2009年3月22日日曜日

これを知るを知るとなし、知らざるを知らざるとなせ。これ知れるなり。

以下は3月23日の卒業式に、講座の卒業生・修了生に語る予定の原稿です。私の講座ではこういった機会に二分以上話をしますと叱られますので、以下の全文を言えないかもしれません。また、一部を省略した版ででさえ早口で語らなければならないかもしれませんので、ここに私が本来は言いたかった全文--これでもずいぶん端折った言い方をしています--を書いておきます。

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孔子の『論語』の一節に「これを知るを知るとなし、知らざるを知らざるとなせ。これ知れるなり」というものがあります。私は高校生の時に、まあなんと当たり前の面白くないことを孔子は言っているものだと短絡しましたが、卒業論文・修士論文・博士論文を書き終えて卒業・修了する皆さんには、この言葉の深い意味がわかるのではないでしょうか。

自らの主張が妥当性のある「知識」であるということを示す論文を執筆する中で、私たちはしばしば自らの論証の弱さ、不安定さ、不完全さ、矮小さなどの限界に気づきます。論文発表では論証の限界よりは妥当性の方を強調しますが、人間としては自らの知の限界を明確に自覚することが、自らの知を誇ることよりもはるかに大切かもしれません。

人類がここ数百年で成し遂げた自然科学の知識の量はまさに驚嘆すべきものですが、それでもその知識の限界は明らかです。人間は、他の動物と同様、自らの認知能力をはるかに超えた複雑性をもつ世界を生きてゆかなければなりません。しかし人間は他の動物と違って、言語をもち知識を集積しますので、しばしば自らの知を過信し、自らの知識の限界を知らないまま知識を適用し応用し、しばしばこの世界のバランスを崩し、自らの人生の調和も乱してしまいます。

人間は知れば知るほど傲慢になるのではなく、知れば知るほど自らの知の限界を知り謙虚になるべきかと思います。

知ることにより謙虚になる。謙虚になることにより、こうして世界が成立していることに対する畏敬の念をもつ。畏敬の念により、この世界にいる人々、自然、そして自ら、つまりはすべての存在を愛する。これが学ぶことではないでしょうか。

これからも皆さんは多くのことを学ぶでしょう。願わくはその学びが皆さんに傲岸さでなく、存在への愛を与えますように。

皆さんの幸福な人生を心よりお祈りします。





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