活共同組合連合会の「第53回学生生活実態調査の概要報告」は、大学生の一日の平均読書時間が23.6分、平均スマホ利用時間が177.3分と報告しています。もちろんスマホ利用時間のすべてがSNS使用時間ではないでしょうが、それでも大学生にとっての主な読み書きメディア(少なくとも自発的に選ぶ読み書きメディア)がSNSに移行しつつあることは否定できないのではないでしょうか。



かつて私は下記の本を読む際に、「速読」ができる質的研究論文に退屈し、「読み飛ばしができない論文」 に面白さを感じたことがあります。



細川英雄・三代純平(編) (2014)
『実践研究は何をめざすか 日本語教育における実践研究の意味と可能性』 ココ出版



これは今回の用語を使うなら、よい質的研究は、凡庸な物語化を拒んでいる(だから通念的な物語図式に即した速読ができない)ということになりましょうか。以下は書評からの抜粋です。


本書の深さと多面性は、本書で規定された実践研究が、現実世界で生きるという混沌の中の方向性を示すことから生じている。問いが立てられ、それなりの答えは提示されるものの、さらに問いが生じ、新たな側面が見えてくる。実践研究は読了ともに結論づけられ終了するどころか、さらなる実践研究の営みが要請される。

  英語教育界でしばしば見られる言説では、研究者は、現実世界を静的に固定して実験室のように定義し、観察・記述・考察はその問題空間の中だけのものに留める。問題空間の中でのきれいな結論を出す(出さなければ多くの査読者が、「研究として不十分」と判定をくだす)。そのような言説は整理されていて読みやすいし、この種の書き方なら慣れない者でもそれなりに研究の体裁を整えることはできる。だが、実践者としてそういった論文を読むと、現実世界が単純化あるいは歪曲化され過ぎているように思える。論旨は明確なのだが、そこから実践への洞察が得られない。(中略)

省察の対象は、自らが使う言語にも及ぶ。論文を読み慣れた研究者は、理論の用語を巧みに使いこなし、実践を一見うまくまとめる。だが第四章が示しているように、理論の用語を使いすぎると、実践の具体性がやせ細ってしまう。さらに、実践者が自然に使っている実践の用語を、「理論的でない」と切り捨ててしまうなら、実践者の知性も感性も抑圧されてしまうかもしれない。かといって理論の用語を毛嫌いすれば、ローカルにしかわからないことば遣いばかりになり、その実践研究は言語を通じて結ばれる人類規模の大きな研究共同体から切り離され、発展の可能性を失ってしまうだろう。実践研究者は、「理論の用語か、実践の用語か」という安直な二者択一に陥ることなく、自らが使うことばについても省察し続けなければならない。

  そのようにことばについて自覚的であることは、文学的表現の始まりとも言える。書評者がこの本の実践編を読む際に、引き込まれるように読んだ論文と、そこまでの集中力が出ないままに読んだ論文が正直言うとあった。これにはもちろん扱われた事例が、書評者の関心に近いか遠いかという要因が入っている。だが、それだけではあるまい。報告書のような単調な記述が続くと筆者はどうしても飛ばし読みがちになった。しかし、書評者もうまく説明できないのだが、文学のように「この表現には何かがある」と感じられる時には、読書も集中した。

  文学的表現といっても特段に複雑な文構造や斬新な修辞技法を使っているというのではない。表現の中に、何かその人が生身で感じたことが表現されているように感じる時、書評者は扱われている事例が何であろうと引きこまれた。エスノグラフィーの記述は、しばしば「文学と科学にまたがる性格をもつ文章」とも言われるが、実践研究もそうであろう。実践研究においても簡単に整理できる事柄は科学の作法にならって図表などでまとめるべきだ。しかし、単純に言い切ってしまっては失われるニュアンスを、簡単にまとめてしまってはいけない。文学者のように、事象と自分に忠実にあり続けることを鉄則とし、その鉄則を守る苦しみの中でことばを見つけるべきだろう。そういう苦しみの中から文学的な表現は生まれる。


物語化と脱物語化の絶妙なバランスを私たちは学ぶべきなのかもしれません。




関連記事
Hayden White (1980) The Value of Narrativity in the Representation of Realityの抄訳

「なぜ物語は実践研究にとって重要なのか 仮定法的実在性による利用者用一般化可能性」(3/11言語文化教育研究学会・口頭発表)

J. Bruner (1986) Actual Minds, Possible Worlds の第二章 Two modes of thoughtのまとめと抄訳

Jerome Bruner (1990) Acts of Meaningのまとめ

英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ:EBMNBMからの考察

シンポジウムで使われる専門用語の整理

意識の神経科学と言語のメディア論に基づく教師ナラティブに関する原理的考察





0 件のコメント: