2010年4月18日日曜日

遠田和子(2009)『Google英文ライティング』講談社インターナショナル

[以下の文章は、最初は一般向けに書いていたのですが、次第に学生さん向けの文章になってしまったものです。ブログに載せる文章だから、書き直すことなくそのまま掲載します。(原稿料をもらった文章や論文なら、私は気合入れて書きますが、ブログはあくまでもウェブ時空の中の一契機にすぎないと私は考えています。てかブログにばかり時間かけていると「勉強しろ」と怒られますから(汗)]



■ 下手に教えるよりもGoogleを与える?

学習者に英文法の基礎と学ぶ意欲、それからある程度の常識的教養が備わっていればの話だけど、英語教師は下手に「英作文」で表現を教えたり、添削をしたりするより、Googleを自由に使わせた方がいいのではないかとさえ私は思っています。とりあえず学習者としては大学生を想定していますが、ひょっとしたら高校生でもこれは言えるかもしれません。



■ 学習共同体のエコロジー的管理が仕事?

もちろん英語教師の仕事は無くなるわけでなく、英語教師の仕事は「英語表現に関する知識の伝達」から「英語使用環境のエコロジーを保つこと」に移るでしょう。

つまり、

(1)英語が実際に使用されてその使用を通じて豊かな文化的な営みがなされているネット共同体を示すこと

(2)学習者向けにネット共同体を(適切な公開制限を設定して)築くこと

(3)その共同体で学習者が英語使用を通じて豊かな文化的楽しみを享受できるようにさまざまなサポート(コンピュータの技術面や学習者の心理面)をすること


などが英語教師の主な仕事になるのではと私は考えます。



■ 私たちが情報革命の初期30年間で学んだこと

もちろんこのような予言的な言い方は、コンピュータの発展と共に、80年代に喧伝された「人工知能が教師に取って代わる」とか、90年代のスローガン「インターネットで学校が要らなくなる」の現代版と言えます。

ただ現在の私たちは80年代よりも少しは賢くなり、コンピュータは(少なくとも現在のところ)「人工知能」の域には達しないものの、人間の知性をサポートしてくれるツールとしては過去になかった優れものであることを熟知するに至りました。

さらに現在の私たちは、90年代ほどの楽観論はもはや持たず、若い人達などは適切な導きがなければ、情報洪水の中に溺れてしまい、世界を広げるどころかどんどん自分の世界を狭く偏り歪んだものにしてしまいがちであることを学びました。

加えてInformation Communication Technologies (ICT)の成熟と広がりで、ネット空間は以前に比べてはるかに豊かに、また快適になりました。能天気な楽観論を述べてはいけませんが、現在なら私たちは80年代や90年代よりも賢くウェブ空間を使いこなせるのではないかと思います。



■ とにかくGoogleだけは使いこなしてほしい

閑話休題。

私はいろいろと学生さんにICTの積極的な使用を素人なりに勧めていますが、下手に情熱的に語り倒すと(笑)、草食系が多い最近の学生さんは引いてしまいます(汗)。

だからお願いを一つだけ。


Google検索だけは上手になってね。




これは私の正直な意見だけど、今時下手に「専門家」と称する人が現れるのを待って何かを尋ねるより、Googleに尋ねた方がはるかに正確で深くて広い知識が得られるよ(特に英語で検索すると、差は歴然)。



■ 大切なのは知的感性

でも最初に断ったように、Googleでどんどん自分の知的世界が豊かになるのは、英文法の基礎と学ぶ意欲、それからある程度の常識的教養が備わっていればの話だと思います(参考記事「検索技術以前・以上の教養 (2008/10/20)」。


ところが高校まで下手に受験勉強しかしていないと、学ぶ意欲や喜びが干からびてしまい、受験を離れた常識的教養がおそろしく貧困な場合があります。


その時は大学でリハビリしてね。


自由な時間で、学ぶ根源的な喜びや、鋭敏な知的好奇心を取り戻してね。(子どもの時はきっとみんな持っていたはずよ)。


大学最初の教養の授業は、大学時代で得られるもっとも貴重な経験となりえます。

現在のみんなのつまんない価値観(ごめんね)で、「こんなの役に立たない」とか「先生の授業が下手」とか評論家口を叩かずに、その授業を通じて、自分の知的世界を豊かにしてね。授業に対する文句は、授業アンケートの時に集中的に書いて、日頃は文句を言うより、自分の世界を豊かにする工夫を重ねていってね。


英文法の基礎と常識的教養、そして学ぶための感性と意欲が身体化されていたら、あとはGoogleにどんどん(英語で)尋ねたら、あなたの知的世界はどんどん加速的に豊かになると私は思います。



あ、忘れていた。遠田和子(2009)『Google英文ライティング - 英語がどんどん書けるようになる本』(講談社インターナショナル)の紹介をするつもりだったんだ(汗)。

この本に書かれているGoogle検索技術ぐらいは当たり前の常識にしてね。





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追記

思い出した。何人かの学生さんは異口同音に「僕たちは何がいい情報で、何がよくないか情報かわからないんです」と言っていたんだっけ。情報洪水にまさに翻弄されているみたいだったんだっけ。


その時に答えたのは

「古典を読んでね。多くの人がいいと言っている作品を真剣に読んでね。
その時にわからなかったら、正直に『わかりませんでした』と言っていいけど、決して『これは古典と呼ばれているけどたいしたことはない』なんて評論家口をたたいちゃ駄目よ。
また中途半端にしかわかってないくせに『ああ、ああ、○○ね。○○はさぁ、結局・・・』なんて偉そうな口のききかたしちゃ駄目よ。古典は誰もその可能性を掘りつくせないから『古典』と呼ばれているのだから」

といったこと。


どんな人間になってもいいけど、自分が常に最高・最良の判断をしている人間だと信じて疑わないような人間にはならないでね。自らの正しさを少しだけ疑う回路を自分の中に組み込んでね(疑いすぎても駄目だけどね)。


そのためには、自分の判断をひとまず停止させて、わかるまで古典と格闘するという訓練は大切なことよ。

(そしてわかることはわかると、わからないことはわからないと正直かつ謙虚に言うことも大切よ)。



わかりやすいものばかり読んでいたら、いつまでたっても自分の知的世界は広くも深くもならないよ。(というより自分の「個性」という癖のせいで、どんどん狭く偏り歪んだものになるよ)


というわけでブログを読むのはここで終えて、謙虚に古典を読みましょう。

(といってこのブログ作者もネットを閉じるのであった 笑)。



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