2010年3月2日火曜日

小学校英語教育という「物語」をどう創り育てるのか

慶應義塾大学の大津由紀雄先生が、「第6回全国小学校英語活動実践研究大会に出席して」という文章をウェブ公開されました。

「お知らせ」の箇所を参照のこと


小学校英語教育に関しては様々な紆余曲折がありました。2000年代前半からの「狂想曲」とも称された「とにかく導入するしかないんです」の「空気」(山本七平)には、私自身も抗しがたいという気持ちになっていたことを正直告白しなければなりません。

しかしその小学校英語教育全面実施の秒読み段階に達した昨年、これまでの日本の政治文化を一変する民主党の政権交代という出来事を日本国民は選択しました。そこから生じた「事業仕分け」により、英語ノートや電子黒板などの「英語教育改革総合プラン」は廃止されました。「流れというものは、こんなに急に変わるものなのだ」と私は思いました。私は政治についていろいろ考えようとする人間ですが、それでもこれまでの日本の政治文化に慣れきっていたからなのか、政治権力の強大さをきちんと理解していませんでした。

平成22年度に関しては英語ノートを従来どおり無償配布する予算の裏づけは取れましたが、今後は不透明な状況です。

また、英語ノートを離れても、小学校教員に十分な研修の機会も時間も与えないまま英語教育を行なおうとすることの問題を指摘する声は絶えずあります。さらに今回大津先生が報告しているような「教室で先生が間違った英語を使って、ほんとうに大丈夫なのでしょうか」といった≪御法度≫の質問も世間には潜伏しています。

もちろんそう言った声に対して国も地方公共団体もそれなりの措置を講じて応じようとしています。しかし、そういった措置もきちんとした理念に基づく計画があってはじめて有効なものになります。また計画の実行には予算が必要であり、予算を獲得するためには、英語教育関係者といった狭い範囲を超えて広く市民そして市民を代表する政治家を説得しなければならないことは、事業仕分けが教える通りです。

単純に言い切るなら、これまでは、役所が決めた教育行政方針は「不動の真理」であり、教育関係者はひたすらにその「不動の真理」をどう粛々と、そして円滑に実行していくかだけを考えるだけでした (実際、役所の方針には決して逆らわないこと、それどころか少しの疑問も抱かないことを金科玉条にしている英語教育「学者」 (!) は存在します)。

ですが一度政権交代、政治権力のダイナミズムを知った日本国民は、もう役所の決定をそのまま鵜呑みにすることはないでしょう ― 考えてみれば90年代後半からの官僚不信で日本国民は役所の無謬神話を信じることを止めていました―。「与党」も変わりうるのですから、「政府」 (あるいは誤解を招く表現ですが「国」) の決定も決して「不動の真理」ではありません。


「役所」も「与党」も「国」も、その存在だけで政治権力を維持することはできません。

そうなると何が政治権力を奪取するのか。



アレント的な言い方を借りるなら、それは人びとの開かれたコミュニケーションです。


しかし開かれたコミュニケーションも、そのままでは百花繚乱で収拾がつきません。


開かれたコミュニケーションは、人びとが共感し納得する「物語」を求めます。


人びとの共感と納得を得た「物語」が政治権力を獲得します。政治的な現実になります。


小学校英語教育は今まで以上に「物語」を必要としていると言えるでしょう。



しかし「物語」といっても、それはデマカセを意味はしません。

「物語」は、哲学的・科学的に整合的な理念に基づき、様々な現実に合致し、人びとの共感と納得を呼ぶだけの意味を持ち合わせていなければなりません。


小学校英語教育のこれまでの「物語」 ― 事業仕分けで廃止の憂き目にあった「物語」 ― はこれまで、脆弱な理念しか持ち合わせていなかったと言えるかもしれません。様々な教育現場の現実を無視・黙殺してきたのかもしれません。「英会話熱」のような世論迎合はあっても、理性的に考えようとする市民に訴えかける「意味」あるいは説得力をもっていなかったのかもしれません。

しかし制度はスタートしようとしています。一年目の英語ノートの予算だけはついたものの、その後は不透明な状態で。やる気に充ちた人びとがいる一方で、見通しがもてず途方にくれた人びともいます。小学校英語教育の成果に未だに過剰な期待を抱く人もいれば、まったくといっていいほど知識をもたない人もいます。しかし制度はスタートしようとしています。誰もゴールを知らないままに・・・。パンドラの箱は開いてしまいました。



大津由紀雄先生の今回の文章は、パンドラの箱が開き、様々な災厄が飛び出してきた現状において、小学校英語教育の「物語」を再生 (あるいは新生) させようとする試みのようにも思えます。


私たちはこの「物語」を受け止めるのか。あるいはどのように修正しようとするのか。それとも異なる「物語」が出てくるのか。


「物語」なしには政治権力は迷走するばかりです。政治権力の迷走は災厄を生み出しかねません。

哲学的・科学的整合性と、現実性と説得力を持ち合わせた「物語」を私たち英語教育関係者は創り育てる必要があるでしょう。



⇒慶應義塾大学「おおつ研究室ウェブサイト」へ





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