考えてみれば、研究者に「専門」はあっても、その「専門」は高い壁に囲われてはいません。研究者が中心とする研究対象、主に使う研究方法はあっても、それらは固定的なものでも排他的なものでもありません。生命を研究する生物学者は、当然のように化学に分け入ります。化学は電子の性質などに代表されるように物理学と連続したものです。また生物学者は例えば進化の研究で、進化の証拠を求めるために、プレートテクトニクス理論を勉強したりします。センター試験には「物理」「化学」「生物」「地学」という区分が設けられていますが、この複合的な世界を研究するサイエンティストにとってそのような区分はほとんど意味をもちません。自分が知らなかったら勉強するだけです。
ひるがえって人文・社会系は、ひょっとしたらサイエンスに比べて縄張り意識が強いのかもしれません。英語教育界でも、ちょっと議論の枠を広げたり、方法を変えたりしたら「それは教育学であって、英語教育学ではないのではないですか」などという(私からすれば馬鹿げた)「批判」がされたりします。ひどい場合には「それは英語教育方法学ですか、それとも英語教育内容学ですか」などという、その人とその人の取り巻き以外には何のことかよくわからないような「批判」がなされます。反面、いったん個人心理学的量的研究法が標準的とされると、今度はそればかりにこだわってしまって、それ以外の方法を認めなかったり、その方法と研究内容に齟齬があっても、そのことは語らないことが暗黙の了解になってしまったりもします。研究ばかりでなく、教育においても、教育の方法と内容がただ惰性的に続いているようにも思えます(注)。ひょっとしたら人文・社会系の研究者は、サイエンティストに比べると自由で創造的な勉強が足りないのかもしれません。
その点、ESP(あるいはEAP)で地道な実践を重ねる大学英語教師というのは、大学英語教師の中で、最も自由で、創造的であり、開拓的で、責任ある仕事をしている人たちなのかもしれません。姿勢において最もサイエンティストに近く、かつ最も学生の成長欲求に忠実であろうとする良心的な教師なのかもしれません。
話はずいぶん大きくなってしまいましたが、この本は大分医科大学(現・大分大学医学部)に着任以来、ABC, CNN, PBS, BBCなどの一般媒体での医学ニュースを教材にするだけでなく、NIH, CDC, FDAなどのメール配信やJAMA, Johns Hopkins PodMed, Lancet, NIH, NEJM, NPRなどのポッドキャストで勉強を重ね、今では日本語メディアよりも早く医学の話題を授業で取り上げ、何よりも自らそのような勉強を楽しんでいる良心的な大学英語教師によって書かれたものです。
自戒をこめていうならば、大学英語教師はもっともっと「専門」の英語ニーズに敏感であるだけでなく、実際に「専門」で使われている英語、そしてその「専門」そのものの理解に力を注ぐべきかと思います。もちろんそれは容易なことではありませんが、それが高度知識社会の実態だと思います。
大学でESP(あるいはEGP)を積極的に推進されている方々にエールを送ります。
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(注)あるいは逆に大学経営陣によって、大学英語教育が「英会話」「海外研修」「資格試験」などに流れてしまうことも多々見られることですが、私は教育が世間の声に迎合しすぎるのも危険なことだと思っています。大学は大学の本質の不易の部分と流行の部分をきちんと考える必要があることは言うまでもありません(私のような愚者が言うことではありませんね 笑)。
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(注)あるいは逆に大学経営陣によって、大学英語教育が「英会話」「海外研修」「資格試験」などに流れてしまうことも多々見られることですが、私は教育が世間の声に迎合しすぎるのも危険なことだと思っています。大学は大学の本質の不易の部分と流行の部分をきちんと考える必要があることは言うまでもありません(私のような愚者が言うことではありませんね 笑)。
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