本書全体を貫く主題は「生きている人間にとってリアルなもの/リアリティとは何か」である(1ページ)。かくして著者は「普通」のリアリティだけでなく、統合失調症患者や宗教者が感じるリアリティも「普通」のリアリティと「陸続き」のものとして理解しようとする。結論は「さまざまな視点からアプローチしたつもりだが、率直にいうと、明確な結論は得られなかった」(299ページ)である。
だが私などからすればむしろ一冊の本で「明確な結論」が出る方が怖い。こういった問題は、単純明快な図式的解答で満足するより、奥深さと底知れなさを実感しながら少しずつ探究していく方が妥当だと思う。私はこの本の読書を楽しんだ。
■ 物語論
「さまざまな視点からアプローチ」の一つが物語論である。ここでは本書で引用された箇所をいくつかそのまま紹介する。
物語は、人間が時間や個人的な行為の経験に意味を与えようとする企てである。物語の意味は、人生の目的を理解する際に形を与え、毎日の行動や出来事をエピソードの組み合わせへと結びつける働きをする。[そして物語の意味は、]自分の人生の過去の出来事を理解し、未来の行動を計画するための枠組みを提供する。それは人間の存在を意味あるものとする重要な企てなのである。
D.E. ポーキンホーン(Polkinghorne, D.E.)「物語的に知ることと人間科学」(1988年)。(Donald E. Polkinghorne (1988) Narrative Knowing and the Human Sciences. State University of New York Press.
人がそれに向かって行為し、そうなろうと求める解釈学的目標は、人生を意味ある全体として見る方法であり、それによって自分の人生における種々の出来事が一つの独自な物語として作り上げられ始める。行為の目標となる人生のヴィジョンは、無関係な出来事の無意味な連続ではなく、人生の相互連関した行為を意味ある全体として見ること ―すなわち、さまざまな行為を一つの特定の物語へと解釈的に織り込んでいくこと― を可能にする。
P.ブロックルマン『インサイド・ストーリー ― 宗教の再生』小松加代子訳、玉川出版部、126ページ (P.T. Brockelman (1992) The Inside Story: A Narrative Approach to Religion: Understanding and Truth. New York: State University of New York Press.)
それらがストーリーとなって他者に語りうる経験となるとき、つまり<始まりがあり、中間があり、終わりがあるような、意味のある一貫した一連の行為>として表現されるとき、それはすでにそれ以前の混沌とした状態から、新たな経験へ向かって出来事を整序する治療的意義をもつ
江口重幸 (2003) 「病の自然経過とその物語的構成 ―精神科臨床における民族誌的アプローチ」『新世紀の精神科治療8』中山書店、62ページ。
■ ウィトゲンシュタインについて
この本のもう一つの柱はウィトゲンシュタインである。星川啓慈先生については、私も昔『言語ゲームとしての宗教』を大変面白く読んでいたが、この本の論考も面白く説得力あるものであった。
第三章「自己嫌悪する自分から「あるがまま」の自分へ ―ウィトゲンシュタインのキリスト教信仰」は、
ウィトゲンシュタイン著、鬼界彰夫訳(2005)『ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記』講談社を読んでいた私としては、得心することばかりだった。
第六章「ウィトゲンシュタインの「確実性」の追求 ―『確実性について』にうかがえる「基本的信頼感」の再獲得」で星川先生が非常に慎重に提示している、書き手としてのウィトゲンシュタインの心理と彼が実際に書いたものの間の関係(表面的な矛盾)についての解釈なども、私にとってはまったくその通りと思えるものだ(「原典を大切にする」態度は時に教条主義に陥るのだろうか?)
統合失調症と宗教、さらにはウィトゲンシュタインといえば、特異的な話題で一般性に欠けるとも思われるかもしれないが、私にとっては人間にとっての現実を考えるいい契機になった。
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